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第1話 「クズ作家は手放せない」
「おい、そこどけ」
洗濯物の山を抱えたまま、ラグに寝転がって文庫本を読んでいる男を蹴飛ばす。奴はいってぇ、と言いながら、面倒くさそうに寝返りを打った。出来たスペースに、洗濯物をドサリと落とす。
「うぇ」
山から丸まった靴下が転がり落ちて、奴の顔に乗っかったらしい。奴は嫌そうな顔をしながら、その靴下を山に戻した。
「ちょっと、仕事が雑なんじゃないの? こいつぁほとんど落石事故よ? ことによっちゃ死傷者が出たかも知れねえ」
「じゃ死んどけ」
まったく、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出すような話し方をする男だ。奴はぼさぼさの頭を掻きながら起き上がる。読みかけであろう文庫本をパタリと閉じて、俺の方へぬっと顔を寄せた。
「ひでぇなあ」
「あんたのパンツを洗濯して畳んでやってるこの俺のどこがひどいのか説明してみろよ」
「はいはい、テルちゃんは優しいですねえ。お仕事だから当たり前なんですけどねえ」
適当な猫なで声が癪だ。
「はいはい、あんたはクズですねえ」
「葛原さん、な?」
「苗字呼んだわけじゃねえよ」
「はは、純粋な罵倒!」
俺が奴のパンツを畳み、靴下をまとめ、Tシャツをハンガーにかけている間、奴……葛原は全く俺の手伝いをしようとはしなかった。それどころか減らず口でぺらぺらぺらぺらと永久にしゃべり続ける。俺の方も無意識に葛原の言葉に反応しながら片付けをしているのだから、端から見たら似たようなものかも知れない。
……いや、こいつと似たもの同士とか、勘弁してほしいけど。
「あんたがこんなだらしないって知ってたらなあ」
俺はわざとらしく深いため息をつきながら、最後のTシャツをハンガーにかけた。山盛りになったTシャツをまとったハンガーたちをまとめて手に持って、立ち上がる。この二ヶ月足らずで、家政夫業もずいぶん板についたものだ。
「知ってたら何よ」
「この家には来なかった」
そう答え、葛原に背を向けて俺が奴の部屋へ向かおうとすると、背後でくつくつと笑い声がした。
振り返る。
「……なんだよ」
「いや、『ファンにはならなかった』じゃないんだなーと思ってさ」
年齢の割にあどけない笑顔を見て、俺は心底苛立った。できるだけ大きな音で舌を打つ。
「照れてんのかあ? かーわいい」
葛原はラグに再びごろりと寝そべり、頬杖をついて上目遣いでこちらを見上げていた。やっているのが十代のアイドルであれば「かわいらしい」とかそういった表現になるのだろうが、二十七の男がやっているのであればそれは「気持ち悪い」でしかない。
しね、とつぶやきながら部屋を出る。後ろ手でドアをバタンと閉めた。ドアの向こう側で、何かまた一人で盛り上がっているような声がする。本当に元気な野郎だ。とっととくたばったらいいのに。
「……くそ」
苛立ちのままにドスドスと音を立てながら奴の私室に向かい、これまた大きな音を立ててドアを開け放った。小さな埃が舞う。俺がハウスダストアレルギーだったら発狂しているところだ。いつもの通り半開きになっているクローゼットをガッと開いて、Tシャツを引っかけた。クローゼットをきちんと閉めた後で、奴の机の上に視線を向ける。
原稿用紙とペンがある。四百字詰めの原稿用紙には、普段の奴からは想像もできないような達筆で文章が記されていた。机の上にはパソコンもあるが、何も映し出していないディスプレイの表面はうっすらと白く、埃をかぶっている。
葛原芳彦は、このご時世には珍しく、手書きを好んで小説を書くことで有名な作家だった。
高校生の頃に初めて出会ってから、葛原芳彦の小説は全部読んできた。彼の作品は、いつも静かで、繊細で、どこか切ない。その世界観が、俺を惹きつけてやまなかった。
