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第2話 プレアデスは遥か彼方#2

「ていうか昴、なんで早々に帰ってきたの? ビザの関係? イタリア、めちゃくちゃ楽しんでただろ。十月に帰るって言ってたのに。もうちょっと向こうに居ても良かったんじゃない?」  スーツのジャケットだけ脱いだ上からエプロンを着け、アイランドキッチンのIHコンロの前に立って味噌汁を作っている最中。隣に立つ昴へ視線をちらりと向けて理月が問うと、昴は少しばかり眉を下げた。 「ええー、りっちゃんが恋しくなって帰ってきたのに、それ帰って来ないでってこと? ここ、僕の家でもあるのに」  二十七歳となった現在、昴は音楽で生計を立てているフリーランスのピアニストで、世界各国を飛び回っている。演奏だけに留まらず様々と仕事を請け負っていて、高校生の頃からピアノ系の動画配信者としても活動していたり、コンクールの受賞歴も数多く輝かしい経歴を持っているものの、どこかふわふわとした雰囲気のつかみどころのない男だ。  ここ半年ほど、昴はアーティスト滞在用の音楽室付レジデンスを拠点として、南ヨーロッパを巡業する形で活動していた。電話越しでも楽しんでいることが伝わってきたし、ライブ配信でも動画でも、時折更新されるSNSに上がる写真も楽しげだった。どの国に行ったところで楽しそうに過ごしているからいつものことではあるが。 「そういう冗談はいいよ。昴は勝手に住み着いてるだけだろ。ここの部屋の名義僕だし、家賃も貰ってないし?」  シュンとした昴はさながら大型犬のようだ。理月も背が高い方で身長一七九センチあるが、昴はそれより七センチ高い。生まれつき茶色がかった昴の髪はふわふわで、理月は尻尾を垂れてしょげているゴールデンレトリバーを頭に思い浮かべて小さく笑う。 「それはそうだけど。お金渡しても振り込んでも、りっちゃんが全部突っ返してくるからじゃん」  味噌汁を小皿に入れて味見をしながら、理月は隣で口を尖らせている昴を見上げる。 「だって、必要ないから。君、海外での仕事で居ないこと多いし、金にも全く困ってないしさ」  髪も性格もふわふわした昴とは反対に、理月は元藤原財閥・現藤原グループの創業家の跡取りとして藤原銀行に勤めている地に足がついた男。現在は半年前からグループ会社の藤原不動産に出向中で、不動産開発部門のマネージャーを務めている。プラスして株や不動産等で収益を得ていることもあり、実際金には全く困っていない。 「僕だって全く金に困ってないよ。それにりっちゃんだって頻繁に出張で不在にしてるじゃん」 「まあ、それはそうだけど」  ふたりの住まいである此処は、理月が米国の経済大学院から帰国した後『防音室付き』に惹かれて購入した2LDKの中古マンションだ。まだ理月が大学生の頃に一人暮らししていた親所有のマンションでもほぼ同居状態だったこともあり、転がり込む形で昴も住み着き出した。以降防音室が昴の部屋となり、約9帖の部屋にグランドピアノと作曲機材とセミダブルベッドが無理矢理詰め込まれている。  理月は作り終えた味噌汁を汁椀に注いで昴に手渡すと、スキレットに鮭、エノキ、白ネギを入れてホイルで包んで焼いた鮭のホイル焼きを魚焼きグリルから取り出して、スキレットのまま食卓に運んでいく。昴は早炊きで炊き上がった白米を茶碗によそい、茶碗と汁椀を手に持ち運ぶ。 「ちょっと早めに帰ってきたのはさっきも言った通り、りっちゃんを驚かせたかったっていうのと、りっちゃんが恋しかったからだよ。年内日本での仕事もあれこれ入ってるし、向こうで作ってた曲が完成したからっていうのもあるけどね」  昴が大学に入学してからの半同居状態から数えれば、同居生活も約十年となる。昴は大学期間中は音楽留学に行ったり、卒業後は各国を飛び回っていて日本に居たり居なかったり。  理月の方も大学院在学中は二年間米国住まいだったし、社会人になってからは出張で家を空けることも多々。だから実質的な同居期間はもっと短くなるけれど、その期間同じ屋根の下で寝食を共にしている。