15 / 28

第15話 共犯者の告白

『約束する』 そう打ったあと、俺はしばらくスマホの画面を見ていた。 善処するでも、検討するでも、分類中でもない。 約束する。 たった四文字が、妙に重い。 けれど、不思議と嫌ではなかった。 玻璃宮千歳が「信じる練習を始める」と言った。 俺は「俺も」と返した。 その次に来たのが、 『次は、君が俺を信じて話す番だ』 だった。 千歳は、逃がしてくれない。 いつだってそうだ。 こちらが軽口で逃げようとすると、静かな目で待つ。 こちらが自分を罰して楽になろうとすると、その道を塞ぐ。 こちらが都合のいい嘘に戻ろうとすると、「本当は?」と聞いてくる。 本当に、性格が悪い。 でもたぶん、俺はもう、その性格の悪さにだいぶ救われている。 **** 翌日、俺は灯庭舎にいた。 院長先生に、過去の出資話を聞くためだった。 昔、支援者を紹介すると言って近づいた男。 そのせいで灯庭舎は資金を失い、出資者の信用も失った。 その話が、白蝶会や狗飼錆人につながっているかもしれない。 俺はそれを千歳に話すと約束した。 一人で突っ走らないとも約束した。 だから、まずは聞く。 怒るのは、そのあとだ。 「その人の名前?」 院長先生は、古い書類箱を開けながら少し眉を寄せた。 「ええ。たしか……犬飼さん、と名乗っていたと思うわ」 心臓が嫌な音を立てた。 「犬飼?」 「字は違ったかもしれないけれど。名刺はもう残っていないかもしれないわね」 俺は声が低くなるのを抑えた。 「その人、どんな男だった?」 「物腰は柔らかかったわ。ボランティアとして何度か来てくれて、子供たちにも優しくて。古い施設を残すためには外部資金が必要だ、支援者を紹介できると言ってくれたの」 院長先生は、書類の束をめくる。 その手が、ほんの少し震えていた。 「私たちも焦っていたのね。建物の修繕費がかさんで、行政の補助だけでは足りなくて。あの時、うまい話にすがってしまった」 「院長が悪いわけじゃない」 思わず強く言った。 院長先生は、少しだけ笑う。 「ありがとう。でも、大人としての責任はあるわ」 その言い方が痛かった。 俺は奥歯を噛む。 「その後、金は?」 「一部の準備金を、支援団体を通す形で預けることになったの。でも、その団体自体が実体のないものだった。紹介されるはずだった出資者も、最後には連絡がつかなくなった」 「警察は?」 「相談はしたわ。でも、こちらの書類不備もあって、相手を追い切れなかった。何より、その噂が広まって、他の支援者が離れてしまったの」 胸の奥が、熱くなる。 怒りだ。 でも、今は飲み込む。 一人で突っ走らない。 千歳と約束した。 「写真は?」 俺が聞くと、院長先生は一枚の古い写真を出した。 昨日、千歳に届いたものと同じ時期の写真。 灯庭舎の前。 院長先生。子供たち。そして、男。 顔立ちは、今の狗飼錆人と完全には一致しない。 髪型も雰囲気も違う。 でも、笑い方が似ている。 人の懐に入るための笑み。 そして、左手の小指には黒い石の指輪。 俺は写真を握り潰しそうになって、慌てて指の力を抜いた。 「纏くん」 院長先生が静かに言う。 「怒っているのね」 「怒ってる」 「無茶はしないで」 「しない」 即答した。 自分でも驚くくらい、すぐに答えられた。 「約束したから」 「誰と?」 俺は少しだけ黙った。 それから言った。 「千歳さんと」 院長先生の目が柔らかくなる。 「そう」 「一人で突っ走らないって」 「いい約束ね」 「守れるかは分からない」 「守ろうと思っているなら、前よりずっといいわ」 俺は写真をスマホで撮った。 書類も、許可をもらって撮影した。 本当は、このまま狗飼錆人を探しに行きたかった。 あの男の胸ぐらを掴んで、何をしたのか吐かせたかった。 灯庭舎の庭で笑った子供たちを、金の数字に変えたこと。 院長先生の善意を、弱さとして利用したこと。 古い建物を壊すために、先に信用を壊したこと。 全部、吐かせたかった。 