そして大学生三年生となった現在も、葛原作品は俺のバイブルだ。
-- 『ファンにはならなかった』じゃないんだなーと思ってさ
ふと数分前の葛原の声が頭に響く。
ああそうだ。そうだよ。俺はあんたの小説の大ファンだ。
だから、二ヶ月間住み込みで身の回りの世話をするバイトを募集していると聞いたときには飛びついた。大学の長い夏休みとちょうど重なる期間であったことも後押しして、迷わず応募したのだ。
初対面の感触は、悪くなかった。ヒット作が多い割には若い印象で、あのときはちゃんと身だしなみも整えていた。今思えば、せっかく見つけた住み込みバイト候補を逃がさないための策略だったに違いない。その場にいた、担当の高木さんが少し居心地悪そうにしていたのはきっとそのせいだったのだろう。
俺だって、葛原芳彦があんなにも騒がしく、適当な野郎だと知っていたらもう少し考えたはずだった。
まあ、その二ヶ月というのももう直に終わる。残り一週間で、俺はこの汚い住処から解放される予定になっていた。まったくせいせいする。
「……」
奴の机の上は、部屋のほかの部分と比べてずいぶん綺麗だった。原稿用紙はぴっちりと重ねられているし、インクが掠れているというようなこともない。その部分だけを切り取れば、ここが葛原芳彦の居室だと言われてもまだ納得できそうだった。
俺はふと、机の上に置かれたペンに目を遣った。軸が赤紫色のそれは、件のバイトの面接の際に俺が葛原にプレゼントしたものだ。
「おお、葛色かあ。気に入ったわ。ありがとな」
低くて少し掠れた、夕焼けみたいな声だった。
一目でそれが葛の花の色を意識した色だと気づいた洞察眼は、さすがと言わざるを得なかった。俺はその感謝の言葉にどれだけ心躍らせたことだろう。今となっては奴に対する恨み辛みが重なりすぎて、ピュアな頃の気持ちは思い出せないのが口惜しい。
「テルちゃーん?」
ドアの向こうからの声にドキリとした。
「っなんだよ」
そう返すと、ためらいなく部屋の扉が開いた。ズカズカと中にやってくる。この部屋は彼のものなのでなんら問題はないのだが、無遠慮に踏み込まれているような感じがして心がざわついた。
「全然帰ってこないからどうしたかと思ったら……もしかして俺の新作読もうとしてた? エッチ」
「んなことしねーよ」
本になってから読むからな、とは、絶対に言わない。
「……ペン」
「あー、これな。テルちゃんがくれたやつ」
「知ってるよ」
「書き心地よくってさあ、もらってからはずっとこれよ」
「……あ、そ」
なんだか気恥ずかしくなって、顔も見ずに葛原とすれ違って部屋から出ようとする。しかし、葛原がそっと俺の身体の前に自分の身体を差し込んだ。いわゆる通せんぼだ。
「……どけよ」
「テルちゃんさあ、ほんとにもうすぐ居なくなっちゃうの?」
「契約期間が終わるしな」
「さみしいねえ」
「……」
いつもだったら、俺はさみしくねえよ、とでも言い返したところだ。が、うまく口が回らなかった。毎日こいつのマシンガントークに付き合っているせいで、いよいよ口がおかしくなったのかも知れない。
「じゃあ、遊びにきてよ。たまには」
「……どうせ洗濯とかやらせるんだろ」
「ちょっと、読心術使えるなら先に言っといてくんね?」
「読まなくてもわかるっつーの」
「冗談冗談。洗濯しなくても遊びに来てよ。俺らの仲でしょ」
「どんな仲だよ」
悔しいかな、俺にとっての小説家、葛原芳彦は大切な存在ではあるものの、葛原にとっての俺がどうなのかは、知るよしもない。
葛原は一瞬考えるようなそぶりを見せた後で、
「親密な仲でしょ。こんなに罵倒してくる年下、なかなかいないよ?」
と言った。
「そりゃどうも」
「褒めてねえっての。しっかし、テルちゃんがいないと家が静かになっちゃうなあ」
「あんたが勝手に騒いでるだけだろ」
