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第一話 君に似た、夏の魔物に
「夏ってさ。嫌いなんだ」
煙草をくわえながらそう言ったダイゴに、涼はうんともすんともこたえなかった。
蝉が鳴いている。
涼の自宅はもっと都心の、蝉がやすめるような木々などないような街にあるので、日頃、蝉の鳴き声というのはあまり頻繁に耳にするものではない。なので、たまに足を運ぶ郊外の図書館を訪うと、その音がとても耳につく。図書館の中は静かで、外でじーわじーわとさんざめく蝉の鳴き声は、館内にも容赦なく響きわたる。この街では、どこにいても自然の音が追いかけてくる。
涼にとって、それは非日常である。彼の日常の中には自然がないし、緑だって欠けていた。食卓に出てくる野菜以外には。
バイトの一つもしていない大学生にとって、長い夏休みはとても退屈だ。
この図書館は、家から学校に向かう際に乗る電車の通過駅にあるので、来るだけならば交通費すら気にしなくていい。これといった趣味はなかったが、強いて言うなら読書が好きだという、まるで若者らしからぬ涼は、この夏、両親に呆れられるほど、学校か、あるいはこの図書館に足を運んでいた。ほかにすることもないのだ。
蝉の鳴き声がうるさい、この図書館で、今日も涼は本を読んでいた。
館内にいくつも設置されているソファーに座って、読むともなしに本を開いていると、隣に背の高い男が座った。少し見ただけでもわかるほど男のしぐさは粗野で、ソファーに座るのも、尻からどすんと落ちるように、である。静かな館内で、そんな乱暴な座り方をすれば、少なくともその隣で本を読んでいる涼には――実際、そのときの涼は、外からきこえてくる蝉の鳴き声のほうによほど集中していて、文字などほとんど追いかけていなかったのだが――迷惑がかかるはずだが、そんなことかけらも気にならない、といった様子で、まあぞんざいな男だと涼は思った。実際、集中を削がれたというほどではなかったし、さほど気になったわけでもなかったのだが、男の無遠慮さや、礼を失した態度は、少々鼻についた。
下手に関わり合いになっても困るし、これを読み終わったらかえろうかと涼は思う。ただ図書館で隣り合っただけで関わり合いになることなどそうそうないが、それでも、もしこの日、その「そうそう」がよりにもよって発生してしまったら困る。手にしていた文庫本は残り数十ページしかなく、三十分もあれば読み切ることができそうだった。本すら携えないままに、ソファーに座ってぼんやりと虚空をながめているだけの隣の男だって、三十分もすれば退屈でこの場を離れるかもしれない。涼は、散逸していた意識を集結させて、残りの数十ページを読み切ることに集中した。
思いのほか熱中してしまった。
専業主婦である主人公の、めくるめく不倫をテーマにしたラブストーリーで、テーマこそ涼の好みではなかったものの、いざ読み始めると、著者の豊かな筆力もあいまって、とたんに引き込まれてしまった。隣の男から気を逸らすために再開した読書だったが、その試みは見事成功したといえる。ラスト数ページの、怒涛の「墜落劇」が、読んでいて不思議なカタルシスをもたらした。
ふう、と満足げに吐息をもらした涼がふと横を見ると、数十分前に隣に座った男は、いまもなおそこにいた。
それだけならばまだよかったが、その男は何故か、涼のことを凝視していた。ふいに目が合って、驚いたように両目を見開いている。驚きたいのはこっちだと、涼は思った。
「…………?」
動揺したが、声をかけるのもはばかられ、涼はうろんな顔つきで男を睥睨する。
あきらかな敵意を向けられているというのに、男は平然とした様子だった。どこか“ま”の抜けた、ぽかんとした顔で、相変わらず涼を一心に見つめている。粗野な男だと思ったが、顔つきは案外毒気がないな、と涼は思った。ただ、切れ長の目もとにはどことなく陰があった。
「喉渇かないか」
男が、ふいにそう言った。その言葉が自分に向けられた誘いだと気づくのに、涼には少し時間がかかった。なにしろここは、静かで、人との交流などほとんど生まれえない(はずの)、図書館だ。