でも、行かない。 行かない代わりに、俺は千歳へメッセージを送った。 『犬飼と名乗ってたらしい。 黒い石の指輪あり。 写真と書類、持って余白の部屋に行く』 既読はすぐについた。 返事もすぐだった。 『一人で動くな』 俺は短く返した。 『動いてない』 今、かなり動きたいけど。 少し間があって、返事。 『なら、俺のところに来い。そこで怒れ』 俺は、その画面を見て少しだけ笑った。 本当に、この男は。 怒りの置き場所まで用意しようとする。 **** 余白の部屋に着いた時、千歳はすでにいた。 テーブルには黒い作戦ノート。 白いマグと青いマグ。 本棚の横には蓮太の絵。 逃げない場所。 その空気に触れた瞬間、張りつめていた何かが少し緩んだ。 「来たな」 千歳が言う。 「来た」 「顔が怖い」 「今は笑えない」 「笑わなくていい」 千歳は立ち上がり、俺の持ってきた封筒を受け取った。 俺はソファに座る。 座った瞬間、膝から力が抜けそうになった。 怒りで疲れている。たぶん。 千歳は写真を見た。書類も見た。 表情はほとんど変わらない。 でも、目が冷えていくのが分かる。 「犬飼、か」 「字は分からないって」 「狗飼錆人が偽名を使った可能性もある。あるいは部下か、関連人物」 「でも繋がってるだろ」 「高い確率で」 俺は拳を握った。 「灯庭舎に入り込んで、善人面して、金を奪って、信用まで壊した」 「うん」 「それで今度は、その土地ごと潰そうとしてる」 「うん」 「殺してぇ」 言葉が落ちた。 千歳は、驚かなかった。 責めもしなかった。 ただ、静かに俺を見た。 「それほど怒っているんだな」 「怒ってる」 「当然だ」 その一言で、少しだけ救われてしまった。 怒るなと言われたら、たぶんもっと壊れていた。 でも千歳は、怒りを否定しない。 ただ、置く場所を見ている。 「だが、一人で行くな」 「分かってる」 「本当に?」 「約束した」 「君は、約束を守る男か?」 胸に刺さる問いだった。 俺は、最初に嘘をついた男だ。 千歳に金のために近づいた男だ。 約束を守る男です、と軽くは言えない。 だから、ちゃんと答えた。 「これから、そうなる」 千歳の瞳が少し揺れた。 「そうか」 「証明するって言っただろ」 「言ったな」 「だから、今ここに来た」 千歳は黙っていた。 それから、白いマグを俺の前に置いた。 中身は水だった。 「飲め」 「命令?」 「命令」 「そこは願いじゃないのかよ」 「今の君は、水を飲むべきだ」 俺は笑いそうになった。 笑えないと思っていたのに、少しだけ笑ってしまった。 「御曹司様、厳しい」 「飲め」 「はいはい」 「はいは一回」 「はい」 水を飲むと、喉が少し楽になった。 千歳は向かいではなく、隣の一人掛けに座る。 近い。 でも、触れない。 まだ、触れる理由を決めていない。 「整理する」 千歳が言った。 「灯庭舎に接触した男は“犬飼”を名乗った。黒い石の指輪あり。支援団体を装い、資金を奪った。その結果、灯庭舎は支援者の信用を失い、資金難が悪化した」 「うん」 「白蝶リゾート構想は、その後の資金難と老朽化を理由に、灯庭舎を移転へ追い込もうとしている」 「うん」 「つまり、過去の資金詐欺と現在の開発計画は、一本の線でつながる可能性が高い」 「狗飼錆人」 俺が言うと、千歳の目が細くなる。 「まだ断定はしない」 「でも、お前もそう思ってるだろ」 「思っている」 「なら」 「だからこそ、証拠を取る」 千歳の声は冷静だった。 「怒りで動けば、相手にこちらの手札を見せるだけだ。君が狗飼に詰め寄れば、灯庭舎はさらに攻撃される。院長先生も、子供たちも危険になる」 「分かってる」 「君自身もだ」 「俺は別に」 「別に、ではない」 千歳の声が強くなった。 俺は黙った。 千歳は、まっすぐ俺を見る。 「君を雑に使わせる気はないと言った」 「……」 「それは敵だけではない。君自身にもだ」 胸が痛い。 俺は、自分を雑に使う癖がある。 