「いやいや、テルちゃんが居なかったら静かなもんよ」
「俺のせいみたいに言うなよ」
どけよ、と身体を押しのけようとしたが、俺より一回り大きな身体は簡単には動かなかった。見上げる形になるのが、かなりむかつく。
「おい、いい加減に……」
「テルちゃん」
「なんだよ」
「テルちゃんが居ないと、俺もう書けないかも」
……どうせいつもの戯言だ。放っておけばいい。頭ではそう分かっている。けれど、目の前の男の真剣な眼差しはなんだ。本気で言ってるのかと思わされそうになる。俺は居た堪れなくて目を逸らした。
「嘘こけ。あんたが〆切破ったところなんて見たことない」
「この二ヶ月はテルちゃんが居たから書けてただけ。普段は破りたい放題よ」
悪びれなく言う。
「……高木さんを困らせるなよ、あんまり」
どうせ嘘だろうが、適当に話を合わせておく。
「じゃ、そういうことだから。最低週三で遊びにきてな」
「んな暇じゃねーっつの」
「ひでぇよ〜、俺、テルちゃんが居ないとだめな身体にされちゃったのに〜」
身体をわざとらしくくねらせて笑う。ようやくいつも通りの雰囲気に戻ったところで俺が悪態の一つでもつこうと口を開きかけた瞬間、静かな空間を演歌が割いた。……葛原のスマホの着信音だ。
「出ろよ」
こいつに電話をかけてくるのは高木さんくらいだ。葛原は「はいはい」と面倒くさそうにスマホをポケットから取り出し、「はいよー」と受話した。
俺はその隙を縫って、ようやく葛原の部屋から脱出する。
「よゆーよゆー!もう上がってるよ。いつでも来なさいな」
やはり電話の相手は高木さんらしい。背中で奴の軽口を聞きながら、リビングへと戻った。
「……」
いないと書けない、だなんて、よく言う。
あんな適当な男が、そんな殊勝なことを思うわけがない。そう思うのに、胸にしこりが残っていた。
……困る。あの人が小説を書けなくなったら、本当に困る。
きっと俺は生きていけない。今やあんなにむかつく野郎だが、あの人の作品だけは今もずっと、俺にとっての心のよすがなのだ。
テーブルには、先刻俺が洗濯物を片付けていたときに葛原が開いていた文庫本があった。仕事で散々文章を眺めているくせに、手が空けばすぐに本を読むのだからワーカホリックと言って差し支えないだろう。
なんとなく、先ほどの通せんぼの仕返しのつもりで、本にかかっていたカバーを外して、本のタイトルを見てやった。
「え」
タイトルは『神様の言うとおり』。葛原芳彦の三作目だ。
……あいつ、自分の小説を読み返したりもするんだな。
そう思うと同時、ふと脳裏に初夏のカフェの光景が蘇ってくる。
「時に、照井くん。君は俺のファンらしいけど。作品のなかでは何が一番好きなのかな」
住み込みバイトの面接だった。プレゼントとして渡したペンを鞄にしまった後、奴は、履歴書とおぼしき紙の束をペラペラとめくりながら俺にそう尋ねたのだ。
てっきり、「こういったバイトの経験はどのくらいあるのか」などと聞かれると身構えていたので、脱力したのを覚えている。
「『神様の言うとおり』です」
俺は迷わずに答えた。
「……へえ、めずらしい。大抵のコは、『太陽の器』か『夜のささやき』って言うんだけど」
葛原は履歴書をめくるのを辞めて、俺の顔を見た。初めて目が合う。垂れ目がちで、整った顔だった。得も言われぬ色っぽい視線に、心臓が大きく鼓動した。
『太陽の器』と『夜のささやき』は彼の代表作だ。両方ともドラマ化されていて、『太陽の器』の方は、来春に映画の公開が報じられていた。
一方、『神様の言うとおり』は映像化されていない上、彼の作品の中では数少ない恋愛小説でもある。一番好きな作品として挙げられにくいことには、まあ合点がいった。
「葛原先生の作品の中で、初めて読んだ作品なので……。あと、終盤で主人公が弥生から受け取る手紙の一文が、繊細な言葉なのに、強い愛情を感じるというか……そういうところが……」
