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第1話

第1話 とんでもないシッター依頼  遊佐とおるは、昔から子供に好かれた。  それは本人の努力というよりも、ほとんど体質のようなものだった。親戚の集まりへ顔を出せば、気づけば幼い従兄弟たちに囲まれている。公園の近くを通れば、知らない子供にボールを渡される。迷子の子供を交番へ連れていったことも一度や二度ではないし、動物にもよく懐かれた。  だからといって、その体質が人生を劇的に好転させてくれるわけではない。  二十五歳。  大学を出たあと、思うように就職先が決まらず、今は母が営むシッター派遣会社を手伝っている。手伝いとは言っても、子供の相手も、送迎の補助も、掃除や簡単な食事の用意も、頼まれれば一通りこなす。子供の機嫌を取るのも、寝かしつけも、嫌いではなかった。むしろ、向いているのは自分でもわかっていた。  けれど、それを胸を張って仕事だと言い切れるほど、とおるは自分の居場所を見つけきれていなかった。  朝から事務所の床に散らばった積み木を片づけていると、奥のデスクから母の声が飛んできた。 「とおる、高額案件よ」  その言い方があまりにも楽しげだったので、とおるは手に持っていた赤い積み木を箱に戻しながら、ゆっくりと顔を上げた。 「母さんさ、その言い方やめない? 高額案件って、もう響きが怪しいんだよ。普通にベビーシッターの依頼って言ってくれた方が、こっちも安心して聞けるんだけど」  母――遊佐佳乃は、五十代とは思えない若々しい顔で、にっこりと笑った。  きれいな人だ、と息子の目から見ても思う。年齢不詳という言葉が妙に似合う人だった。落ち着いているのに、芯が強い。穏やかに笑っているようで、仕事の判断は早く、相手の逃げ道を塞ぐのがうまい。  とおるは、母のその笑顔を知っている。  面倒ごとをこちらへ投げる時の顔だ。 「大丈夫よ。闇ではないわ。きちんとした紹介案件」 「その時点で、闇じゃないだけの何かじゃん。で、何がそんなに高額なの」 「依頼先は都心のタワーマンション最上階。対象は三歳の男の子。基本は日中の見守りと生活補助。先方の希望で、しばらくは同じ担当者に継続して入ってほしいそうよ」 「それだけ聞くと、普通に金持ちのワケあり家庭って感じだけど」 「時給は通常の三倍。交通費別。守秘義務あり。スマホの使用制限あり。依頼主の個人情報は、業務に必要な範囲のみ共有」 「待って。後半が一気に不穏なんだけど」  佳乃は否定しなかった。  否定してほしかった。  とおるが思いきり眉をひそめると、佳乃はデスクの上で指を組み、まるで面接官のような顔でこちらを見た。 「一日だけでいいわ。合わないと思ったら断っていい。ただ、私としては、あなたに一度見てきてほしいの」 「なんで俺なの。ほかにも登録スタッフいるじゃん。経験だけで言えば、俺よりちゃんと資格持ってる人の方がいいと思うんだけど」 「もちろん、通常ならそうするわ。でも今回の依頼主は、少し特殊なの。子供との相性が一番大事になると思う」 「それ、俺が子供に好かれるからってこと?」 「ええ。それに、あんたは子供を見る時、相手を“お客様の子供”としてだけ見ないでしょう。泣いていれば理由を探すし、怒っていれば怒った理由を聞く。そういう当たり前のことを、当たり前にできる人間が必要なの」  褒められているのか、都合よく使われようとしているのか、微妙なところだった。  けれど、佳乃の声に冗談めいた響きはなかった。  とおるは積み木の箱に蓋をして、しばらく黙った。自分が何者にもなれていないという焦りは、いつも胸の底にある。母の会社を手伝っている今の自分を、腰かけのように感じているのも事実だ。  それでも、目の前の子供を任される時だけは、迷う暇がない。  子供は待ってくれない。泣く時は泣くし、転ぶ時は転ぶし、眠い時は世界が終わったみたいに機嫌を悪くする。  そのわかりやすさが、とおるは嫌いではなかった。 「……一日だけだからな。無理だと思ったら、ほんとに断るから」 「もちろん。