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2月
仕事の都合で昨年末の慌ただしい時期に引っ越してきてから、二ヶ月ほどになるだろうか。
二月に入って一層、朝の空気は頬を切るように冷たい。
新しく引っ越してきたこの街は駅を挟んで街の雰囲気がハッキリと変わる。
向こう側はファミレスやら居酒屋やらが多くて夜でも明るいし、仕事帰りの人や学生で遅い時間でも人通りが途切れない。
オレの住むこちら側は住宅街で、コンビニと小さな店がぽつぽつあるくらいで遅い時間は人通りが少なくなる。
それなりに夜勤もあるこの生活には、このくらいがちょうどいい。
なんとなく夜勤の日は電車通勤にして、通勤通学が終わって静かになり始めた朝の道を歩いて帰ることにしている。
今日も例に漏れず駅からうろうろと散歩しつつ帰っていると、坂を上っている途中で雨が降ってきた。
降り始めはぽつぽつといった感じだったが、歩を速めるのに合わせたように雨脚も強くなる。
遠回りをやめて家へ帰ろうと走り出すと少し先に花が見えて、オレは慌てて軒下に駆け込んだ。
「野ノ花生花店 ?」
駆け込んでみてわかったがここは花屋だ。
深い色の外壁に、大きなガラス戸。装飾らしい装飾はほとんどないのに、どこか目を引く。
一瞬店だってわからなかったのは、木の看板に書かれた店名が控えめなせいだろう。
店先にはいくつか鉢植えが置かれていて、花に疎いオレでも手入れが行き届いているのがわかる。
ガラス越しに見える花の色だけが、静かな通りの中でやけに鮮やかで意識がゆっくりと吸い寄せられる。
「青い、花……」
ふと視線を落とした先にある青い花を見て、不意に幼い頃青い花をもらったことがあったのを思い出した。
脳裏に浮かぶのは、ガキの姿の自分。鮮やかな青い花を差し出したのは、男だ。大人の。
「特別な花だよ」
穏やかに笑っている男の口が、軽やかに動いてオレにそう告げる。
喋っているのはわかるのに声が聞こえてこない。そこまでは思い出せない。
見覚えがあるような、ないような場所。目の前の花と男の印象が強すぎてぼやける。思い出そうとしても全然くっきりしない。
うーん? と首を捻っていると年季の入った鈴の音を鳴らしながら、店のドアが開いた。
「いらっしゃい」
「えっ、あっ。あのオレ、客じゃなくて」
突然、店の人が現れて驚いた。いやそりゃあ、いるだろうしこんなでかい窓なら中からでも見えるだろうが。
思わず客じゃないって言っちゃったけど、客でもねえのに勝手に雨宿りしてんのも悪いか。
店主と思われるその男は一人狼狽えているオレを見て、ゆるりと首を傾ける。
「すみません。雨が突然降ってきて……あの、花買う予定はないんですが少し雨宿りさせてもらえたら助かります」
花なんて、生まれてこの方買ったことがない。いや、ガキの頃母親に一度はカーネーションを贈った記憶があるからないというのは嘘になる。ただこんな花屋らしい花屋ではない。
だからつまり、買ったとて飾る花瓶の用意すらないので植物を買って行くのは抵抗がある。
でも例えばここがコンビニだったらオレはジュースの一本は買って行くかという気持ちになるだろう。だから図々しいお願いと理解しつつ頭を下げる。
「構わない」
「えっ、いいの?」
「その代わり、この辺の花しまうの手伝ってくれ。それでタオルも貸す」
「すげえ助かる! ありがとうございますっ!」
やや無言の間があってから冷静な声が、耳に届き一度は頭を上げるもオレは再びそれを下げる。
雨脚が更に強くなる中、礼を言うと店主は「いいえ」とだけ言った。
軒下に残しておく分をさっさと分けると「これ以外を中に。後で片付けるから場所は適当でいい」と短い指示をくれるので、オレは言われた通り大きな鉢やらバケツやらを店内に運び入れる。
