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第17話 叔父を落とすのは、恋より簡単

「叔父上を落とす」 余白の部屋で、玻璃宮千歳は真顔でそう言った。 俺は青いマグを持ったまま、少し黙った。 「……言い方」 「君が前に言ったんだろう。攻略だと」 「俺の悪影響が出すぎてる」 「使えるものは使う」 千歳は黒い作戦ノートを開いた。 テーブルには、玻璃宮斎門の資料。 白蝶リゾート構想の修正版案。 白蝶会との資金関係を示す資料。 そして、斎門が過去に主導した小規模事業の記録。 俺はそれを見て、少し意外だった。 「斎門さん、意外とちゃんと仕事してるな」 「意外とは失礼だ」 「敵側だと思ってたから」 「敵側ではある。だが、無能ではない」 千歳は淡々と言った。 「叔父上は、地方工芸の支援事業や、古い商店街の再生事業を成功させたことがある。派手ではないが、現場を見る力はあった」 「じゃあ何で白蝶リゾートなんかに」 「父に勝ちたかったんだろう」 その声は冷静だった。 でも、少しだけ痛そうだった。 「玻璃宮玄理の弟である限り、何をしても“総帥には及ばない”と言われる。そこへ瑠璃香が、“あなたこそ玻璃宮の未来を変える人だ”と囁いた」 「承認欲求を刺されたわけか」 「そうだ」 俺はマグを置いた。 「だったら、斎門さんを白蝶会から引き剥がすには、瑠璃香さんより先にちゃんと認めるしかない」 千歳が俺を見る。 「褒め殺しか?」 「違う。雑に褒めると逆に警戒される」 「経験者は語る?」 「誰かさんが攻略不能だったからな」 千歳の目がわずかに細くなる。 「俺は攻略された覚えはない」 「俺が落ちたからな」 言ってから、部屋の空気が止まった。 しまった。 最近こういう言葉が、息をするみたいに出る。 千歳は白いマグを両手で包んだ。 両手。 助けろ、の合図ではない。たぶん。 でも、俺にはそう見えてしまう。 千歳も動揺している。かなり。 「……今のは、記録するべきか?」 「するな」 「本当の記録だろう」 「危険物すぎる」 「では、心に記録する」 「もっと危ないこと言うな」 千歳は少し笑った。 でも、その笑いの奥に、ちゃんと熱が残っている。 俺は逃げないように、資料へ目を戻した。 「斎門さんには、“あなたは間違ってない。ただ、使われている”って形で行く」 「それは前回も提示した」 「今回は、もっと具体的にする。斎門さんの功績として残る道を用意する」 千歳はノートに書き込む。 白蝶リゾート構想から、文化保全型再生計画へ。 斎門を失敗者ではなく、軌道修正の責任者にする。 「つまり、叔父上に逃げ道を渡す」 「逃げ道って言うと聞こえ悪いけどな」 「では?」 「戻り道」 千歳のペンが止まった。 「戻り道」 「間違えた人間が戻ってくる道。プライドが高い相手ほど、それがないと戻れない」 千歳は少し黙った。 「君は」 「何」 「本当に、そういうところを見るのがうまい」 「ホストなんで」 「逃げた」 「今日は許せ」 「許す」 「甘いな」 「君が使えるからな」 「言い方」 俺たちは少し笑った。 その後、千歳は静かに言った。 「叔父上を完全に信用するつもりはない」 「うん」 「だが、戻れるなら戻したい」 「うん」 「俺は、甘いのか」 その問いが、思ったより小さかった。 俺は千歳を見た。 玻璃宮千歳。 財閥の中心で育ち、誰にも弱みを見せずに立ってきた男。 でもこの部屋では、時々こういう顔をする。 自分の優しさに、自分で困っている顔。 「甘いよ」 俺は言った。 千歳の目が少し揺れる。 「だが」 「でも、その甘さがないと、俺たぶんここまで来てない」 千歳は黙った。 「最初に俺を切ろうと思えば切れた。利用したとはいえ、俺のことも待った。灯庭舎のことも一緒に抱えた。斎門さんにも戻り道を作ろうとしてる」 俺は青いマグを指でなぞった。 「だから、甘い」 「……」 「でも、弱くはない」 千歳の睫毛が揺れた。 