ずいぶんしどろもどろになった。ドクドクと血を巡らせる心臓のせいか、顔が熱くてたまらない。作者本人に直接感想を述べることがこんなにも緊張することだとは思わなかった。
「……『そばにいたいと思うことと、好きであることは、たいてい同じことです』、かな」
「はい。その一文に、もう、弥生の全部が詰まっているみたいで……」
「……そ、わかった。じゃ、帰っていいよ」
葛原はそう言うと、両腕で机に頬杖をつき、にこりと笑った。人懐こい笑みだった。
「は、はい……? え、面接は……」
「うん、今のでおしまい」
「え、ええ……?!」
あれよあれよと帰路につくことになり、俺は落選を確信した。
だからこそ合格通知を聞いたときは大変に驚き、そして形容ではなく飛び跳ねて喜んだ。
奴の住処でその辺りに放置されたゴミ袋や山積みの洗濯物と対面するまで、俺は人生で一番浮かれていたに違いない。
思えばあの日から、毎日怒ってばかりで、売り言葉に買い言葉、ギリギリ恫喝になりそうなやり取りをしてばかりだった。
こんな野郎のファンをしていたことを知って、裏切られた気分になったくせに、奴の言動の端々に滲む「葛原芳彦」の影を感じるたび、どうしたって惹かれてしまう。
どれだけだらしなく、憎らしかろうと、俺は奴の小説が好きなままだった。事実、この二ヶ月、奴のそばにいて、つまらなかった日はない。
「そばにいたいと思うことと、好きであることは、たいてい同じ……」
俺はそっと、その一説を反芻する。
もしかしたらそうなのかも知れない。でも、どの道この関係ももう終わる。俺が葛原のそばに居続けることはない。
そう思うと、自然に手を握りしめていた。
***
翌日の昼過ぎ、インターホンが鳴った。モニターを一瞥すると、グレーのスーツを着こなした男が、ぺこりと頭を下げている。俺は奴が散らかした酒の缶を片付ける手を止めた。リビングの棚に乗せてあったA4サイズの茶封筒を手につかみ、玄関へ向かう。
「こんにちは、高木さん」
そう言いながらドアを開けると、俺と葛原の間の年齢くらいの男が姿を現した。
「葛原さんは、……執筆中ですか」
「はい。いつもの調子ですよ」
執筆中の葛原は、邪魔されるのをとても嫌う。集中したら部屋からも出たがらない。今日も、昼過ぎに高木が来るから、と事前に茶封筒を用意して、応対は俺に任せていた。
「照井さんが来てくれてから、本当に助かっていて」
俺が手渡した茶封筒を開き、中身を確認しながら、高木さんが言う。
「まあ、ゴミ屋敷みたいでしたもんね、ここ」
この家に初めてやってきた時の絶望感を、俺は一生忘れないだろう。
「ああいや、それもそうですが……葛原さんが〆切を破らなくなったので」
「……は」
「照井さんが来るまでの葛原さんはすごかったんですよ。〆切をすっぽかすのは当たり前。謝罪は全部私任せという……」
「それは……心中お察しします……」
俺はそう答えながら、昨日の葛原の言葉を思い出していた。
―― この二ヶ月はテルちゃんが居たから書けてただけ。
「本当だったのかよ……」
「はい?」
「いや、こっちの話で」
「とにかく、私はあと一週間で照井さんがいなくなってしまうのが今から恐ろしいです。というか、いなくなる前に教えてください! どんな魔法を使えば葛原さんは〆切を破らなくなるんですか!」
「それはちょっと……」
魔法を使った覚えはない。
「はああ……やっぱり、居なくなってしまうんですよね……?」
「まあ、夏休みが終わるので、住み込みって訳には」
再来週からは授業が始まる。ここから通おうとすると、片道一時間半はかかる。それはさすがに厳しかった。
「ですよねえ……」
高木さんはため息をついた。
「以前にも住み込みで葛原さんの世話をしてもらうような方は何人かお願いしてきたのですが、葛原さんって『ああ』でしょう。だから、ちゃんと期間満了になりそうなのは照井さんが初めてなんですよ。また機会があればお願いしたいくらいです」