見た目の印象から軽いだろうと思っていたが、水や土がある分しっかりと重さがある。
驚いたのもあってどう持つのが正解なのかわからなくなり、一度持ち直した。
崩れやすいものなのかも判断が付かなくて、慎重に運ぶことにする。
「そこに」
余計なことを言わない指示に、従う。
言われた分を入れ終わった頃には、オレの息はすっかり上がっていた。
あと腕が痛い。体力も力もある方だと思ってたが、普段使わない筋肉使ったのがわかる。
本来ならこれを店主である彼一人で運ぶはずだったんだろう。男といえど、骨が折れるだろうな。
「余計濡らしてしまったな。中に入ってタオル、使ってくれ」
「店、濡れて平気?」
「平気。足元には気を付けて」
片付けを終えても慣れぬ空間にどこにいたらいいのか迷って奥にはいかず、入り口辺りで突っ立ってたらタオルを取りに行った店主に中に入っていいって言われたので彼がいる方へと向かう。
つい自分が濡れてるのを心配したけどそうか。花屋だ。水仕事もあるよなと納得する。
店の中は花の鮮度を保つためなのか、外より僅かに暖かい程度。
先に濡れた髪を拭いている店主からタオルを受け取って、オレも髪や服を拭いていく。
ふわっ、と店の中を抜ける風に身震いをしたら「ああ」と呟いた声が届いた。
「店内といえ暖かくないからな。お茶も淹れる。こっちおいで、まだマシだ」
「いやっ、雨脚落ち着いたらすぐ帰るから」
「手伝ってもらったのに風邪ひかれたら悪い。いいから、こっち座って待ってろ」
「はい……」
冷静な声に言われると、怒ってるわけじゃないのに圧があるな。
言われるがまま、店の奥にある作業台と思われる広いテーブルの傍に置かれてる椅子に腰を下ろす。
それを見て店主はバックヤードへ行ってしまった。階段を上る音がするから、きっとこの上の階も店の一部になるんだろう。
なんというか、不思議な人だ。不愛想というか表情がほとんど動かない。声もしゃべり方もずっと淡々としている。
でも冷たいというより、静かって感じ。
見た目で言えば背も高くて、細身で、脱色して放置されているのか根元が黒くなっている金髪はぱっと見華やかなのに。
花の中にいると、あの人の存在は妙に浮いているように見える。
そんなこと言ったらオレの方がよっぽど場違いか。こういう場所はあまり似合う方じゃないと思う。
「熱いから気を付けて」
一人残された店内でぐるぐると思案していると、暫くして淹れたお茶を持って店主が下りてきた。
差し出されたマグカップを受け取り、数度息を吹きかけてから口を付ける。冬の朝、その上雨で冷えた体には染み入る。
なんというか、突然風呂に浸かったみたいにビリビリする。
「あったかい、です」
「帰ったらちゃんと温めてください」
「ん、はい」
さっきまでくだけた話し方だったのに、突然敬語になる。敬語なのに、そっちの方が穏やかに聞こえるのなんかちょっと変な感じしたけど、なんとなく合ってる感じもする。
再びお茶を数口飲んでから顔を上げて、店内を店主をこっそりと視線で追う。
男は花バケツから数種類の花を数本ずつ選んで取り出すと作業台の上で慣れた手付きで茎の長さを切り揃え、ラッピングしていく。
一連の動きには迷いもあまりなくそれでいて丁寧で無駄がない。綺麗な手によって鮮やかな花が包まれていくのを眺めていると、ところどころに小さな傷があるのが見えた。
物珍しさにいつしか熱くなっていたオレの視線に気付いたのか、作業を終え顔を上げた男と目が合った。
逸らすのも違う気がして軽く頭を下げたけどこれも絶対違うな。
オレとは反対に、彼の色の薄い瞳はオレのことを真っ直ぐに射貫いた。
「ごめん、見すぎ?」
「いや」