「そうか」 「うん」 「なら、今日はその甘さを使う」 「御曹司様、開き直りが早い」 「君が言ったんだろう」 「何を」 「使えるものは使う」 俺は笑った。 その笑いが、緊張を少しだけほどいた。 千歳は資料をまとめながら、ふと手を止めた。 「今日の接触ルールを確認する」 「真面目だな」 「必要だ」 「斎門さん相手に、手つなぎでもするのか」 「しない」 即答だった。 「ですよね」 「だが、会合中に俺が資料を両手で持った場合は」 「助けろ?」 「そうだ」 「カップ以外にも拡張されたな」 「状況に応じて運用する」 「御曹司様、ルール改定が早い」 「君が余計な分岐を作るからだ」 俺は苦笑した。 「で、俺はどう助ければいい」 「隣に立て」 「触れない?」 「基本は触れない」 「基本は?」 千歳は少しだけ視線を落とした。 「必要なら、指先だけ」 胸が鳴る。 「理由は?」 「戦う合図」 「……」 「偽装ではなく、共犯として」 俺は、青いマグを持つ指に力が入るのを感じた。 「分かった」 「それから、叔父上の前では俺たちは恋人ではない」 「うん」 「だが、距離が近いと思わせる」 「まだ恋人ではない共犯者さん、だろ」 千歳の耳が少し赤くなった。 「その言い方をやめろ」 「お前が言ったんだろ」 「君が先に言った」 「どっちでも危険度高いな」 「メモ帳に書くな」 「書くかも」 「書くな」 余白の部屋の空気が、少しだけ甘くなる。 でも、今日は甘いだけでは終われない。 斎門を引き剥がす。 白蝶会の手から。 そのためには、千歳の甘さも、俺の人を見る目も、全部使う。 **** その日の会合は、玻璃宮グループの小さな迎賓室で行われた。 表向きは、白蝶リゾート構想の再検討。 実際は、斎門を白蝶会から完全に引き剥がすための場。 出席者は少ない。 千歳。俺。斎門。 それから斎門側の秘書が一人。 白蝶会側の人間は呼ばれていない。 これ自体が、斎門へのメッセージだった。 あなたを、彼ら抜きで話せる相手として扱う。 斎門は部屋に入るなり、俺を見て眉をひそめた。 「また君か」 「また俺です」 「ホストが財閥の会議に出入りするとは、ずいぶん時代が変わったものだ」 「俺も驚いてます」 「開き直るな」 「すみません」 俺が素直に頭を下げると、斎門は少し拍子抜けしたような顔をした。 千歳が静かに言う。 「叔父上。今日は、叔父上にしかできない話があります」 斎門は千歳を見る。 「ずいぶん持ち上げるな」 「持ち上げてはいません。事実です」 千歳は資料を差し出した。 それは、斎門が過去に関わった地域再生事業の一覧だった。 古い商店街。地方工芸。 使われなくなった倉庫を活用した文化施設。 どれも大規模ではない。 だが、人の暮らしに近い事業だった。 斎門の表情が、少しだけ変わる。 「これは」 「叔父上の実績です」 千歳は淡々と続けた。 「白蝶リゾート構想よりも、こちらの方が叔父上らしい」 斎門の眉が動いた。 「私らしい、だと?」 「はい」 「君に何が分かる」 「正直に言えば、今まで見ようとしていなかった部分もあります」 千歳は頭を下げたわけではない。 でも、その声には確かな譲歩があった。 「俺は、叔父上を白蝶会に利用されている人間としてしか見ていなかった。だが、それだけでは足りなかった」 斎門は黙った。 俺も黙っていた。 ここは、千歳の場面だ。 「叔父上は、父とは違う形で土地を見る人です」 「……違う形?」 「父は大きな流れを見る。叔父上は、現場に残る小さな価値を見る」 斎門の指が、資料の端に触れた。 その指が、ほんの少し震えていた。 必要とされたかった人間の手だと思った。 俺は、それを見ないふりはしなかった。 千歳も、たぶん見ている。 「白蝶リゾート構想は、その叔父上の視点を利用しているだけです。古いものを知る叔父上に旗を持たせ、その実、古いものを消す計画になっている」 「証拠は」 「あります」 千歳は別の資料を出した。 狗飼錆人につながる投資会社。 白蝶会関連法人。 