灯庭舎のためなら、多少汚れてもいい。 誰かを逃がすためなら、自分の取り分がなくなってもいい。 千歳を守るためなら、自分が危険に飛び込んでもいい。 そう考える。 考えてしまう。 千歳は、それを許さない。 「俺は、灯庭舎のためなら動ける」 俺は低く言った。 「でも、自分のためには止まれない」 「知っている」 「だから、止めろ」 言ってから、息が詰まった。 頼っている。 完全に。 千歳は、静かに頷いた。 「止める」 「強引にでも」 「もちろん」 「御曹司様、そういうの得意そう」 「得意だ」 少しだけ笑えた。 その笑いを合図にするみたいに、千歳は黒い作戦ノートを開いた。 「今後の方針を決める」 「うん」 「一つ。灯庭舎の件は、鏡味にも調査させる」 「分かった」 「二つ。君は院長先生に追加資料を確認する。ただし、一人で狗飼周辺には接触しない」 「分かった」 「三つ。偽装関係は継続。むしろ強める」 「強める?」 「相手は、君を揺さぶるために灯庭舎の写真を送ってきた。つまり君が俺の近くにいることを不快に思っているか、利用価値があると見ている」 「それで?」 「こちらから、もっと価値があると思わせる」 千歳はペンを置く。 「俺が君を手放せなくなっているように見せる」 その言葉に、心臓が鳴った。 「……それ、偽装?」 「偽装だ」 「本当に?」 千歳は少し黙る。 それから、俺を見る。 「半分」 「残りは?」 「今は言わない」 「逃げた」 「逃げたな」 自分で認めた。 珍しい。 俺は思わず笑った。 「千歳さんでも逃げるんだな」 「君の前では、最近よく逃げている」 「なら追うぞ」 「今は追うな」 「命令?」 「願い」 俺は頷いた。 「分かった。今は追わない」 千歳の目が、少しだけ柔らかくなった。 「ありがとう」 その言葉が静かに落ちる。 俺は胸が苦しくなって、青いマグを手に取った。 今はインスタントコーヒーではなく、水。 冷たい。 少し落ち着く。 「偽装関係を強めるって、具体的には?」 俺が聞くと、千歳は表情を整えた。 「余白の部屋への出入りを、ある程度見せる」 「ここを?」 「直接場所は漏らさない。ただ、俺が君と二人で会う時間を増やしていることは匂わせる」 「危なくないか」 「危ない」 「おい」 「だが、敵が欲しがるのは“秘密の関係”だ。こちらが完全に隠すより、隠しきれていないように見せた方が食いつく」 「作戦としては分かる」 「不満か?」 「お前が自分を餌にしすぎるのが不満」 「君も餌だ」 「そこは否定しろ」 「嘘はつかない」 「正直すぎる御曹司」 千歳は少しだけ笑った。 「だから、二人でやる」 その一言で、胸が少し静かになる。 二人で。 それなら、まだ進める。 俺一人で汚れるわけではない。 千歳一人が餌になるわけでもない。 二人で嘘をつく。 二人で、本当を残す。 「分かった」 俺は言った。 「やる」 「ただし」 千歳が続ける。 「前提がある」 「何」 「君が一人で復讐に走らないこと」 痛い。 今、まさに刺された。 「……分かった」 「本当に?」 「本当に」 「なら、言葉にして」 千歳は逃がさない。 俺は息を吸った。 「俺は、狗飼錆人の件で一人で動かない。怒っても、先にお前に言う」 千歳は頷いた。 「よろしい」 「先生かよ」 「君には必要だ」 「否定できない」 「それから」 「まだあるのか」 「ある」 千歳は少しだけ目を伏せた。 「君が復讐したいと思うこと自体は、否定しない」 胸が鳴った。 「でも、それを一人で背負うな」 「……」 「復讐するなら、二人でやる」 言葉が、部屋に落ちた。 重くて、危なくて、少し甘い。 「御曹司様が復讐とか言うと、怖いな」 「怖がらせるために言った」 「性格悪い」 「知っている」 千歳は静かに言った。 「ただし、俺たちの復讐は、相手を殴りに行くことではない」 「じゃあ何だ」 「相手の嘘を暴くこと」 千歳の声に、冷たい刃が戻る。 「狗飼錆人が灯庭舎を壊したなら、その証拠を取る。