「はあ……えっと……」
俺が口ごもると、背後でドアの開く音がした。執筆が一区切りしたのだろうか。裸足でペタペタとフローリングを踏む音。この二ヶ月、スリッパを履けとあれほど口を酸っぱくして言ったのに、奴は頑なに裸足の生活を続けていた。
「高木ぃ、今失礼なこと言ってなかったぁ?」
いつもの、夕焼けみたいな声だった。……といえば聞こえはいいが、今となっては俺は奴の酒癖の悪さを知っている。単に酒焼けしているだけなんだろう。
「いやいや、気のせいでしょう」
高木さんは居住まいを正して微笑む。
「けど、『機会があれば』ってのはさんせーい。俺、テルちゃんがいないと書けないからさあ。やっぱ週三で来てもらうしかないかな〜」
俺の頭に背後から頬をすり寄せてくる。悪寒がした。思い切り振りほどく。
「あだっ」
「だったら、俺がいるうちに一生分小説書いとくんだな」
「ねえ高木、今見た? 暴行の現行犯じゃない?」
「どっちがですか? 葛原さん?」
「おい、言うようになったな」
葛原がわざとらしく唇を尖らせる。高木さんは腕時計を見やって、自身の鞄へ目線を動かした。茶封筒が入っていることを確認したのだろう。
「……少し長居しすぎました。原稿は後ほど確認させていただいて、メールしますので」
「えー、俺パソコン嫌いだからさあ、電話にしてよ」
「こういったやりとりは、証跡が残らないと意味がありませんので」
高木さんはそう言ってから、俺の方へ視線を送った。
「それじゃあ、また。照井さん、短い期間でしたがありがとうございました」
「あ、いえ……」
深々と頭を下げて、高木さんが玄関のドアの向こうへ消えていく。ぱたん、と閉じると、俺は鍵をかけた。
「……あんた、本当に〆切破りまくってたんだな」
「な、言った通りだったろ?」
「開き直るな、クズ」
「葛原さん、な」
ヘラヘラと笑いながらそんなことをのたまっている葛原の隣を通り抜けて、リビングへ向かう。
「テルちゃん」
後ろから、ペタペタと聞こえてくる。
「あ?」
リビングに入る。玄関先よりずいぶん涼しい。高木さんに麦茶の一杯でも出してあげるべきだったなと後悔する。
テーブルの上には空き缶の入ったゴミ袋が放置されていた。そういえば片付けの途中だった。葛原という男は、片付けたそばから部屋を汚しやがるので、この二ヶ月間、俺は常に何かしら片付けていたような気がする。
「あのさあ、俺、結構本気よ」
「何が」
「テルちゃんのこと」
缶を袋に詰める手が、一瞬止まった。
「……俺がいないと書けないってやつか? あのさ、そういうのは一人でなんとかしろよ、いい大人なんだから」
「またまたぁ、満更でもないんじゃないの?」
だとしてもだ。現実的に考えたら、この部屋に居続けることはできない。
「……」
もはや、本心がどうなのかは、俺自身にもよくわからなかった。葛原の部屋を片付けるのも、洗濯をするのも、食事を用意するのも、今や仕事以上の何かになっていることは間違いない。
それでも、このままの生活は続けられない。だから。
これ以上、掻き乱さないで欲しかった。
「あんたさ、小説を人質にとるような真似して……ガキか。迷惑なんだよ」
葛原には一瞥もくれなかった。空き缶で満たされたゴミ袋をゴミ箱に突っ込んで、テーブルにアルコールスプレーを吹きかける。キッチンペーパーで拭った。
「……。ま、それもそっか」
葛原は、いつもよりも低い声で、静かにそう言った。あからさまに普段と様子が違う。奴がどんな顔をしているのかと振り返ったときには、奴はもう踵を返していた。
「おい……」
「夕飯、レンチンできるようにしといて。後で勝手に食うから。そしたら今日は適当に休んでて良いよ。夜まで籠もるんで」
ひらひらと手を振りながら、私室の方向へ向かっていく。