それでいいわ」  佳乃は満足げに頷き、用意していた書類をとおるへ差し出した。  その手際の良さに、とおるは少しだけ恨めしい気持ちになった。 「最初から俺が引き受けると思ってたでしょ」 「泣いている子がいるかもしれないって言われたら、あんたは断れないもの」 「そういうとこ、ほんと母親って感じする」 「褒め言葉として受け取っておくわ」  軽く言い返され、とおるはそれ以上文句を言うのを諦めた。  その時点ではまだ、この依頼が本当に自分の人生を変えるものになるなんて、少しも思っていなかった。  せいぜい、変な金持ちの家へ一日だけ行く。そんな程度の認識だった。  だからこそ、指定されたタワーマンションの前に立った時、とおるはまず自分の服装を見下ろした。  ゆるくパーマをかけた茶色の髪。白いカットソーに、薄手のベージュのカーディガン。きれいめのパンツに、歩きやすい靴。普段なら十分に整えているつもりの格好が、目の前の高級マンションを前にすると急に学生くさく見えてくる。  ガラス張りのエントランスには、ホテルのような受付があり、コンシェルジュらしき人物が静かに頭を下げてきた。  場違いだ。  間違いなく場違いだ。  そう思いながら受付を済ませ、専用のカードを受け取る。案内されたエレベーターは、階数表示の動きがやたらなめらかで、音がほとんどしなかった。  最上階へ向かう間、鏡張りの壁に映る自分の顔が、少しこわばっているのがわかった。 「……普通の三歳児のシッターだよな」  誰に確認するでもなく呟いた時、エレベーターの照明が一瞬だけ揺れた。  スマートフォンの電波表示が乱れ、すぐに戻る。  高層階だからかと思った。  けれど、その瞬間だけ、鏡の奥に黒い影のようなものが見えた気がした。  振り返っても、そこには誰もいない。  無機質なエレベーターの壁と、自分の呼吸の音だけ。 「……緊張しすぎだろ、俺」  小さく息を吐いた直後、エレベーターが静かに止まった。  扉が開く。  最上階は、一つの住戸だけで構成された専用フロアだった。  廊下には余計な装飾がなく、静かすぎるほど静かだった。ドアの横には、朝堂、とだけ記された表札がある。  とおるは一度だけ深呼吸をしてから、インターホンを押した。  間はほとんどなかった。  扉が開き、そこに立っていた男を見た瞬間、とおるは心の中で思った。  顔が良すぎる。  いや、顔が良すぎるというより、圧が強すぎる。  黒髪。長身。体格のいい肩。黒いシャツに、隙なく整えられたスラックス。肌の色は明るく、目元は冷たい。整いすぎた顔立ちには、笑みの欠片もなかった。  ただ玄関に立っているだけなのに、まるでこちらが王の間にでも呼び出されたような気分になる。 「遊佐とおる、で間違いないな」  低い声だった。  耳に落ちるだけで、背筋が伸びる。 「はい。本日から担当します、遊佐とおるです。よろしくお願いします」  仕事用の声で挨拶をすると、男はとおるを上から下まで見た。  値踏みされているのはわかった。  ただ、その目に下卑たものはない。感情が薄く、冷静で、どこか人を遠ざけるような目だった。 「朝堂礼遠だ」  男は短く名乗った。 「余計な詮索はするな。息子の世話だけをしていればいい。部屋の中で触れてよいものと悪いものは、後で説明する」 「初対面で説明の圧がすごいですね」 「何か言ったか」 「いえ、こちらの話です」  礼遠はわずかに目を細めたが、それ以上追及はしなかった。  室内へ通されると、とおるは改めて言葉を失った。  広い。  そして、生活感がない。  大きな窓の向こうには、都心の街並みが見える。床も家具も高級そうで、どこを見ても隙がない。それなのに、リビングの片隅には子供用の積み木やぬいぐるみが置かれていて、そこだけ急に現実味があった。  ただ、その子供用品の選び方が、少しおかしい。  黒い木馬。黒い積み木。妙に重厚な絵本。子供用の椅子まで、なぜか王座のような形をしている。  とおるは思わず足を止めた。 「……お子さん、黒が好きなんですか?」 「俺が選んだ」 「なるほど」  なるほどではない。  