白蝶会と瑠璃香が開発のために過去から仕込んでいたなら、その流れを明らかにする。叔父上が利用されているなら、引き剥がす」 「全部やるのか」 「やる」 「強いな」 「君が頼ったからな」 心臓が跳ねた。 千歳は、わざとではない顔をしている。 たぶん本気で言った。 俺が頼ったから。 だから応える。 「……そういうの」 「軽い口で言うな?」 「うん」 「軽くない」 今度は、俺が黙った。 千歳は本当に、少しずつ俺の言葉を奪っていく。 そして、もっと強い形で返してくる。 反則だ。 作戦をまとめたあと、少し休憩になった。 俺はキッチンに立ち、二つのマグにコーヒーを入れた。 千歳は灯庭舎の写真をもう一度見ている。 その顔が、ひどく真剣だった。 「なあ」 俺は青いマグを手に言った。 「何かな」 「俺、今日かなり怒ってる」 「知っている」 「たぶん、これからもっと怒る」 「だろうな」 「それで、千歳さんにひどいこと言うかもしれない」 千歳が顔を上げる。 「俺に?」 「止められたら、八つ当たりするかも」 「予告するのか」 「信じる練習中だから」 千歳は、少しだけ目を細めた。 「いいだろう」 「いいのか」 「八つ当たりは受け止めない。止める」 「あ、そこは優しくない」 「君の怒りは受け止める。だが、不当な攻撃は受け止めない」 「……ちゃんとしてるな」 「契約は大事だ」 「恋愛も?」 「なおさら」 俺は笑った。 千歳も少しだけ笑った。 その笑いのあと、千歳は白いマグを両手で包んだ。 両手。 助けろ、の合図。 俺はすぐ気づいた。 「助ける?」 千歳は少しだけ苦笑する。 「少し」 「どうした」 「君の怒りを見ていたら、俺も腹が立ってきた」 「灯庭舎のこと?」 「それもある」 「他には?」 千歳は少し黙った。 「君が、その怒りを抱えて一人でどこかへ行くかもしれないと思った」 俺は息を止めた。 「行かない」 「分かっている」 「でも怖い?」 「少し」 正直に言った。 千歳が。 俺は近づきかけて、止まった。 触れない約束。 でも、合図は出ている。 助けろと言われた。 「触れる?」 俺が聞くと、千歳は少し考えた。 「今は、言葉で」 「分かった」 俺はソファの隣に座った。 近い。 でも触れない。 「行かない」 俺は言った。 「約束したから」 「うん」 「怒っても、お前のところに来る」 千歳の睫毛が揺れる。 「うん」 「復讐したくなったら、まずお前に言う」 「うん」 「一緒にやる」 千歳が、少しだけ目を伏せた。 「……そうだな」 「二人で」 俺が言うと、千歳はゆっくり頷いた。 「二人で」 その言葉だけで、少し落ち着いた。 触れなくても、ちゃんと届くことがある。 触れない約束は、やっぱり距離を作るためではなかった。 言葉を逃がさないための約束だ。 夕方になる頃、鏡味から千歳に連絡が入った。 灯庭舎の過去の件について、いくつか古い記録が見つかったらしい。 支援団体の名義。 仲介した人物の別名。 そして、狗飼錆人が過去に関与していた投資会社の名前。 完全な証拠ではない。 でも、線はかなり濃くなった。 「錆人だな」 俺が言うと、千歳は端末を見ながら頷いた。 「まだ詰める必要はある」 「でも、ほぼ」 「そうだ」 怒りが戻ってくる。 しかし、今度は暴れなかった。 千歳が隣にいる。 ここに怒りを置いていい。 それが分かっているだけで、少し違った。 「纏」 千歳が言った。 「何」 「これから、君は狗飼錆人に対してかなり冷静でいなければならない」 「無理そう」 「無理でもやる」 「厳しい」 「俺が隣にいる」 その一言で、何かが止まった。 心臓も、怒りも、少しだけ。 「……それ、反則」 「事実だ」 「最近、事実が一番反則なんだよ」 千歳は少しだけ笑った。 「では、事実をもう一つ」 「何」 「俺は、君と戦う」 胸が熱くなる。 千歳はまっすぐ俺を見る。 「灯庭舎のためだけではない。澪標の丘のためだけでもない。