それだけ長い付き合いになるから、正反対のくせに口癖や仕草がどこか似ている。 「へえ、今回はどういう曲作ったの? 早く聴きたいな」  昴はダイニングテーブルに茶碗と汁椀を置き、自分の定位置である席に着く。理月はスキレットを昴の前に置き、家庭用のワインセラーから白ワインを取り出しながら問い掛けた。 「まだ内緒だよ。集大成の超自信作。今年のクリスマスコンサートで披露するからお楽しみに。後でチケット渡すね」  理月はワインボトルとグラスを持ってテーブルに戻り、昴の軽口は流して対面へと座る。理月が小首を傾げて聞くと、昴は目を細めて悪戯っぽい笑みを浮かべた。 「集大成の超自信作? 大きく出たな。ありがとう、コンサート楽しみにしてる」  理月がくすっと笑うと昴はふにゃっと顔を綻ばせ、それから眉を八の字に下げる。 「……ところでりっちゃん、勝手に住み付いてるっていうのは冗談だよね? 僕のこと追い出そうとかしてない? 家賃も払わないし特に同居する上で役に立ってないしみたいな……」  昴が子犬のような目で見詰めてくるもので、理月は思わず「ふはっ!」と吹き出した。 「追い出すわけないだろ。僕は昴をサポートするのが趣味なんだ。昴は世界的に有名になることだけ考えて、気にせず自由にやってくれれば良い」 「あー良かった……同居解消とか言い出されたらどうしようかと思った。でも、りっちゃんの言う『世界的に有名』って抽象的なんだよなあ。ピアノ界では僕の名前知らない人あんまり居ないはずだし、たまにテレビも出てるし、コンサートも開けば満員だし、動画配信の方も登録者二百万人居るし、収入だって結構あるし……そろそろ世界的に有名って言っても良くない? 僕、どこまで目指せば良いのか分かんないよ」  昴は右手を握ると指を一本ずつ立てていき、最終的にパーの形になった手を理月に向けて『お手上げです』とでも言いたげに眉を八の字に下げる。 「昴なら、ピアノ界なんて言わずにもっと上を目指せるだろ。世界各国老若男女、ピアノに興味が無いやつにまで昴の名前が届いてほしい。具体的に言うなら、動画のチャンネル登録者数一千万人とか?」 「前聞いた時は百万人って言ってたじゃん。達成したのにどんどん釣り上げるんだから」  昴は少し口唇を尖らせた後、両手を合わせて「いただきます」と口にする。理月は「どうぞ」と言い、昴を向かいから眺め見た。 「昴を見てると、どこまで行けるのか気になるんだよ。どこまでも世界中、自由に羽ばたいてほしいなって思う」 「はあー……やっぱり、りっちゃんの手料理が一番美味しい。……まあ、引き続き期待に応えられるように頑張るよ。りっちゃんに認めてもらえるまで」  切れ長で冷ややかに見える目を少し細めて、理月は夢を語りながら白ワインをふたつのグラスに注いでいく。昴は味噌汁を啜り、溜息のようにも聞こえる吐息を吐いた。ワインを注いでいる理月の目には、少し寂しげな表情を浮かべている昴の顔は映っていない。 「初めて会った日から、ずっと認めてるよ。認めてる上で、遙か彼方の夢を見たい。それだけ」  理月はワインを注ぎ終え、昴に「どうぞ」とワインを促す。昴は理月の人生でたった一人、理月の心を動かした男だった。 「――さっき、一緒に月光弾いたからかな。昴と初対面の時を思い出して、なんだか懐かしい」 「僕もりっちゃんの月光聴くと、高校時代を思い出すよ。学ラン着てたりっちゃんが懐かしいな~」  初めて会った日のことを思い返して理月が微笑むと、昴もふにゃっと柔らかく笑った。顔付きは幾分大人びたけれど、昴の笑顔はずっと変わらず、出逢った頃の面影が残っている。  まだ理月が十七歳の春、昴の才能に触れて、夢を見た。あの日は、いつもと変わらない、なんてことない一日のはずだった。けれど昴に出逢って、人生で一番特別な日になった。  昴の笑顔にあの頃の昴が重なって見え、高校時代に戻ったような錯覚を受ける。  音楽室の中で、昴が星を降らせたあの日に。

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