土地取得予定の不自然な流れ。 灯庭舎への過去の接触。 斎門は資料を読み進めるにつれ、顔色を変えた。 「……これは、どこまで裏を取っている」 「八割」 「八割で私に突きつけるのか」 「残り二割を、叔父上に取っていただきたい」 斎門の目が動いた。 千歳はまっすぐ言った。 「白蝶リゾート構想を、叔父上自身の手で再設計してください」 沈黙。 斎門の秘書が息を呑む。 千歳は続けた。 「文化保全型再生計画として。澪標の丘、灯庭舎、古い水路、工芸施設、地域の記憶を残しながら、資金を回す形に組み替える」 「それは、君の理想だろう」 斎門の声は硬かった。 「いいえ」 千歳は首を振る。 「俺一人ではできません。俺は守るものに感情を持ちすぎている。叔父上の現実感が必要です」 斎門の顔が歪んだ。 怒りではない。 痛みだった。 ずっと欲しかった言葉を、ようやく差し出された人間の顔。 必要だ。 千歳はそう言った。 その時、千歳の手が資料の上でわずかに止まった。 白蝶会の名が記されたページ。 狗飼錆人の投資会社。 灯庭舎への過去の接触。 千歳は冷静に話している。 でも、その指先が、ほんの少し冷えているように見えた。 俺はテーブルの下で、指を少し動かした。 触れるかどうか、迷った。 会合中。 人前。 でも、これは偽装ではない。 戦う合図。 俺は、自分の指先を千歳の手の近くへ置いた。 触れる直前。 千歳が一瞬だけこちらを見る。 理由は? そう聞かれた気がした。 俺は声には出さず、目だけで返した。 ここにいる。 千歳の指が、ほんの一瞬だけ俺の指に触れた。 握らない。 絡めない。 ただ、触れる。 行くぞ、という千歳の合図。 行け、という俺の返事。 それだけで、千歳の声は少しだけ強くなった。 「叔父上」 千歳は言った。 「叔父上が、玻璃宮玄理になる必要はありません」 斎門の目が揺れる。 「私が、兄になる必要はないと?」 「はい」 「君にもなれない」 「叔父上が俺になる必要もありません」 斎門は顔を上げた。 千歳は言った。 「玻璃宮に、同じ人間は二人もいりません」 その言葉に、部屋の空気が変わった。 俺は胸の奥が熱くなった。 千歳は本当に、戻り道を作っている。 負けた叔父ではなく、必要な別の玻璃宮として。 斎門は笑った。 乾いた、少し苦い笑いだった。 「……君は、本当に可愛げがない」 「よく言われます」 「だが」 斎門は資料を閉じた。 「瑠璃香よりは、ずっとましな口説き文句だ」 勝った。 そう思った。完全ではない。 だが、白蝶会の手から斎門が半歩離れた音がした。 その時、斎門が俺を見た。 「架橋くん」 「はい」 「君は先日、私を認められたい人間のように言ったな」 「あー……失礼しました」 「失礼だった」 斎門はそう言って、少しだけ笑った。 「だが、当たっていた」 俺は少しだけ目を見開いた。 「人の欲を見るのがうまいな。君は」 「ホストなんで」 「便利な言葉だ」 千歳と同じことを言うな。 俺は思わず千歳を見た。 千歳は少しだけ笑いをこらえていた。 斎門は立ち上がった。 「資料は預かる。瑠璃香との距離は、こちらで調整する」 千歳の目が少し鋭くなる。 「叔父上」 「分かっている。まだ信用しろとは言わん。だが、私にも私の意地がある」 斎門は扉へ向かいかけて、最後に言った。 「利用されたまま終わるほど、落ちぶれてはいない」 扉が閉まる。 部屋に静寂が落ちた。 俺は、長く息を吐いた。 「落ちた?」 千歳が言う。 「かなり」 「叔父上を落とすのは、恋より簡単か?」 俺は固まった。 「お前、それ言う?」 「言ってみたかった」 「御曹司様、悪影響受けすぎ」 千歳は少しだけ笑った。 だが、その笑みはすぐに消えた。 「まだ終わっていない」 「斎門さんが白蝶会を切るまで?」 「そうだ。それに、瑠璃香と狗飼はすぐに気づく」 「次は向こうが動く」 「おそらく」 嫌な予感がした。 こういう時、俺の勘はだいたい当たる。 **** 会合後、俺たちは余白の部屋へ戻った。 