俺自身のためでもある」 「うん」 「そして」 千歳は少しだけ言葉を止めた。 珍しく、迷う。 俺は待った。 「君の怒りを、一人で終わらせたくない」 言葉が刺さった。 優しい刃みたいだった。 「千歳さん」 「何かな」 「俺、たぶん本当にお前のこと——」 好きだ。 言いかけた。 今度こそ、喉元まで出た。 でも、止まった。 千歳も、それに気づいた。 部屋が静かになる。 俺は息を吐く。 「まだ、言わない」 「なぜ」 「勝手に感情で流したくない」 千歳は目を細めた。 「六番のルールか?」 好きだと言えるまでは、勢いでキスしない。 その一文。 「言えるまでは、じゃなくて」 俺はゆっくり言った。 「言うなら、ちゃんと全部背負って言いたい」 千歳は黙っていた。 俺は続ける。 「今言ったら、怒りとか、安心とか、お前が隣にいる嬉しさとか、全部混ざってる」 「混ざっていてはいけないのか」 「いけなくない。でも、俺はちゃんと選びたい」 「選ぶ?」 「お前を好きだって言うなら、逃げでも、勢いでも、復讐の共犯だからでもなく、俺がそうしたいから言いたい」 千歳は、長い間俺を見ていた。 やがて、少しだけ目を伏せる。 「……君は時々、腹が立つほど誠実だな」 「時々かよ」 「普段は口が悪い」 「お前もな」 千歳は笑った。 でも、その笑顔は少しだけ泣きそうにも見えた。 「では、待つ」 「また?」 「君がちゃんと選ぶまで」 「長いかも」 「構わない」 「本当に?」 「その代わり」 「何」 千歳は、静かに言った。 「俺も、ちゃんと選ぶ」 胸が鳴った。 千歳も、まだ言わない。 でも、逃げない。 ちゃんと選ぶ。 それだけで、今は十分だった。 少し沈黙が落ちた。 前なら、ここで俺は茶化していた。 「御曹司様に選ばれるとか高くつきそう」なんて言って、全部を軽くしていた。 でも、今日はできなかった。 軽くしたくなかった。 千歳も、何も言わなかった。 ただ、白いマグを持つ手から力を抜いて、ゆっくり俺を見た。 「纏」 「何」 「触れる」 心臓が跳ねた。 今度は、千歳からだった。 「理由は?」 俺は、できるだけ落ち着いた声で聞いた。 千歳は少しだけ息を吸った。 「君の怒りを止めるためではない」 「うん」 「君を許すためでも、許されるためでもない」 「うん」 「共犯者として、同じ場所に立つためだ」 胸が詰まった。 「手?」 「いや」 千歳は、少しだけ迷ったあと、まっすぐ俺を見た。 「正面から」 言葉の意味を理解するのに、一拍かかった。 正面から抱きしめる。 昨日、俺が千歳を抱きしめた。 あれは、千歳の怖さを受け止めるためだった。 今度は、千歳から。 この前より、ずっと穏やかに。 でも、たぶん同じくらい重い。 「……恋人じゃないぞ」 俺は、苦し紛れに言った。 千歳は静かに頷いた。 「知っている」 「まだ、好きとも言ってない」 「知っている」 「共犯者だ」 「そうだ」 千歳は少しだけ目を伏せた。 「まだ恋人ではない」 「うん」 「だが、離れろとは言っていない」 その一言で、俺は何も言えなくなった。 離れろとは言っていない。 それだけなのに、どうしてこんなに甘い。 千歳は立ち上がった。 俺も立つ。 距離は近い。 昨日のハグの記憶が、身体に残っている。 でも、今日の千歳は昨日より落ち着いていた。 怖いまま信じる、と書いた男が、今日は自分の足でこちらへ来ている。 「許可する」 俺が言うと、千歳の目が少しだけ揺れた。 「君が言うのか」 「言ってみたかった」 「ずるいな」 「お前ほどじゃない」 千歳はほんの少し笑った。 そして、正面から俺を抱きしめた。 昨日よりも、静かな抱擁だった。 壊れそうな感情を止めるためではない。 泣きそうな怖さを受け止めるためでもない。 もっと穏やかで、でも深い。 共犯者の距離だった。 腕の中に閉じ込めるのではなく、同じ場所に立つために触れる。 お前は一人で行くな。 俺も一人では行かない。 そう言葉にしないまま、身体の距離で確認する。 