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第14話 闇に浮かぶ背

 ファーはふと空を見上げた。闇に浮かぶ三日月が輝いて見える。とても綺麗に光って見える月ではあったが、ファーは浮かばない表情をしたままかすかに眉をひそめた。こんなに綺麗な夜でも、ヨハイムはきっと現れないと、ファーには分かっていたからだ。ファーは、その三日月を眺めたままに小さくため息をつく。ヨハイムが現れるのは大抵満月で、それ以外の夜にはほとんど姿を現すことはなかった。いったいどこでなにをしているのか、ファーには関係のないことでもある。そう思っていたものの、ファーはあの夜以来なぜかヨハイムのことを考えない日はないのだ。  確かにあのとき、ファーはヨハイムと剣を交えた。ヨハイムに切り込んだときに感じた剣の振動が、いまでも手のひらに残っている。重々しい振動が伝わってきて、びりびりとした痛さが肩へと伝わってきた。やっと切り込めた、そう思った瞬間にヨハイムは身を翻して空高く飛び上がり、にやりと笑みを浮かべていたのだ。  するりと長い指が口元を覆っていた布地を取り去って、ゆったりと確実に弧を描く。わずかに隙を見せたヨハイムに、ファーは確実にその隙を突いていたはずだった。が、ヨハイムはいとも簡単にファーの突きつけた剣を弾き飛ばし、手にしていた曲剣でファーののど元を確実に付いていた。それはかろうじて手前で止まっていたものの、ヨハイムでなければファーは確実に殺されていただろう。 『お前の負けだ。』  低く、だが、はっきりとした囁きがヨハイムの口からこぼれて落ちる。にやりとなにかを見透かしたかのような笑みを口唇の端に浮かべ、しっかりとした手のひらがファーの腰を抱き寄せた。呆然とするファーにその笑みを浮かべた口唇を寄せ、わずかに重なった瞬間に離されて。  ファーはいまでもその感覚を忘れることはできなかった。月の薄明かりに透かされた淡く光る紫色の瞳も、口唇の端に浮かんでいた微笑みも。触れ合わされた口唇の感触も。腰を抱き寄せられた手の感触でさえ、まるで昨日のことのように思い浮かぶのだ。  ぎり、と歯軋りをしながらもファーは次の満月の夜、砂漠を横断する旅団をチェックしていく。そして、ヨハイムがいかにも狙いそうな旅団があるかどうか探すのだ。ヨハイムは小さな旅団はけして襲わない。私腹を肥やしたような集団を狙うのだ。  ヨハイムは卑怯な手を使うことはなかった。いつでも正面から戦いを挑み、そして見事に勝利を手にして去っていく。警備隊一の剣さばきを誇るファーでさえ敵わなかったほどの、凄腕を見せられては誰でも腰が引けてしまうのだろう。  今度こそあいつを捕まえてやる。  そう思えば思うほど、ファーは日々の訓練を熱心にこなし、満月の夜に砂漠を横断する旅団のチェックにも熱が入ったのだった。  銀色に輝く月を背に、一人の男が砂漠の山に立っていた。大柄な身体で胸を張り、光の加減では紫にも見える瞳をわずかに細めて辺りを見回す。冷やりとした空気に指先をわずかに撫でられて、男はきゅ、と手を握りこんだ。月を仰ぎ見ると、欠けることを知らぬかのような月が煌々と輝いていて、男は不敵に微笑んでみせる。こうやって辺りを見回すのは久しぶりだった。 「一ヵ月振りになるのか?」  楽しそうに声を漏らす口元がにやりと笑う。一月前は楽しいことがあった。あんなに熱血した男を見たのは実に久しぶりのことだったし、男を恐れることなく挑んできたその気質も、楽しかったのだ。久しぶりに剣を奮い、充実した気がした。 「またいるといいがな。あの警備団の、ファーといったか。」  ククク、男は再びのどを鳴らすと、す、と手を上げて見せた。襲撃開始の合図だった。 「きたぞ!」  見張りをしていた警備隊の一人が声を張り上げた。砂を撒き散らしながら走る一団を遠くに見付けて、大きな声を上げる。 「ヨハイムだ!」  口々に警備隊の人間が叫ぶ中、ファーはゆったりと剣を構えるときつい瞳でその一団をじっと睨み付けた。その瞳には今度こそ仕留めてやる、という固い決心が見え隠れしていたものの、いざヨハイムの姿を目の当たりにするとなかなか言葉が出てこなかった。  ドドド、というものすごい音を立ててヨハイムたちが、旅団が組んでいる陣営へと踏み込んでくる。それぞれが口々に叫ぶ言葉で辺りは喧騒し、ファーは右往左往する人の波にヨハイムを見落としてしまっていたのだった。 「いいか、人は殺すなっ!」  遠くのほうでヨハイムの声が響く。ファーはその声を聞くや否や剣を片手に走り出していた。今度こそ俺の剣であいつを捕まえてやる!  