千歳は珍しくソファに深く沈んだ。 本当に疲れたらしい。 俺はキッチンで白と青のマグにコーヒーを入れた。 インスタント。 でも、もうこの部屋ではそれが普通になっていた。 「飲め」 白いマグを渡すと、千歳は受け取った。 「命令?」 「願い」 「今日は命令でもよかった」 「疲れてる?」 「かなり」 素直。 それだけで、胸がきゅっとなる。 俺は隣ではなく、少し離れた椅子に座った。 「よくやったな」 千歳がこちらを見る。 「子供扱いか?」 「違う。ちゃんと褒めてる」 「俺を?」 「お前を」 千歳は黙った。 俺は続ける。 「斎門さんに、戻り道作っただろ。あれ、簡単じゃない」 「……」 「自分の母親の場所を潰そうとしてた相手だぞ。それでも、潰すんじゃなくて戻そうとした」 千歳は白いマグを両手で包む。 「利用価値がある」 「うん」 「叔父上が戻れば、白蝶会への打撃になる」 「うん」 「それだけだ」 「違うだろ」 千歳は、少しだけ眉を寄せた。 「違うって言うな」 「違うからな」 「君は」 「何」 「俺を甘く見すぎる」 「甘い男だと思ってる」 「……」 「でも、弱い男だとは思ってない」 千歳は黙った。 白いマグの湯気がゆっくり上がる。 やがて彼は、静かに言った。 「俺は、叔父上が嫌いだった」 「うん」 「父と比べられて拗ねているように見えた。母の場所まで利用して、つまらない意地に巻き込むなと思った」 「うん」 「でも今日、少し分かった」 「何が?」 「叔父上も、ずっと玻璃宮の中で迷子だったんだろう」 その言葉に、胸が少し痛んだ。 玻璃宮の中で迷子。 それは斎門だけの話ではない気がした。 千歳も、きっとそうだった。 「千歳さんも?」 俺が聞くと、千歳は目を伏せた。 「かもしれない」 珍しく、曖昧ではなく認めた。 「でも、今は?」 千歳は少し考えた。 「今は、余白の部屋がある」 心臓が鳴った。 「それ、かなり」 「何かな」 「嬉しい」 千歳の指が、マグの取っ手に触れる。 「そうか」 「うん」 「なら、よかった」 柔らかい声だった。 俺は、自分の中で何かがまた一歩進むのを感じた。 好きだ。もう本当に、言うだけだ。 言うタイミングを、選んでいるだけだ。 その時、千歳のスマホが鳴った。 鏡味からだった。 千歳はすぐに取る。 「鏡味」 声が変わる。 俺も姿勢を正した。 「……何?」 千歳の表情が冷えた。 「今どこにいる」 間。 「一人か?」 さらに間。 千歳の指が白いマグから離れる。 「無理をするな。すぐ戻れ」 通話は切れた。 俺は立ち上がった。 「何があった」 千歳はスマホを握ったまま言った。 「鏡味が、狗飼錆人の部下筋を追っていた」 「一人で?」 「本人は、確認だけだと言った」 「それで?」 千歳は低く言った。 「白蝶会側に気づかれた可能性がある」 空気が凍った。 次の瞬間、千歳のスマホにメッセージが届いた。 差出人不明。 写真。 地下駐車場のような場所。 鏡味の手袋が床に落ちている。 その横に、短い文。 『忠犬は、主人のために口を閉ざせるでしょうか』 千歳の顔から、血の気が引いた。 「鏡味……」 声が、初めて聞くほど低く震えていた。 俺はすぐに千歳の前に立った。 「千歳さん」 「行く」 「待て」 「行く」 千歳の目が、完全に危ない色をしていた。 冷静じゃない。 こんな千歳は初めてだった。 「俺が行く」 「駄目だ」 「鏡味が」 「分かってる!」 千歳が声を荒げた。 本当に、初めてだった。 余白の部屋が震えたように感じた。 千歳は自分でも驚いたように、一瞬息を止めた。 でも、すぐにまた動こうとする。 「俺が行かなければ」 「行けば相手の思う壺だ」 「分かっている!」 「分かってるなら止まれ!」 俺も声を荒げた。 千歳が俺を見る。 その目の奥に、焦りと恐怖があった。 鏡味は、千歳にとって家族だ。 母を知る人。 子供の頃からそばにいた人。 たぶん、千歳が弱い顔を見せられる数少ない人。 その鏡味が狙われた。 千歳が壊れかけるのは当然だった。 