千歳の腕は、思ったよりしっかり俺の背に回った。 俺は一瞬だけ戸惑って、それからゆっくり腕を返す。 強く抱きしめすぎない。 でも、離れない。 「……これ、かなり」 俺が言うと、千歳が胸元で小さく笑った。 「困る?」 「困る」 「俺もだ」 「じゃあ離れる?」 千歳は少し沈黙した。 そして、低く言った。 「まだ」 胸が熱くなる。 「何秒?」 「数えない」 「御曹司様、今日は曖昧だな」 「今日だけだ」 「今日だけが多い」 「君に移った」 俺は笑った。 千歳も、少しだけ笑った。 笑いながら、まだ離れない。 抱きしめる理由は、はっきりしている。 共犯者として、同じ場所に立つため。 なのに、その理由だけでは説明できない熱が、胸の奥に残る。 でも、それでいいのかもしれない。 全部を今すぐ名前にしなくてもいい。 俺たちはまだ恋人ではない。 でも、離れろとは言われていない。 そして俺も、離れたいとは思っていない。 「纏」 千歳が言った。 「何」 「君の怒りを、一人で終わらせない」 「うん」 「俺の怖さも、一人で抱えない」 「うん」 「復讐するなら、二人で」 「二人で」 「嘘を暴く」 「全部、暴く」 千歳の指が、俺の背中でほんの少し強くなる。 「それが、俺たちの共犯だ」 俺は目を閉じた。 「……共犯者の告白ってやつか」 「何だそれは」 「今、思いついた」 「語彙が安い」 「でも悪くないだろ」 千歳は少し黙ってから言った。 「悪くない」 高評価。 たぶん、かなり。 やがて、千歳が先に腕を緩めた。 俺も離れる。 少しだけ、名残惜しかった。 でも、言わない。 顔には出ている気がする。 案の定、千歳が見る。 「顔」 「見るな」 「名残惜しそうだ」 「……してる」 認めた瞬間、千歳の目が柔らかくなる。 「俺もだ」 やめろ。 本当に、そういうのをまっすぐ言うな。 俺は青いマグを取って、水を飲んだ。 冷たい。 全然落ち着かない。 「作戦ノート」 千歳が言う。 「書くのか、今のも」 「当然だ」 「機密情報が増える」 「君の字で守ればいい」 「俺の字を暗号扱いするな」 二人でテーブルに戻った。 俺は安いメモ帳を開く。 夜になる前に、今日の記録を残す。 俺の字で。 ーー 灯庭舎の過去。犬飼。黒い指輪。狗飼錆人の線、濃厚。 俺、怒る。千歳、止める。 復讐するなら二人で。 言いかけた。でもまだ言わない。ちゃんと選ぶ。 千歳、正面から触れる。理由:共犯者として同じ場所に立つため。 まだ恋人ではない。だが、離れろとは言っていない。 ーー 書いて、自分で息が詰まった。 最後の一文。 強すぎる。 千歳はしばらくその文字を見ていた。 それから、俺からペンを受け取り、下に書いた。 ーー 俺も選ぶ。 共犯者の距離。効果:安定。危険度:継続して高。 ーー 「危険度、継続して高って何だよ」 「事実だ」 「何が危険?」 千歳は少しだけ目を伏せた。 「共犯者という言葉が、便利すぎる」 胸が鳴った。 「恋人未満の言い訳に使えるから?」 「そうだ」 「……お前、正直になりすぎじゃない?」 「逃げない場所だからな」 また返された。 俺は頭を抱えた。 「その言葉、強すぎるんだよ」 「君が書いた」 「そうだけど」 「責任を取れ」 「出た」 「名付け親だろう」 「メモ帳の?」 「この部屋の」 俺は何も言えなかった。 余白の部屋。 逃げない場所。 本当を残す場所。 ここにいると、俺たちは少しずつ逃げられなくなっていく。 でも、それが嫌じゃない。 むしろ、少し安心する。 重い話をしたあとでも笑える。 触れたあとでも、まだ言葉にできる。 それが、今の俺たちの救いだった。 玄関で別れる時、千歳は俺を見た。 「纏」 「何」 「今日は一人で行かなかったな」 「行きたかったけどな」 「知っている」 「でも来た」 「うん」 「褒めて」 千歳が一瞬止まる。 それから、少しだけ笑った。 「よくできました」 「子供扱いすんな」 「君が求めた」 「もっと別の褒め方あるだろ」 千歳は少し考え、真面目な声で言った。 