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第1話

☆本作品の内容はすべて、フィクションです。実際の人物・団体・事件などには一切関係ありません。 ☆本作は「オメガバース」の設定を用いた独自解釈の物語です。 ★ 四年前、医大のキャンパス。  朝陽にとって、橘碧空(たちばな あおと)は特別な存在だった。誰に対してもクールで、外科医を目指して脇目も振らず勉強に励む碧空。けれど、朝陽が図書館の隅で小説を執筆していると、彼はいつも隣に座り、何も言わずにコーヒーを置いてくれた。  朝陽は大学在学中からその才能を開花させ、新人賞を受賞するほどの小説家になっていた。そんな彼を一番近くで見守り、支え続けてくれたのが、他ならぬ碧空だったのだ。 ☆ 「……ったく、あの義兄さん、病院では『氷の外科医』なんて呼ばれてるくせに、家ではこれかよ」 朝陽の弟・蒼汰は、リビングで繰り広げられている光景に呆れ果てていた。  そこには、超一流の外科手術をこなす時と同じ、鋭く真剣な眼差しで「離乳食」と対峙する碧空の姿があった。 「いいか結空(ゆいと)、この人参ペーストの粘度は、喉越しと栄養吸収率を計算した黄金比だ。統計的矛盾はない。さあ、アーンしろ」 碧空は、まるで最新の医療機器を扱うかのような手つきで、離乳食用スプーンを赤ちゃんの口元へ運ぶ。しかし、まだ幼い結空にそんな理屈が通じるはずもない。 「……ぷいっ」 「なっ……!? 拒絶だと? 洗浄・滅菌工程に不備はなかったはずだが……。蒼汰、今のボウルへの飛散角度を見たか? 放物線から計算するに、おそらく味付けにわずかな偏りが――」 「義兄さん、理屈がうるさいって! 結空が困ってるじゃん!」 蒼汰が慌てて割って入る。碧空はショックを受けたように固まっていたが、朝陽が「あおくん、お疲れ様」と微笑みながら結空を抱き上げると、一瞬で「デレデレのパパ」の顔に戻った。  あのクールな天才外科医はどこへ行ったのか。蒼汰は友人に「うちの義兄さんが重症すぎる」と愚痴をこぼしながらも、大好きな兄を幸せにしてくれる、この不器用で熱すぎる義兄への信頼を、口元の緩みで隠しきれずにいた。 ☆ 橘家の庭が見えるテラスでは、彩人が志津子と穏やかなアフタヌーンティーを楽しんでいた。 「……こうして志津子さんとお茶を飲んでいると、ふと昔のことを思い出します」 彩人は、かつて夫を亡くし、幼い朝陽と蒼汰を抱えて必死に働いていた日々を振り返る。Ωとして独りで生きる不安、運命に翻弄された日々。  けれど、視線の先には――。 孫にデレデレになり、目尻を下げてあやしている厳(げん)。  玄関先で、朝陽を愛おしそうに抱きしめ、幸せそうに微笑む碧空。 かつての孤独な祈りは、今、最高に騒がしくて温かい「家族」の形になって目の前にある。 「彩人くん、どうしたの?」  志津子さんの優しい声に、彩人は意識を現実に戻した。 「いえ……今のこの幸せが、なんだか夢のようだなと思って」 「本当ね。若い二人が結ばれて、新しい命が繋がって。私たち、いいおじいちゃんとおばあちゃんになれそうね」 二人は顔を見合わせて笑い、温かい紅茶を口にした。橘家の庭には、柔らかな春の陽光と、絶え間ない家族の笑い声が満ちていた。 (おわり)

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