心の中ではそう思ったが、初日から雇い主のセンスに真正面から斬り込むのは得策ではない。  視線を横にずらすと、窓際に黒い長毛猫が座っていた。  艶のある黒い毛並み。金色の目。首元には紫の石が嵌まった首輪。猫にしては、妙に姿勢がいい。こちらを見る目つきも、猫というより、どこか年配の執事のようだった。 「猫もいるんですね」  とおるが思わず言うと、礼遠は少しだけ間を置いてから答えた。 「ノワールだ。基本的には放っておけ」 「基本的には?」 「気に入られれば、勝手に近づく」 「猫ってそういうものですよね」  ノワールと呼ばれた黒猫は、ふん、とでも言いたげに尻尾を揺らした。  やたら人間くさい。  とおるは少し気になったが、その時、奥の部屋から小さな足音が聞こえた。  ぱた、ぱた、と不規則な足音。  リビングの入り口から現れたのは、黒髪の小さな男の子だった。  三歳くらいだろう。白い服に黒いサスペンダーのついた服を着て、片手にぬいぐるみを抱えている。顔立ちは礼遠に似ていた。けれど、礼遠のような冷たさはなく、頬は丸く、目は大きく、表情には子供らしい不安が浮かんでいる。  男の子は礼遠の足元に近づくと、その後ろに隠れるように立った。  礼遠の声が、ほんのわずかに変わる。 「おいで」  その一言には、先ほどまでの冷たさとは違う響きがあった。  上手ではない。  けれど、大切にしているのはわかる声だった。  とおるはしゃがみ、男の子と目線を合わせた。 「こんにちは。今日から少しだけ、君と一緒に遊んだり、ご飯を食べたりする係になりました。遊佐とおるです」  男の子はじっととおるを見た。  人見知りをする子の目だ。  警戒している。けれど、興味もある。  とおるは急かさなかった。こういう時、無理に距離を詰めると逆に逃げられる。相手がこちらを見る時間を待つ方がいい。  しばらくして、男の子はそろそろと礼遠の足元から出てきた。  そして、とおるのカーディガンの裾を小さな手で掴む。 「……ぼく、るうくん」  胸の奥が、あっさり掴まれた。  可愛い。  これはもう、どうしようもなく可愛い。 「るーくん?」  とおるは確認するように聞き返してから、ちらりと礼遠を見上げた。  さすがに本名ではなく、愛称だろうと思ったのだ。  礼遠は当然のように答えた。 「琉煌だ」 「……るきあ?」 「ああ」  礼遠は近くの棚に置かれていた書類を一枚取り、とおるへ見せた。そこには、朝堂琉煌、と整った文字で記されている。  琉煌。  るきあ。  読めない。  少なくとも、初見で読む名前ではなかった。  しかも、漢字が強い。強すぎる。三歳児の名前というより、どこかの伝説武器か、選ばれし者の称号みたいだ。  とおるは喉元まで出かかった「キラキラネームかよ!?」という言葉を、どうにか仕事用の笑顔で飲み込んだ。 「……かっこいいお名前ですね」 「そうだろう」  本気で言っている。  礼遠は、本気で誇らしそうだった。  だめだ。この父親、名付けの感覚が一般家庭と違う。  とおるは早くも、今日の業務に育児以外の何かが含まれている気がしてきた。 「じゃあ、るーくん。よろしくな」 「とーる?」 「そう。とおる。呼んでくれてありがとう」  琉煌は、こくりと頷いた。  その様子を見て、礼遠が明らかに固まっている。  とおるは顔を上げた。 「えっと、何か問題ありました?」 「……琉煌が、初対面の人間に自分から触れた」 「それ、そんなに珍しいんですか」 「珍しい」  短い返事だった。  けれど、その一言に含まれた驚きは大きかった。  礼遠は、とおるではなく琉煌を見ている。信じられないものを見るように、けれどどこか安堵したように。  その表情を見て、とおるは少しだけ考えを改めた。  怖い人だと思った。  今も怖い。  圧は強いし、言い方もきつい。  けれど、琉煌に向ける目だけは、乱暴ではなかった。  不器用なのだ。たぶん、この人は。  その予感は、仕事を始めてすぐに確信に変わった。 「お子さんの好きな食べ物は何ですか?」  とおるがメモ帳を開いて尋ねると、礼遠は当然のように答えた。 