こんなところで、ただ隣り合っただけの男に声をかける人間など、ろくなものではない。
二十と少し生きてきた涼の、未熟ではあるが一人の大人としての直感がたしかにそう告げている。だが、そのときの涼が水分を欲していたことはたしかで、さらにいえば、その男が、第一印象からすれば不思議なほど、他人に不審さを感じさせない、ものやさしい口調でたずねてきたこともたしかだった。
合縁奇縁という言葉がある。不思議なめぐり合わせの縁、という意味の言葉だ。
涼はふとその四字熟語を思い出した。うだるような暑い夏、隣り合った不審者の誘いに乗ってみるのも、まあ一興だろうかと思ってしまったのだ。
連れ立って最寄りの喫茶店に入ったものの、名乗り合ったりはしなかった。男はなにを言うでもなく、まず煙草を取り出して、涼に断りを入れることもなく、火をつけた。僕が喫煙に寛容な人間でなければ、この時点でテーブルから立ち去られていただろうにと、涼は思う。この男が、気の利かない、やはり粗野な性分の男であることは、間違いがなかった。でも何故だか、嫌悪感といったものはなく、それどころか、そのぽけっとした顔立ちのせいだろうか、こういった気の利かなさもある種の愛嬌かもしれないと思わせる、不思議な雰囲気があった。
「なに飲む? コーヒー?」
「……あのさ、僕、金ないよ」
「意外だな。ボンボンっぽかったから、わりと持ってるかと思った」
「……ボンボンなことは否定しない。でもうち、おこづかいは必要最低限だし、バイトもしてないから、自由にできるお金なんかほとんどない。コーヒーの一杯くらいは、大丈夫だけど」
「そう。ならよかった。奢ってやろうかとも思ったけど、俺もそんな余裕ないし」
「大人なのに?」
男は、涼よりひとまわり以上は上のように見えた。背が高いし、その立ち姿にはどこか、現代を生きる大人に特有の、くたびれた風情がある。まだまだモラトリアムを生きている涼には、そういうニュアンスはあまりよくわからないこともたしかだったが。
「大人にもいろいろあんの。甲斐性なくてごめんね」
「いや、いいけど……」
そこまでストレートに謝られると、かえって困ってしまう。ずいぶん歳上のように見えるが、かといって、大上段にかまえているわけではいっさいないのが、この男の不思議なところだった。現代人らしい、くたびれた感じはあるのに、このくらいの歳の男なら持っていておかしくはない、傲岸不遜な感じが、これっぽっちもない。なんとなく気の抜ける、真剣みのない面差しのせいだろうか。くにゃくにゃと、まるで子どものように、煙草を噛みつぶしたりしているからだろうか。
「まあ、俺無職だからね」
男は平然と言った。
「……仕事してないの?」
「してるっちゃしてるけど、正規じゃない。日雇いってやつ。家はあるけど――ひなびた借家だがな――収入は安定してない。最近はほとんど働いてないし」
「そんなんで生きていけんの?」
「小金がある。それを食いつぶしてる」
「なにそれ。宝くじ?」
「いや。両親の遺産」
平然と言われたので、涼はそのボールを、さすがに受け取り損ねてしまう。キャッチボールはそこで途切れた。
実際に涼よりひとまわり上だったとして、それでも三十代半ばだ。両親を亡くすには、いささか早すぎるのではないかと涼は思った。だが、そんなセンシティブなことを、初対面で突っ込んでいいのかどうかもわからず、涼は黙ってしまった。
「そんなこの世の終わりみたいな顔すんな。悪かったな、驚いたか」
「……いや……、謝るようなことじゃ、ない」
「お前、名前は?」
「へ?」
「名前。きいてなかったろう」
ふいにたずねられて、名乗りを断る口実も思い浮かばなかった。まだ動揺していたのかもしれない。
「……涼」
信じられないほどすんなりと、涼はそうこたえていた。
「へえ。涼しそうな名前だな」
「りょうっていう音だけで、よく漢字わかったね」
「あ? 逆だよ。りょうって言やあ、『涼』って漢字があるな、って思っただけ。漢字それなんだ」
「……馬鹿そーに見えたのに、案外頭いい?」
「お前、けっこう言うな」
だが、気分を害したふうには見えなかった。涼は安堵する。思いのほかとっつきやすい男だと思った。むしろ、そういう人間でなければ、図書館なんて場所で、隣り合った人間に声などかけないのかもしれない。