そんな思いが身体全身から滲み出してくるようで、ファーはどうしようなくワクワクしていた。 「ヨハイム!  勝負だ!!」  ファーは曲剣を高らかに構え、仲間に指示を促すヨハイムの目前へと躍り出た。きらりとファーの髪が月の光に透かされて、ヨハイムはそのまぶしさに思わず瞳を細めてしまう。 「ほう。お前はこの前の、確かファー、といったか。」  低い、だがどこか楽しそうな声が喧騒を抜けて、まっすぐにファーの耳へと届いてきた。いままで何度も頭の中でヨハイムの声を思い出し、とうに慣れていたつもりだったファーは、生身のヨハイムの声を聞いて、やはりどきりとしてしまう。こんなはずじゃなかった、と下口唇をかみ締めながらもヨハイムをにらみつけるファーを、ヨハイムは軽く笑った。 「ふん。この前俺に負けたことが悔しいのか。だがな、お前は俺に勝てはしない。」  静かにファーへとそう告げる。だが、告げながらもヨハイムは己の曲剣をゆったりと構えると、あごでファーの剣を指し示した。 「やるのか、やらないのか?  どちらでもいいぞ。俺はお前と剣を交えるのは楽しいから、な。」  なおも低い声が続いて、ヨハイムはにやりと笑みをこぼした。それはいかにも楽しんでいるといった風で、ファーは少なからず頭に血が上っていくのを感じてしまう。 「警護責任者として、今日こそお前を捕まえてやるっ!」  言うや否や、ファーはヨハイムに切りかかった。 「残念だな。お前とはしがらみなしに剣を交えたかったが、仕方あるまい。俺もまだ捕まりたくはないんでね。」  ヨハイムはいかにも余裕ありげにそう呟くと、するりとファーの剣を交わしてしまう。全力をかけてヨハイムに切りかかったファーは、あっさりとそれを交わされて勢い余ってそのままヨハイムの脇をすり抜けてしまった。 「くそっ!」  ぎり、と歯を食いしばりヨハイムをにらみつける。涼しげなヨハイムの紫に光る瞳を見据え、ファーはふたたび切りかかった。だが、やはりあっさりと交わされてファーはそのままヨハイムの腕の中へと抱きこまれた。片腕だけでファーの動きを封じたヨハイムは、いとも楽しげにのどを鳴らして笑い出す。 「だからお前は俺に敵わないのだと言っただろう。」  シャクン、と軽い音を立ててヨハイムが曲剣を鞘に収めてしまう。その音を耳に聞いたファーは怒りのあまり顔を紅に染め上げた。 「貴様!  俺を馬鹿にしてるのかっ!!」 「してはいないさ。ただ、俺も楽しみにしていたんでな、お前に会えることを。」  囁きはそのままファーの耳へと直に流れてきた。どきりとするほどに甘い声がファーの耳へと注がれる。剣を握り締めていた手にそっとヨハイムの手が添えられて、そのままカランと乾いた音を立ててファーの剣がすべり落ちていく。長い指が顔を覆っていた布をするりとはずし、現れた口唇がにやりと笑みの形をかたどった。 「離せ!  なにをする気だ!」  きつく抱きしめられていたファーは、ゆったりとあごを引き寄せられて、思わずなにをされるのか分かった気がしてにわかに暴れだした。 「言っただろう、気に入ったと。もう忘れたか。」  囁きながらもヨハイムの口唇はどんどん近づいてきて、そのままゆっくりとファーのそれへと重なった。以前は軽く重ねられただけだったそれが、今日はなぜかしっとりと絡みつく。 「んんっ、──ん!」  口唇を塞がれたままファーはじたばたと暴れてみるが、ヨハイムの力には敵わなかった。そのまま口蓋をこじ開けられ、舌を絡めとられてしまう。ねっとりとした感触にファーはぼうっと頭の芯がしびれてきて、そのまま暴れることを忘れたかのようにじっとしてしまった。深い口付けをされているうちに足元が覚束なくなり、ファーは思わずヨハイムの胸元へとしがみついてしまう。 「ふう、はぁ、はぁ。」  ようやく口唇を開放されて、ファーは思わず空気をむさぼった。ヨハイムの衣服をつかんでいた手を離し、唾液で濡れた口元を拭う。そのままどん、とヨハイムの胸を突き放すと、きつい眼差しで彼を見据えて叫んでいた。 「こ、今度こそ捕まえてやる!」  ヨハイムはファーのその言葉を聞くなり、小さく笑うと「お前の話す言葉はそれしかないようだな。」呟きを残してファーへと背を向けてしまう。 「て、敵に背を向ける気か!」  怒鳴ってはみるものの、ヨハイムはなにも言わずにその場を去っていってしまった。ファーはそんなヨハイムの後ろ姿をただじっと見詰めながら、先ほど口付けられた口唇を手の甲で拭ったのだった。

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