「千歳」 初めて、さんを外した。 千歳の動きが止まる。 「俺を見ろ」 「……」 「両手」 千歳は、自分の手元を見た。 スマホを両手で握りしめていた。 助けろ。 合図。 「今、助ける」 俺はゆっくり近づいた。 「触れる」 千歳が、かすかに息を呑む。 「理由は」 声が震えている。 それでも聞く。 ルールを守ろうとしている。こんな時まで。 「止めるため」 俺は言った。 「それと、ここに戻すため」 千歳は何も言わなかった。 でも、拒否もしなかった。 俺は千歳の手首に触れた。 強くではない。 逃げ道を塞ぎすぎないように。 でも、離さない程度に。 千歳の手は冷たかった。 「行くなとは言わない」 俺は低く言った。 「でも、一人で行くな」 千歳の喉が動く。 「鏡味が」 「助ける」 「……」 「二人で」 千歳の目が揺れる。 「俺は、冷静でいられない」 「俺がいる」 「俺は、あいつらを壊したくなる」 「俺が止める」 「止められるのか」 「止める」 即答した。 「お前が狗飼を壊しに行くなら、俺が止める。鏡味さんを助ける方法を、一緒に考える」 千歳の呼吸が浅い。 俺は手首に触れたまま、続けた。 「お前、俺が一人で復讐に走るの止めたよな」 「……」 「今度は俺の番だ」 千歳の目が、少しだけ濡れて見えた。 「纏」 「何」 「怖い」 その一言で、胸が締めつけられた。 「うん」 「鏡味を失うのは、怖い」 「うん」 「俺は、また守れないのかもしれない」 「違う」 俺はすぐに言った。 「まだ失ってない」 千歳は俺を見る。 「まだ、鏡味さんは生きてる。相手が写真を送ってきたのは、取引材料にするためだ」 「……」 「だったら助ける。怒るのも怖がるのも、そのあとでいい」 千歳は、長い間黙っていた。 俺は、抱きしめそうになった。 正面から。 感情を止めるために。 けれど、今はまだ動く時だった。 ここで抱きしめたら、千歳を止めることはできるかもしれない。 でも、鏡味を助けるための初動が遅れる。 だから、手首だけ。 ここに戻すための接触だけ。 千歳の怖さを全部抱きしめるのは、次でもいい。 いや。次に、必ずする。 そう思った。 やがて千歳は、かすかに頷いた。 「助ける」 「うん」 「二人で」 「うん」 「……いや」 千歳は唇を噛む。 「全員で」 俺は少しだけ笑った。 「そうだな。全員で」 俺たちはすぐに動いた。 鏡味の端末位置。 地下駐車場の写真の照明。床材。白蝶会が使う関連施設。 千歳は震えを押し殺しながら、情報を洗い出す。 俺は螢へ連絡した。 狗飼錆人に近い夜の人脈。 黒い石の指輪をした男の出入り。 Club Perigeeの客から拾える噂。 できることはある。千歳だけではない。俺だけでもない。 共犯は二人から、少しずつ周囲を巻き込み始めている。 でも、その中心で、千歳はまだ白いマグに触れられないほど手が冷えていた。 その夜のメモ帳には、俺の字でこう書いた。 ーー 斎門さん、白蝶会から半歩離れる。戻り道成功。 会合中、指先が触れる。理由:戦う合図。 鏡味さんが狙われた。千歳、壊れかける。 俺、手首で止める。今度は俺の番。 抱きしめそうになった。でも、まだ助けに行く途中。 助ける。二人で。全員で。 ーー 千歳は、その下に震えを残した字で書いた。 ーー 怖い。だが、逃げない。 纏が手首を掴んだ。理由:ここに戻すため。効果:高。 次に壊れそうになったら、止めろ。 ーー 俺はその文字を見て、何も言えなかった。 ただ、白と青のマグの間に落ちた沈黙を、二人で抱えた。 落ちるふりは終わった。 叔父は揺れた。 でも敵は、次に一番痛いところを刺してきた。 鏡味静臣。 千歳の忠臣。千歳の過去を知る人。 次は、彼を取り戻す戦いになる。 そして俺は、その時もう分かっていた。 これはもう、偽装恋人の作戦ではない。 愛だと言わないまま、俺たちは愛で戦い始めている。

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