「……そっちは?」
「ん?」
「名前」
「ダイゴ」
「だいご……」
「カタカナで、ダイゴ。漢字はないぞ」
「本名?」
「嘘ついてどうする。お前こそどうなんだ」
「僕だって、嘘じゃない」
「へえ。意外と素直だなあ。俺が言うのもなんだけど、こういうときは仮名のほうがいいぞ」
「じゃあ、ダイゴっていうのは仮名なの?」
「いや、本名だけど……」
「なら、僕だって本名でいいだろ」
「そういう問題じゃなくて……」
ダイゴは困ったように頭をかいた。くわえたままの煙草を離して、口腔内にたまった煙を
ふうと吐き出す。
「……なんで俺が説教なんかしようとしてるんだろう」
「だいいち、僕もう成人してる」
「……えっ?」
「二十歳こえてる。大人だよ」
ダイゴの言動が不審だったので、涼はつんと胸を張りながら、そう言った。下手したら、高校生とか、そのくらいに思われているかもしれないと思ったのだ。自分から誘い出して、名前までたずねておきながら、相手が名乗ったのが本名だとわかったら、とたんにまっとうな大人のように説教を始めようとして。ダイゴが涼のことを、大人からの庇護が必要な未成年だと思っている可能性はじゅうぶんにあった。
「あ、そーなんだ……」
「いくつだと思ってた?」
「……十八くらい?」
「やっぱり」
「悪い」
「いいです。べつに」
実際、涼の容姿は、お世辞にも大人っぽくはない。特別、服装が変だとか、そういうわけではないのだが、背が平均よりだいぶ低いことと、童顔であることが災いして、初対面の相手には、まず未成年だと思われる。涼はそのことを、特にコンプレックスだと感じているわけではなかったが、面と向かって仰天されると、いささか程度は業腹である。
「……あのさ」
「ん?」
話を逸らそうと思って、涼はダイゴに問いかける。途中、ウェイターが注文を取りに来た。ダイゴが片手を挙げ、「コーヒー二つ」と頼む。ウェイターはすぐに去っていった。
「なんで僕に声なんかかけたの」
「…………」
「ナンパっていうのも変だし、図書館なんて人に声かけるとこじゃないし……」
「でも涼はついてきた」
「そうだけど、べつに考えなしについてきたわけじゃない」
「そうなんだ?」
「悪い人じゃなさそうだったから……」
「…………」
「……ねえ、これってナンパだったりするの?」
言いながら、もしかしたらダイゴはゲイなのかもしれない、これは男を狙ったナンパなのかもしれないと不安になった涼が、おずおずとダイゴを見上げながらそうたずねると、ダイゴは思わずといった様子で噴き出した。
「違う。少なくともそういう目的じゃない」
「そういう目的って」
「若いツバメを引っかけようとか」
「それって女の人が言うせりふじゃない?」
「この場合、男でも通用するだろ」
「そうかもしれないけど……」
「とにかく、俺はゲイじゃないよ」
「……そうなんだ。本当に?」
「なんでそこあやしむんだよ」
「だって、図書館で人に声かけるなんて、やっぱりおかしいし」
そう。おかしいのだ。ダイゴのやったことは、たしかに不審者のそれだった。図書館でナンパ――たとえダイゴがゲイでなかったとしても、そういう目的でなかったとしても、涼に声をかけて、喫茶店に連れ込んだ行為自体は、ナンパと言って差し支えないだろう――をするなど、まっとうな人間であれば考えつきすらしないはずだ。
「……まあおかしいのは否定しないよ」
ダイゴは、二本目の煙草に手を伸ばしながら言った。
「普段からああいうことやってるわけじゃない」
「本当かな。なんかなれてる感じがしたけど」
「なれてないよ。女にすら声なんかかけない。お前に声かけちまったのは、なんか……なんだろうな。なんでかわからんけど、自然にかけてた」
「説明になってない」
「俺さ、嫁がいたんだよ。息子も。息子は十歳くらいでさ、生意気だったけどかわいくてしょうがなかった。でも俺が三十五のときに、俺の両親と一緒に全員死んだ」
ひゅっ、と、細く息を呑み込む音がして、誰だ、と思ったら、それはほかでもない、涼自身が発した音だった。
「保険とかいろいろあったから、遺産も含めてまあけっこうな小金は入ってきた。だからいまこうして、無気力だけどさ、無気力なりに生きていけてる。なんでお前に声かけちまったかって、……たぶん似てるんだよな」