「栄養価の高いものだ」 「好きな食べ物を聞いてます」 「必要な栄養は摂取させている」 「好きな食べ物を聞いています」 「……甘いものは、比較的食べる」 「比較的。なるほど。じゃあ具体的には?」  礼遠は少し沈黙した。  とおるはその沈黙で悟った。  この父親、息子を大事にしているのに、好物を把握していない。 「お昼寝の時間は?」 「眠った時だ」 「それはそうでしょうね」 「何か問題があるのか」 「生活リズムというものがありまして。三歳児は、ある程度決まった時間に寝て、起きて、食べて、遊ぶ方が安定します。もちろん個人差はありますけど、眠った時が昼寝時間、起きた時が起床時間、みたいな運用はさすがにざっくりしすぎです」  礼遠は真顔で聞いていた。  怒ってはいない。  むしろ、知らないことを確認しているようだった。 「それが必要なのか」 「必要です。少なくとも、琉煌くんが今より安心して過ごすためには、かなり大事だと思います」 「安心」  礼遠はその言葉を繰り返した。  まるで、聞き慣れない言語を確かめるように。  とおるはメモを取りながら、リビングを見回した。  安全対策は過剰なほどされている。家具の角には保護材がついているし、窓には鍵が何重にもかけられている。倒れそうなものはない。危ないものもない。  けれど、そこにあるのは「危険を排除する」ための準備ばかりだった。  琉煌が安心して笑うための場所としては、少し硬すぎる。 「朝堂さん」 「何だ」 「琉煌くんのこと、すごく大事にしてるんですね」  礼遠は一瞬、言葉を失ったように見えた。  それから、低く答える。 「当然だ」 「なら、もうちょっと普通の三歳児っぽいこともさせてあげた方がいいです。積み木を倒して笑うとか、好きなものを選ぶとか、眠くなったらぐずるとか。そういうの、危険じゃないです。子供には必要です」 「……泣くこともか」 「泣くのも必要です。理由があるなら、泣きますよ。大人だって泣きたい時あるでしょ」 「俺は泣かない」 「そこは張り合うところじゃないです」  礼遠は黙った。  ノワールが窓際で尻尾をゆっくり動かしている。まるで二人の会話を理解しているような顔だった。  昼前、とおるは持参していた子供向けの簡単な手遊びと、部屋にあった積み木で琉煌と遊ぶことにした。  琉煌は最初、とおるの動きを目で追うだけだった。  けれど、とおるが積み木を三つ積み上げて、わざと少し不格好な塔を作ると、小さな手でそっと一つ足した。 「お、上手。琉煌くん、これもっと高くできる?」 「できる」 「ほんとに? じゃあ、朝堂さんより高くしよう」  琉煌は礼遠を見上げた。  礼遠は自分が比較対象にされたことに、少しだけ眉を動かした。 「俺より高くするには、相当な数が必要だ」 「真面目に返さなくていいです」  琉煌が小さく笑った。  その笑い声は控えめだったが、部屋の空気をほんの少し変えた。  礼遠は黙ってそれを見ていた。  午後になり、琉煌は一度ぐずった。  積み木が崩れた拍子に、驚いてしまったらしい。大きな音ではなかった。それでも、張りつめていた気持ちが切れたのか、琉煌の目にみるみる涙が浮かんだ。  礼遠がすぐに近づく。 「琉煌。危険はない。泣く必要はない」  言葉は正しい。  けれど、それでは泣き止まない。  琉煌の口元が歪む。  とおるは横からそっと声をかけた。 「朝堂さん、正解を言うより先に、怖かったなって言ってあげてください」 「怖かった?」 「はい。子供って、危険があるから泣くんじゃなくて、びっくりしたから泣くこともあります。今は、危なくないって説明するより、驚いた気持ちを受け止めてあげる方が先です」  礼遠は琉煌を見下ろした。  その表情は、途方に暮れているようにも見えた。  とおるは琉煌の前にしゃがむ。 「琉煌くん、びっくりしたな。積み木、すごい音したもんな。でも大丈夫。誰も怪我してないし、もう一回作れる。次はもっと強いやつにしよう」 「……つよいやつ?」 「そう。倒れないやつ。琉煌くんと俺で作ったら、すごいの作れると思う」  琉煌は涙を溜めたまま、とおるの袖を掴んだ。 