ふと邪魔をしたかと思って聞いてみたけど、短い言葉で否定されただけだった。
好きにしろともいう感じじゃない。でも、邪魔になるからと突っ撥ねるようなものでもない。
だからってどちらでもないというには言葉が違う気がする。この感覚を表現する言葉をオレは知らない。
ただ熱烈な視線を向けていた自覚はあるので、店主じゃなくて店内を見ることにする。
本当に多種多様で様々な色の花が並んでいる。
オレがわかる花なんて、片手で数えられるくらいで。だから店の中にある花のほとんどの名前を知らない。
聞けば聞いたことくらいはあるのかもしれないが。
でも店にあるたくさんの花たちは、同じ色でも少しずつ違って見える。
同じ白い花なのに、混じりのない白いものもあればうっすらと色が混ざっているものもある。
花をじっくり見るなんて今までなかったから知らなかった、こうして並んでいるのを見ると違いがわかるものなんだ。
「ん……」
花に囲まれた空間を見て、ここならさっき思い出した青い花の正体がわかるのかもしれないと思った。
でも、わざわざ聞くほどのことでもないか? 子どもの頃に見た記憶があるってだけの花を?
今すぐ思い出せなくても困るわけでもない。きっと数日後には思い出したことも忘れてしまいそう。
それでも。
それでも聞いてみてもいいかもしれないという気になったのは、なぜだろうか。
ただ彼になら聞いても変に思われない気がした。
「あの」
意を決し、別の作業を始めていた店主に声をかけると彼はわざわざその手を止め、オレの方を真っ直ぐに見た。
なにとも聞き返さずただ無言で向けられたその視線に耐え兼ねてオレは慌てて言葉を続ける。
「オレ、花って全然詳しくないんだけど」
オレが話し出しても、彼は黙ってオレを見ているだけだ。
ただ話を急かしている感じはなく、静かに待ってくれているように思える。
「青い花って、ある?」
軒下で思い出した青い花のことが頭に残っていたので聞いたけど、今まさに男が片付けようとしていた鉢に青い花が刺さっていて突如として恥ずかしさが湧き上がった。
彼はそれを一瞥してから、更には考えるように首を傾ける。
「ある。これもそうだし、他にも種類は多い」
「あ、そ、そうだよな」
完全に間抜けの質問だ。「これもそうだ」と言ってくれた彼の優しさに感謝しかない。
マグカップで口元を隠して情けなさを誤魔化していると、それを見た男の目が一瞬。本当に一瞬、柔らかくなった。
「探してるのか、青い花」
「探してる」
なんだろう、突然空気が変わった。彼の纏う雰囲気も、声も。急に優しくなった声に問いかけられて即答したら「そうか」とだけ返ってくる。
「昔、多分……小学生くらいの頃。もらったことがある。名前も全然わからないけど」
「形もか?」
「覚えてない」
「大きさは」
「正直、青い花だったことくらいしか覚えてない」
折角特徴から探してくれようと色々聞いてくれるのに、オレの記憶が曖昧過ぎて話にならない。
彼は考え込むように眉根を寄せ、エプロンに引っ掻けているタオルで濡れた手を拭く。
「ごめんなさい。こんなんじゃ無理だよな」
情報がなさすぎる。これじゃいくら花に詳しい人だって匙を投げるよな。
申し訳ないと謝罪するオレに、彼は首を少し傾げながら「あー」と零した。
「青い花は、多い」
淡々と同じ事実を告げられ、オレもそうですよねと頷くしかできない。
でも諦めるオレとは反対に、彼は落ち着いた声で「でも」と続けた。
「特徴がわかれば絞れる。探しようはある」
「え?」
「昔の記憶だから思い出せない。目の前にないからハッキリしない。なら見たらわかるんじゃないか」
曖昧な記憶ならしょうがないと当然のように零す言葉に、沈んでいた気持ちがゆっくりと浮き上がってくる。
決して問うような口振りではなかったが、オレを見る目が「違うか?」と問いかけていた。