「……誰に?」
「嫁に。息子にも少し。俺の息子、嫁に似てたから」
てっきり、息子に似てると言われるのかと思った涼は、妙に拍子抜けしてしまった。自然とつめていた息が、ほっと抜けていく。
「……僕、べつに女顔ってわけじゃないと思うけど」
「たぶん俺の嫁が男顔なんだよ。似てる。こうして見るとそっくりだ。背も同じくらいだし」
「……そんな話、していいの?」
「十年近く前のことだ」
ダイゴが、予想していたよりもとしかさだったことに、涼は少し驚いた。
「つらくないの」
思わず、そうたずねてしまっていた。
十年近くも前のことだと、きいたばかりなのに。マイナスな感情など微塵も感じさせない口調で、平然とそのことを語った男に、それは野暮な問いかけだったのかもしれない。それでも涼は、そうたずねずにはいられなかった。初めて目を合わせたときに感じた、ダイゴの目もとにやどる陰。仕事はしていないというのに、どこかくたびれた感じ。
生きていることが、つらくはないのだろうかと、涼は思った。きっとこれは余計なおせっかいだと、涼もわかってはいたのだが、感覚がとらえた微妙な齟齬が、涼を衝き動かした。平然としゃべってはいるけれど、どこか陰のある目。ひどく無気力で、仕事すらしていないこと。「十年近く前」だと言ってはいるけれど、――妻に似ていたという涼に、思わず声をかけてしまったこと。
「…………」
涼にそう切り込まれたダイゴは、しばらく黙った。さすがに不躾だと感じたのかもしれない。それでもダイゴの表情は、ぽけっとしたままだったが。
「つらいさ」
ダイゴは言った。つぶやくように。
「十年経とうがつらいもんはつらい。ちょっと嫁に似てただけの、まったく他人の高校生、しかも男に、思わず声をかけちまうくらい、いまでも吹っ切ることができない」
「高校生じゃない」
「そうだった」
「……事故か、なにか?」
「そう。俺だけ助かった。俺だけが」
ダイゴはそう言って、煙草をふかした。涼はなんと言えばいいのかわからなかった。
「夏ってさ。嫌いなんだ」
「なんで」
「あいつらが死んだのが夏だから」
煙草をくわえながらそう言ったダイゴに、涼はうんともすんともこたえなかった。否、こたえることができなかった。いまの涼は、ダイゴの言葉にこたえるための言葉を、持ってはいなかった。
「悪かったよ」
結局、コーヒー代はダイゴが持った。店を出る頃には、二人のあいだに横たわっていた妙な雰囲気はなりをひそめ、図書館から出てきたときと同じような雰囲気に戻っていた。
でも、涼は、もうこの男の名前を知っているし、過去も、いまなお吹っ切れていない傷のことも知っている。どうしてだか。たかが数十分、くたびれた喫茶店でお茶をしただけの相手なのに。
だからだろうか、ダイゴはそうして謝った。
「重たい話して。悪かった」
「……いいよ、べつに」
「お前、懐深いな。いいやつだ」
「そうかな」
「うん。そういうところも似てる」
ダイゴはそう言って、初めて少し笑った。
それは、いまにも泣き出しそうな、頼りない微笑みだった。
きりかわったはずの空気が、すっかりもとに戻ってしまう。まとわりつくような熱気の中で、ダイゴの、静かな悲しみがうねるように頭をもたげた。あたりの空気がその色を変える。世界が、少し、青みがかったように思う。いつもより、少しだけ。目がおかしくなったのかなと涼は思う。両目をこすって、再びダイゴを見る。ダイゴは、相変わらず微笑みながら、涼のことを見ていた。
次の瞬間、涼は、ダイゴの胸もとに飛び込んでいた。
ダイゴの背中に手をまわし、これでもかというほど強く抱きしめる。ダイゴが動揺しているのが、少しだけ震えた背中でわかった。それでも、そんなことにはかまわずに、涼はさらに、両腕に力を込める。ダイゴにしてみれば、もはや痛いかもしれない。それでもよかった。痛いくらいでいいと、涼は思った。直感的に。
涼の背中に、ゆっくりと、ダイゴの手がまわる。
ダイゴの両腕は、かすかにふるえていた。
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