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第九章:其の三:見る影紅く、去り際白く

 ***荻窪の日常***  荻窪はちびの首輪から牽き綱(ひきづな)をほどくと、そっと廊下へとちびを置く。  いつものようにとててて、と軽い足音を立ててちびはどこかへ走っていった。水でも飲みに行ったのかもしれない。  荻窪はそんなちびの姿を見送ってから、高梨に振り返る。少しうつむいて何かを考え込んでいるような、そんな素振りの高梨に、声をかけようか、それとも──。悩んでいると、高梨はついと顔をあげた。 「先生、せっかくなんで早く食べましょう、ちびにもごはんをあげなくちゃいけませんし、ね。」  無理に取り繕うような明るさを含んだ声に、荻窪はさっきの香世の言葉を思い出す。高梨が引っ掛かっているとしたら、香世の言葉しかないだろう。だが、いまはそれを深掘りする時ではないと思い、そっと心にしまい込んだ。  まずはお腹を満たすこと。ちびのお腹を満たすことがなによりも大事──荻窪はちびを保護した当時の小さな印象がどうしても抜けないまま、ちびの成長を心もとなく見ていたのだ。 「ああ、じゃあ、先に居間に行ってておくれ。私は少し濡れてしまったから着替えてから行くとするよ。」  荻窪は下駄から素足を抜き取ると、靴箱の上に置いてある手拭いで軽く足を拭き、奥へと向かった。いつもの、「書斎」と称している庭を一望できる部屋の隣が、荻窪の私室でもあり、そこへ足を向ける。  雨の湿気を吸って少し重たくなった着物を脱ぎ、家で着られるようなやや軽い、またしても着物に着替えた荻窪は、洗濯物をしないとな、と先ほどの手拭いを洗濯物をまとめる竹籠へと放り込んだ。  ふと、いつぞやのことを思い出す。高梨がびしょ濡れで着替えを貸してほしいと言った時の話だ。ここの部屋で彼は着替えたのだっけ。思い出してから荻窪はひとり、喉の奥で笑いとなにかもうひとつ、苦みのある感情をかみ殺した。  今日の高梨も雨に濡れているのだから、着替えを渡さなければ。 「待たせたかい?」  荻窪が居間に姿を見せた時、高梨はちんまりと膝を抱えながらちびにごはんを与えているところだった。小さな声でなにかをつぶやいているのが聞こえて、それは破片となって荻窪の耳に飛び込んでくる。 「先生、猫……だったって……知って……、」  小さな声なので細部までは聞こえない。だけど、単語で聞こえるその言葉で、香世との会話を思い出して、荻窪は高梨がそこに引っ掛かってるのだということを改めて認識した。  参ったな、と片手に持っていた、高梨のための着替えを持つ手に力が入る。荻窪の視界に映る高梨とごはんを食べるちびの姿がほんの一瞬、過去の出来事と重なって心が震えた。 「高梨くん、きみも着替えたほうがいい。」  重なった記憶を振り払うように、荻窪はいつもよりも少し声が強く出た。少しだけ過去への気持ちがまだ整理できていなかったのか、と荻窪は息を飲む。少しだけ震えた手がいつも貸している着物を差し出して、高梨がそれを受け取る瞬間に。 「洗面所で着替えておいで。」  場所の指定をするのも忘れなかった。前のように、私室での着替えを勧める勇気など、荻窪にあるはずもなかったからだ。 「あ……りがとうございます。」  高梨はこう見えても、荻窪のことをよく見ている。いつもなら多少のことでは動じない高梨もまた、荻窪のいつもとは少しだけ違う空気を敏感に感じ取っていた。だからこそ、それ以上の言葉を飲み込んだ。  ***荻窪の怪談***  地主の息子は毎晩毎晩空を見上げた。それこそ暑い日も、寒くて凍えそうな夜も、一日も欠かさずに。そうして自分の睡眠時間までもを月に向け、うさぎを想い乞うていた。しかし、地主の息子には分からなかった。  なぜそこまで自分が月のうさぎに惹かれるのかを。  いまよりも幼いころ、まだ自分の母が元気だったころに何度か聞いた眠りの夜話の中の一話でしかない、そのうさぎ。  母は流行り病でこの世を去って、息子はひとり残された。  父親は仕事が忙しいとあまり構ってもくれず、祖母に至っては「あの女の息子なんて体が弱いに決まってる」と決めつけて、近寄りもしなかった。  息子は、幼いながら孤独だったのだ。  うーさぎ、うさぎ、なにみて跳ねる? 十五夜お月様みて、はぁねぇる……。  息子はとうとう、病におかされてしまい床に臥せるようになってしまった。それでも、毎晩毎晩、夜になれば月のうさぎを見上げてはため息をつく。 「かあさま、ぼく、うさぎに会いたいよ。」  小さな声は、闇の静けさと月が放つ淡い光に溶け込んで、誰にも届かない。

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