やがて私室のドアを開き、一瞬だけこちらを見て、
「なんせこれから一週間で、一生分書き溜めないといけないんでね」
と捨て台詞を吐いた。
***
髪を乾かして洗面所から出ると、暗い廊下に湯気が流れ出た。向かいのドアは、相変わらず閉まっている。
ドアの下の隙間からは明かりが漏れて、俺のつま先を弱く照らしていた。ドアの向こうで、きっと奴はまだ起きて、執筆をしているのだろう。声をかければ届くはずの距離が、やけに遠く感じた。
……見ていたって仕方ない。どうせ出て来やしないのだから。
ドアから視線を外して、歩き出す。リビングへ入り、明かりをつけた。
テーブルの上に置いてあった夕食がなくなっていた。ソファの上に積み重ねてあったTシャツも。キッチンに目を遣る。シンクに、茶碗とおかずの載っていた皿が重ねて置かれていた。水につけてある。いつもよりも片付けの手間が減っているはずなのに、妙に居心地が悪い。
「……」
諸々、俺が風呂に入っている間に済ませたのだろう。先日の一件以降、奴が私室に籠もりきりになってからは、ずっとそんな調子だった。俺はため息を一つついて、シンクの前へ立つ。スポンジを取った。静かすぎる部屋に、水音だけが響く。
……きっと、今までが異常だったのだ。
俺の仕事は、あいつが執筆に集中できるよう家事を回すこと。そのためには奴と一緒にいる必要なんてないし、軽口で時間を浪費するよりずっと、今の方が正しい姿に決まっている。
それでも。
俺はどこかで、あのドアが急に開いて「テルちゃん、やーっと終わったよ! 一緒に酒でも飲もうぜー」などと鬱陶しく誘ってくるのではないかと期待していた。それに対して俺が悪態をついて、葛原がくつくつと笑うのではないかと。
「……なんなんだよ」
あんなに引き留めようとしてたくせに。いないと駄目だとか駄々をこねたくせに。急に年相応に物わかりがよくなられたら、こっちは調子が狂うんだよ。
胸中で悪態をついているうちに、皿をすすぎ終わった。蛇口を閉めると、また静寂が帰ってきた。
濡れた手から一滴、水滴が落ちた。
***
二ヶ月分の荷物は、拍子抜けするほど少なかった。衣服と洗面用具、それから何冊かの文庫本くらいしか持ち込んでいないので、同じ分だけをキャリーケースに納めるだけで、案外あっさりと身支度は整った。
キャリーケースを持って玄関へ向かう。その途中に、奴の部屋がある。
結局葛原とは、最後の一週間まともに会話をしなかった。今も執筆中なのだろう。
一瞬だけ悩んで、
「……俺、そろそろ行くからな」
葛原の部屋のドアの外から、そう声をかける。執筆を邪魔されるのは嫌がるだろうが、最後の挨拶くらいは許してほしい。これだけ尽くしてやったんだから直接見送れよと思わなくもないが、まあ、出てこないだろうし。
「冷蔵庫に夕飯作ってあるから。あと、今日のおやつの余りは冷凍してある。テーブルに温め方置いてあるから」
この声はどのくらいあんたに届いているんだろうか。うるさいな、早く行ってしまえと思われている気がして、指先が冷たくなる。
「洗濯物は片付けた。リビングにある分は後で自分で部屋に持ってって」
正直、あんたとは友達に似た、ある程度対等な関係性になれているんじゃないかと思っていた。
だらしなくて、酒癖が悪くて、口が減らない。けれどどこまでも小説を愛している。「葛原芳彦」はそういう人間なんだと、二ヶ月間で嫌というほど思い知った。
あんたのそばにいる心地よさも、知ってしまった。
なのに。
この最後の一週間で、あんたのことが急にわからなくなった。
俺が酷いことを言ったかもしれない。でも、それだってあんたが、俺がいないと小説が書けないなんて言い出すからだろ。
「……俺、」
息を吸う。
「謝らないからな」
返事はない。
俺は小さく息を吐きだした。
……白状しよう。引き留められたとき、俺は確かに嬉しかったんだ。あんたがそう言うなら、もうしばらく一緒にいてやっても良いかなと思ったよ。