「頼ってくれて、よかった」 胸が詰まった。 「……それは」 「褒めている」 「全部?」 「全部」 本当に、困る。 俺は目を逸らした。 「顔」 「見るな」 「嬉しそうだ」 「してるよ」 認めると、千歳は柔らかく笑った。 「素直だな」 「今日だけ」 「またか」 「在庫処分」 「買い占めると言っただろう」 「高くつくぞ」 「君が?」 「俺が」 いつものやりとりで終わる。 そう思った時、千歳がふと真面目な顔になった。 「次は、叔父上を引き剥がす準備に入る」 「斎門さん?」 「ああ」 「白蝶会から?」 「彼は完全な悪人ではない。ただ、劣等感を利用されている」 「千歳さんらしいな」 「何が」 「敵でも、ちゃんと見るところ」 千歳は少し黙った。 「利用できるものを見ているだけだ」 「違うだろ」 「……」 「お前は、誰かがまだ戻れるかどうかも見てる」 千歳は答えなかった。 でも、その沈黙が答えだった。 「次は、叔父さんを落とすのか」 俺が言うと、千歳は目を細める。 「言い方」 「攻略ログ番外編?」 「君の悪影響が強いな」 「褒めてる?」 「半分」 「残りは?」 「使える」 俺は笑った。 「じゃあ、使えよ」 千歳は俺を見る。 「いいのか」 「共犯だろ」 「そうだったな」 「ただし、一人で抱えるなよ」 「君もな」 「約束」 「約束だ」 ドアが閉まる前、千歳が一度だけ振り返った。 「纏」 「何」 「まだ恋人ではない」 「分かってる」 「だが」 「うん」 「離れろとは、言っていない」 二度目。 分かっていて言っている。 俺を殺しに来ている。 「……千歳さん」 「何かな」 「それ、危険度非常に高」 千歳は、ほんの少し笑った。 「記録しておけ」 ドアが閉まった。 俺はその場に立ったまま、しばらく動けなかった。 共犯者。 恋人ではない。 まだ、好きとも言っていない。 でも、離れろとは言われていない。 その距離が、今の俺たちにはいちばん危ない。 **** その夜、千歳からメッセージが来た。 『今日は、君が来てよかった』 俺はベッドに転がりながら、しばらく画面を見ていた。 それから返す。 『行ってよかった。怒りで突っ走らずに済んだ』 少しして、返信。 『俺のところで怒れと言っただろう』 俺は笑った。 『次も怒りに行く』 既読。 少し間があって。 『待っている。ただし、暴れるなら事前申請を』 「申請制かよ」 声に出して笑ってしまった。 俺は返す。 『申請先、玻璃宮千歳様で合ってる?』 返信。 『俺以外に出すな』 心臓が跳ねた。 さらっと、そういうことを言う。 俺以外に出すな。 怒りを。弱さを。 たぶん、もっといろんなものを。 俺は画面を見つめたまま、ゆっくり返した。 『分かった。千歳さん以外に出さない』 送信してから、顔が熱くなった。 意味が重い。重すぎる。 でも、取り消さなかった。 千歳からの返事は、少し遅かった。 『俺も、君以外に言わないようにする』 何を、とは書いていない。 でも、分かった。 悔しいも、怖いも、信じたいも。 たぶん、好きに近い何かも。 俺はスマホを胸の上に置いた。 狗飼錆人への怒りは、消えていない。 むしろ、これから強くなる。 でも、その怒りを一人で持たなくていいことを、今日知った。 復讐するなら、二人で。 ただし、殴りに行くのではなく、嘘を暴く。 それが俺たちの戦い方になる。 俺は目を閉じた。 千歳の文字が浮かぶ。 俺も選ぶ。 まだ、好きとは言っていない。 でも、もうほとんどそこにいる。 次は、叔父を白蝶会から引き剥がす。 恋の作戦は、政治の作戦へ変わっていく。 でも、その中心にあるものは変わらない。 同じ地図に立ってしまった俺たちが、同じ場所を守るために、同じ嘘を武器にする。 俺は小さく息を吐いた。 最初は仕事だった。 今はもう、違う。そして次からは。 愛だとまだ言わないまま、俺はたぶん、愛のために戦う。

ともだちにシェアしよう!