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『皆様、長らくのご搭乗お疲れ様でございました。当機はまもなく成田国際空港に到着いたします。只今の時刻は午前11時20分、天気は快晴、気温は摂氏14度でございます。着陸に備えまして―――』  プレイヤーの再生停止ボタンを押し、シートのひじ掛けにもたれていた青音(はると)は、耳へ届いたアナウンスでふとイヤホンを外した。  いつもこのタイミングに、ああ日本へ帰ってきたと実感する。  丸みを帯びた小さな四角に、青く遠く、どこまでも伸びるような空が切り取られている。潔いまでのあっけらかんとした光が沁み、青音は半ばまで下ろした瞼を指の腹で押さえた。  歳のせいか職業病か、眩しくてまともに見ていると目の奥が痛んでくる。  じんと残る鈍痛に、口の端を柔く緩める。こんな空を、何の躊躇いもなく真っ直ぐに見上げていられた頃のことを少し、思い出した。  17年か。  ふとした時に蘇る。どこか恥ずかしくて、苦笑いのひとつもしたくなるような、狂おしいほどの甘い郷愁に満ちた時間。  青音にとってのそれはいつも、今日のような胸のすく色彩を伴って吹きつけてくる。 ***  365日のうちほとんどは忘れているのに、1年の間でほんの数日だけ、桜の花の匂いを思い出すタイミングがある。  そいつと初めて会ったのは、そんな春の濃い日だった。 「―――何してるんですか?」 「…え?」  入学式の2日後は、オリエンテーションがあったおかげで下校が早かった。  隣の席の奴は部活見学に行くのだと話していたが、いったい皆どこでああいう情報を仕入れてくるのだろう。  青音は積極的に入りたい部活がある訳でもなく、まだ一緒に帰る相手もおらず、校門まで続く並木道を、自転車を押しながらひとりで歩いた。  真っ直ぐ帰ろうという生徒は他にもちらほら見かけた。彼らは道の途中、何かを避けて通っていた。桜の下で大口を開けて立ち尽くす人物は、はっきり言って不審者だった。  ぶかぶかのヘルメットのストラップを顔の左右に垂らした青音へ、中学の制服を着た男子が振り返る。ここの学校は同じ敷地内に中等部と高等部があり、学ランのボタンで区別しているのだ。  首を後ろに倒し口を開けている姿は、本当に同じ受験突破した子なのかなと訝しむ程度にはバカっぽかったが、向き直るとすっと筋の通った顔つきで賢そうに見えた。 「君は…ああ、同じクラスの」  キミ、と青音は密かにびっくりした。小学校ではオマエかアンタ、澄ましたところでせいぜい名前呼びだった気がする。 「同じクラス?」 「高橋(たかはし)だ。古渡(こわたり)君だろ」 「あー…高橋君。ごめんめっちゃ初対面だと思ってた。名前なんだっけ」 「祐太郎(ゆうたろう)」 「高橋祐太郎君。もう覚えたわ。何してたの?」 「風を待ってた」 「詩的」  冗談以外で出てくるタイプの答えじゃないだろ、と思った。けれど祐太郎はいたって真面目な様子に見えたので、笑う代わりに困惑した。 「桜の花びらって」  弱い風が吹き、祐太郎はまた上を向いて口を開けるバカっぽいポーズに戻った。風がやむと何事もなかったかのように青音の目を見つめ、唐突に言葉を続ける。 「食えるらしい」 「へえ」 「だから、どんな味かと思って」 「うん…うん?」  何を言っているかは分からなかった。分からなかったが、会話時間1分にも満たないうちに青音は感心した。小学校で周りにいたのはうんとうるさいか、うんと無口か、意味もよく分からない流行りの言い回しにノリではしゃぐような友だちばかりだったので。こいつはそのどれでもない話し方をする。  やっぱり私立の学校の子というのは頭がいいのかもしれない。 「これだけたくさん桜の咲いている場所で口を開けていれば、そのうち花びらが口に入ってくるだろ」 「なるほど」  頭がいい、…のだろうか。 「風が吹けば落ちる花びらの量も増える」 「それで風を待ってたわけか」 「ああ」 「……普通にその辺の花びら取ればよくね?」  青音は花もたわわに揺れる枝を指差した。背伸びせずとも届く位置にいくらでもある。  祐太郎はその考えはなかったという顔をした。 「せっかく咲いてるものをむしるのは申し訳ない」 「ああ、まあ、確かに…」  一度地面に落ちた花弁を拾うのも、なんかな。  怪しい行動をしていた同級生は、妙に律儀に頷いた。青音はがんばってとか何とか、状況に合っていたかは判断に悩む無難な挨拶をし、通ること数回目の帰路についた。  桜の花びらを食おうとよこしまに狙うくせ、慎ましく風を待つ。  青音の魂に生涯刻まれることになる高橋祐太郎は、出会った日からそんなやつだった。

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