でも、そんなの一生は続けられない。いつかあんたは、俺がいなくたって生きていかなきゃならなくなるんだ。作品を待っている人間が存在する限りは、あんたは筆を執らないといけないんだよ。
俺だってきっと、あんたの作品がないと、息ができなくなる。
「葛原さん、あのさ」
あんたは最後の一週間で、もう一人で生きていけるんだと行動で示してくれた。あんたにとっては拒絶のつもりだったのかも知れないけれど、そのおかげで俺は、安心してここを出て行けるんだ。
―― そう思わないと、やりきれない。
「あんたはもう、俺なんかいなくてもきっと大丈夫だから」
声が、少し揺れる。喉の奥が詰まる感じがした。こらえる。
本当はもっと、たくさん伝えたいことがあったはずだった。でも、これ以上何かを口にしたら気持ちが溢れてしまいそうで。
「鍵はポストに入れとく。……じゃ」
玄関に向けて歩き出そうとした。と同時に、扉の向こうでわずかに身じろぐ気配がある。「ああ、聞いてくれていたんだな」と思った瞬間、ガチャ、とドアが開いた。
「っうわ?!」
一歩下がって避けようとした瞬間、ドアとは違う衝撃が上半身を襲った。
「テルちゃん、」
「……っ」
気づいたときには、葛原に、抱き込まれていた。
胸板に強かに打ち付けた鼻が痛い。背中には温もりがあった。……なんだか懐かしい匂いだ。
「……ごめん」
夕焼けみたいな声は、斜め上から降った。俺を抱きとめるために背中に緩く回された腕が、震えていた。
俺は、キャリーケースのハンドルを握ったまま硬直した。ただぼんやりと、暖かいな、と思った。
「……」
「……」
静寂。心臓だけがうるさい。耳の奥の方まで拍動している感じがする。これがあいつの心音なのか、俺の心音なのかは、もはやわからない。
しばらくそうしていると、奴は俺からそっと身体を離した。
見上げる。目が合った。
「……あんた、なんて顔してんだよ」
ひどい顔だった。無精ひげに隈、くたびれたTシャツ。目は赤く、不安げにこちらを見ている。せっかくの整った顔が台無しだ。
「……この一週間、頑張って書いたけどさ」
葛原が、ひどく掠れた声で言った。
「一生分なんて、無理だった」
困ったように眉を下げる。
「……馬鹿か、あんたは」
俺が言うと、葛原は力なく笑った。
何、俺を差し置いて一丁前に弱ったみたいな顔してるんだよ。情けないことこの上ないな。そんな言葉が喉まで出かかって、やめた。
「本当に、テルちゃんが近くにいると、すげー筆が進むの」
掠れた声が、縋るようだった。
「心がずっと動いてて、ココなんかずっとうるさくて」
葛原は自らの胸に手を当てる。
「……生きてるって感じがすんの」
「……うん」
わずかに頬が緩んでしまう。そんな顔を見られたくなくて、俺は奴から目を逸らした。
「だから、これからも一緒にいてほしいって……。けど、テルちゃんの都合とか、なんもわかってなかった」
言葉を探すみたいな間を持って、息を吸う。
「俺、テルちゃんはなんだかんだ言って、ずっとそばにいてくれるもんだと思い込んでた。……勝手だったよなって」
「……」
「まあ、『迷惑』は、さすがに効いたけど?」
「……っ、あれは……あんたが小説を人質に取るようなことするから……」
「言い過ぎた、って?」
「……まあ、多少は……?」
どちらからともなく、ふっと力が抜けたような感じがした。葛原が俺の顔を見て、くつくつと笑う。憑き物が落ちたような、そんな表情だった。俺もきっと、似たような顔をしているに違いない。
ああよかった。この人は確かに、俺の知っている葛原芳彦だ。
そう思うと、この一週間ずっと、冷たく、硬くこわばっていた身体に血が巡る感じがした。
俺は、ズボンのポケットに手を突っ込む。後でポストに投函しておこうと思っていた、この部屋の合鍵を差し出した。