「とーる、いっしょ?」 「うん。一緒に作ろう」  その言葉に、琉煌はこくりと頷いた。  泣き声は大きくならなかった。  礼遠は、また黙ってとおるを見ていた。  その視線に気づいて、とおるは少しだけ居心地が悪くなる。 「……何ですか」 「いや」 「言いたいことがある顔してますけど」 「お前は、子供の扱いに慣れている」 「仕事ですから。あと、琉煌くんがいい子なんですよ。警戒心は強いけど、ちゃんとこっちを見てくれるし、嫌なことは嫌って顔に出る。わかりやすいです」 「そうか」  礼遠の声は、少しだけ低くなった。  怒っているのではない。  たぶん、何かを噛みしめている。  その理由までは、とおるにはまだわからなかった。  夕方が近づいたころ、初日の業務時間は終わりに近づいていた。  琉煌はすっかりとおるに懐き、最後にはとおるの膝に頭を預けて、眠そうに目をこすっていた。  ノワールはいつの間にか、とおるの鞄の近くに座っている。  礼遠は窓際に立ち、都心の夕景を眺めていた。  とおるはメモを確認しながら、今日の様子を礼遠へ伝える。 「今日は初日なので、まだ断定はできませんけど、琉煌くんは生活リズムを整えた方が安定すると思います。食事も、もう少し子供向けにしていいです。あと服は、本人に選ばせる機会があった方がいいですね。黒も似合いますけど、三歳児の服が全部黒いのはさすがに圧が強いです」 「圧」 「あります。服に圧があります」  礼遠は真剣に考え込んだ。  そこで考え込むのか、とおるは少しだけ笑いそうになった。 「継続については、母とも相談してからになりますけど……もし朝堂さんがよければ、何日か入らせてもらえればと思います。琉煌くんも、急に担当が変わるよりは、同じ人間がいた方が安心すると思うので」  言いながら、自分で少し驚いた。  最初は一日だけのつもりだった。  怪しすぎる高額案件を見て、無理なら断る気でいた。  けれど、今はもう次のことを考えている。  この子の明日の昼ご飯。  昼寝の時間。  好きな遊び。  どんな服を選ぶのか。  そんな些細なことが気になっている。  琉煌がとおるの服をぎゅっと掴んだ。 「とーる、またくる?」  その声を聞いた瞬間、断る選択肢はほとんど消えた。  とおるは苦笑する。 「うん。また来るよ。琉煌くんが嫌じゃなければ」 「いやじゃない」 「そっか。じゃあ、また来る」  琉煌が安心したように笑った。  その瞬間だった。  部屋の照明が、ふっと落ちた。  停電かと思った。  しかし次の瞬間、窓の外の空が急速に暗くなる。  夕暮れのやわらかな色が消え、重たい雲が都心の空を覆っていく。高層階の窓が小さく震え、遠くで稲光が走った。  雷鳴が遅れて響く。  天気予報では、今日は一日晴れだったはずだ。  琉煌の小さな体が、とおるの腕の中で震えた。 「ぱぱ……」  礼遠の顔色が変わった。  それまで冷静だった男が、初めて明確に焦りを見せた。 「琉煌」  とおるは反射的に琉煌を抱き寄せた。 「大丈夫。びっくりしたな。雷、怖いな。でもここにいるから。俺も、朝堂さんもいるから」  琉煌の目が、淡く光ったように見えた。  気のせいかと思った。  けれど、窓の外でまた稲光が走る。  空気が重い。  まるで、見えない何かが部屋のすぐ外側から押し寄せているようだった。  窓際にいた黒猫が、ゆっくりと立ち上がる。  金色の目が、暗い空を睨んでいた。  そして、低く言った。 「魔王様。若の力が、また境界に触れております」  とおるは固まった。  今、猫が喋った。  いや、そこも問題だが、それ以上に聞き流せない単語があった。  礼遠は否定しなかった。  ただ、琉煌を抱くとおると、窓の外の暗い空を交互に見つめている。  とおるは、喉の奥からどうにか声を絞り出した。 「……今、魔王って言った?」  遠くで、三度目の雷が鳴った。  礼遠の冷たい瞳が、かすかに金色を帯びていた。

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