それに幾度も頷いて返す。
「うん、うん。見たら思い出すと思う」
これまでの人生で記憶に引っ掛かるほどの花を見ていない。なら、同じものを見たらオレにだって思い出せる。
救い上げた心のまま、勝手に自分の顔が綻んだのがわかった。
それを聞いて彼は小さく頷き、店にある青い花を指差していく。
「今の時期でもこれだけある」
「この、中には……ないかも」
「季節によって当然咲く花は変わる。この店は小さいから置く花は限られてるが……その中にある可能性はゼロじゃないだろ」
「え、あの。それって?」
指された先を視線で追うが、同じ花だと感じ取れるものはない。だってオレの記憶になるあの花は、とても色鮮やかだった。
首を振るオレに、ならと言いたげに彼は言葉を続ける。落ち着いて、淡々と、それでいて優しい声で。
だから意図を汲み取れなくて首を傾げたら、呆れられたのか目を伏せられてしまった。
「店、時々来て見て行ったらいい。いくらだって」
「それって冷やかしじゃ……」
買うのが目的じゃないから、迷惑になるんじゃないかと呟くと彼は瞼を僅かに持ち上げ。
落とした視線を左右に動かし深くなにかを考えてから再びオレを見て、ゆっくりと口を開いた。
「客の探している花がどんなものかを考えるのも、花屋の仕事だ」
「曖昧な、思い出の花でも?」
「探してるんだろ」
「うん」
「なら、一緒に探す」
いくら、仕事だからって。ここが小さな花屋だからって。面倒事だってオレにだってわかるのに。
一緒に探してくれると言ってくれたのが、本当に嬉しい。
飲み込めない歓喜のため息が勝手にオレの口からほあ、と零れ落ちて。塞ごうと閉じた口が勝手ににやける。
「名前」
「え?」
「名前を聞いてもいいか? さすがに忘れないと思うが、俺はあまり……人の顔を覚えるのが得意じゃない」
気まずそうに逸れた視線に、得意じゃないに込められた意味を察する。だいぶ苦手なんだろうな。
こういう商売柄、苦労しそうだ。オレも他人に興味ある方じゃないから言わないが。
でも初めてこの人の感情が見えた気がする。
「ナカハラ。永原紡葵 。花屋さんの名前も聞いていいか?」
「瀬名深澄 」
「セナサン」
オレも知りたいからと聞いたらものすごく簡潔に答えてくれた。
どっちも苗字みたいに聞こえたけど、恐らくセナが苗字で、ミスミが下の名前。
知り合ったばっかりで下の名前はいくらなんでも距離を詰め過ぎだから、今後そう呼んでいいか聞くように一回呼んでみたら首を振られた。
しまった、セナの方が名前だったかもしれない。
「それなら瀬名でいい」
「ずっとこんな感じで喋っといてなんだけど、絶対そっちの方が年上じゃねえ?」
「うん、でも別に」
「本当に? 遠慮しないよ?」
「ああ」
「じゃあ……セナって、呼ぶ」
ちゃんと聞いたわけじゃないから正確なところはわからないが、多分、恐らく。絶対。彼の方が年上。
でももう一回確認してもいいって言うから、そうすることにするって呟いたらまた「ああ」って言った。
「瀬名」
「ん?」
「タオルとお茶、ありがとな。また、来る」
花のこと、話してて気付かなかったけどいつの間にかあんなに強く降っていた雨は止んでいた。
通り雨だったようだ。
本当に呼んでもいいのかと確認をするつもりで彼を呼んだオレを、咎める言葉は一つもない。
だからお礼と、次の約束を口にすると瀬名は小さく頷いた。
「待ってる」
なんとなく、また「ああ」って言われるかと思った。
社交辞令かもしれないけど、その言葉はオレを喜ばせるのに効果抜群で。
それを誤魔化すのにオレの方が「ああ」って返事してた。
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