「これ、返すよ」
「あー、それ。いらない」
シッシッ、と、何かを追い払うように、葛原が手を振った。俺の方は、予想外の返事に、一瞬、思考が停止した。
「……は? いや、いらないわけないだろ。あんたんちの鍵だぞ」
「一個くらい良いって。持ってけよ」
「自分ちの鍵をお土産に渡す奴がどこにいんだ! 防犯意識皆無かよ!」
「まあ、テルちゃん限定で」
葛原が、俺の手をそっと押し戻した。いつの間にか、鍵の上から、小さな紙が乗せられていた。……名刺だ。
「……なんのつもりだよ」
「俺の連絡先。鍵と合わせて、お近づきの印ってことで」
俺の指を折り曲げて、名刺と鍵を軽く握らせてくる。すらりとした指先が離れたところで、俺は再度葛原の顔を見た。相変わらず顔面のコンディションは最悪だったが、なじみ深い表情をしていた。……ただ一点、耳まで赤い点を除いては。
俺は思わず吹き出した。
「……必死かよ、あんた」
「まあ、……それだけ、そばにいたいってことよ」
心臓がドクリと大きな音を立てた。みるみるうちに顔が熱くなっていくのがわかる。頭の中に、あの一節が流れ込んできたからだ。
『そばにいたいと思うことと、好きであることは、たいてい同じことです。』
「……あんたさ」
「うん?」
「俺の一番好きな作品、もう忘れたわけ」
声が震えた。心臓がうるさくて仕方ない。
「そりゃあもちろん、覚えてますとも」
にやりと笑う。……確信犯だ。
俺はなんとか自分の心臓を落ち着かせようと努めた。しかしその前に、
「テルちゃん顔真っ赤~」
と揶揄われる。
「っうるさい!」
「おっと」
俺が振るった拳を、葛原はさらりと避けた。大きく舌打ちをすると、面白くて仕方がないといった様子で笑う。
「……もう行くから」
俺は結局、葛原から手渡された紙と鍵を一緒くたにして、ズボンのポケットに押し込んだ。
「おう」
葛原は、鍵の押しつけに成功したことで満足したのか、今度は引き留めはしなかった。ゆっくりと部屋から出てくると、玄関までついてくる。
「それじゃ。……新作、楽しみにしてる」
ちゃんと寝ろよ、と付け足す。葛原はじっと、俺を見た。瞳をゆるりと細める。
「俺も、テルちゃんが来てくれるの、楽しみにしてるよ」
顔がさらに熱くなる。一刻も早くここから出なくては、どうにかなりそうだった。何かに急かされるみたいにキャリーケースをつかんで、「じゃあ」と部屋を出た。
「またね、テルちゃん」
振り返らなかった。
「……週三は無理だからな」
ばたん、と扉が閉まる直前、葛原が声を上げて笑う気配がした。
***
ポケットのスマホがバイブした。反射的に、文庫本をパタリと閉じる。電光掲示板を見上げ、まだ少しだけ時間があることを確認して、取り出す。画面には、葛原さん、と表示があった。
「なんだよ」
「冷蔵庫、ほぼ空なんだけど」
「だろうと思って、鍋の材料持ってきた」
「さっすがテルちゃん! わかってんねー」
ひゅう、と電話の向こうで口笛が響く。
「用はそれだけか?」
「え、なんか冷たくない?」
「もうすぐ電車が……」
と言うや否や、構内放送で電車の到着が知らされる。首に巻いたマフラーが、風に煽られて大きく靡いた。
「ほら、もう来たから。切るぞ」
「わかった。……気をつけて来てね、テルちゃん」
なかなか殊勝なことを言うようになったものだ。
「はいはい。またな」
そう言いながら電話を切る。
「ったく……」
口元が緩みそうになるのを、ぐっと堪えた。スマホを再びポケットに入れて、電車に乗り込む。端っこの席に腰を下ろす。
俺は再び文庫本を手に取った。
「……」
指先で、タイトルの下に印字された『葛原芳彦』をそっとなぞる。
奴の家まであと一時間。
その間に、この新刊をじっくりと堪能することにしよう。
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