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第1章:思い違い(4)

 次の日の朝、湊は勇気を出して研究所のドアを開けた。「おはようございます」と一礼して、そそくさと他の研究員たちの間を通り過ぎる。ロッカーで白衣に着替えて、やっと一息つけたような気がした。  すぐに澄川が駆け寄ってくる。 「春原先輩、顔が青白いですよ。大丈夫ですか?」  湊はハッとして澄川の顔を見る。クスクス笑い声が聴こえたような気がして周りを見るが、誰も二人のことを気にせず、各々の仕事と向かい合っていた。 「大丈夫だよ、ありがとう」  そう言って、湊は目の前に置かれた器具たちと向かい合う。まだ、澄川は何かを言いたそうだったが、気遣わしげな顔をしてその場から離れていった。  昨夜はどのように帰ったのか覚えていない。気づけば自分の部屋に戻っていた。おそらく長距離を歩いたのだろう。両足が痛くて、よく見ると皮が剝けていた。  自分が解放された時、まだ伊堂寺はお楽しみの最中だった。「先に帰ります」と店のオーナーに告げると 「それが良いですよ。あの人は好き者で何度も延長しますからね」 と意味ありげな笑みを浮かべた。  湊は服を脱ぎ捨ててベッドに横たわる。自然と涙がこぼれてきた。ずっと泣きたくて仕方なかった。枕に顔を押しつけながら声を上げて泣く。  伊堂寺は仲間じゃなかった。あの蔑むような目つきと呆れたような声を思い出すと、湊の胸が締めつけられる。勝手に自分が思い込んでいただけなのに、湊はひどく裏切られたような気分になっていた。  女を抱かせれば「こじらせ」が治ると本気で思っていたのか。けれども、湊はまだ伊堂寺を嫌いになれなかった。あんなに酷い目に遭わされたというのに。  その証拠に、伊堂寺が女を無我夢中で抱いていると妄想しただけで、湊は痛いくらいに反応していた。いつものように自分で慰めると、伊堂寺の男らしい姿がありありと浮かんで、あっという間に果ててしまう。荒い呼吸が部屋中に響き、やがて体の汚れが冷えてゆく。悲しくて湊はもう一度泣いた……。  調合をする振りをしながら、湊は伊堂寺のデスクを何度もこっそりと見やる。自分の仕事に熱心でこちらを見ようとしない。せめてタバコを吸いに行くとき声をかけてくれたら、と願わずにいられなかった。  けれども、その願いは無残にも打ち砕かれた。伊堂寺は席を立つと、他の研究員に声をかけて研究室を出てゆく。湊は、その背中をただ見送るしかできなかった。また、皆が好奇の眼差しを向けているような気がして周りを見回すが、やはり誰もが自分の仕事に集中していた。  再び器具と向かい合った湊は、うっかり手がぶつかってビーカーを倒してしまう。中に入っていた紫色の液体が白衣を汚してゆく。それが何の薬品だったのかさえ、もう思い出せない。ただ、「汚れた」という事実だけが、湊の胸を強く締めつけた。  呆然としている湊に声をかけたのは澄川だった。 「先輩、白衣を脱いでください。クリーニングに出しましょう」 と促すが、湊は「大丈夫だから……」と手を振ると、その場から逃げ出してしまった。  近くの男子トイレに入り、清掃用の流し台で勢いよく水を出して、白衣の汚れを落とそうとする。 「落ちて……お願いだから」  汚れたままではいけないような気がした。けれども、湊の思いとは裏腹に紫色の汚れはますます広がるばかりだった。湊の懇願が悲鳴交じりになる。それでも懲りずに湊は白衣を洗い続けていた。  急に男子トイレのドアが勢いよく開く。入ってきたのは石動だった。只事ではない湊の様子を見て驚く。なぜ、こんな時に。湊はタイミングの悪さを恨んだ。 「おい、春原。何があったんだ!」  石動は湊の両肩に手を乗せて、心配そうな顔をする。 「喫煙所にも研究室にも居なかったから探したんだぞ」  石動の手のひらの湿ったぬくもりが、肩先から全身に広がってゆく。なぜ、この人はこんなに必死なのだろう。他人事のように不思議がっているうちに、湊は落ち着きを取り戻していた。  社長には心配されたくない。女好きのこの人には自分の気持ちなんて分かるはずがないのだから。どうせ、昨日の伊堂寺と同じく、呆れて蔑んでクビにするに違いない。 「なんでもないです。汚れを落とそうとしただけです」  努めて冷静な声で返す。 「本当か?」  石動は信じられないと言わんばかりの表情を浮かべて、湊の瞳の奥をうかがおうとする。それに耐えきれなくなってきた時、誰かが男子トイレに入ってきた。石動を見て「社長、もう出かける時間ですよ」と声をかける。  石動は戸惑いながらも 「帰ってきてから話をしよう」 と湊の肩から手のひらを離して行ってしまった。湊はホッとして、すっかり濡れてしまった白衣を絞った。

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