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声だけに惹かれてたはずなのに

今日はやっと休みだ。朝起きて目覚ましが鳴らない喜びを噛み締める。カーテンの隙間から朝日がのぞいて日がさしている。時計を見るとまだ6時。仕事の日と同じ時間に起きてしまうのはもうしょうがない。体がそういうリズムになっているから。今日は休みだから二度寝をキメる。予定は何もないし心置きなく寝れる。 ふと、寝る前に聞くルーティンを思い出して自然と頬が緩む。 今日も1日いい日になりますように。 ◇◇◇ 俺の名前は前田春也。一般企業で働く会社員。仕事も結構楽しいし、一人暮らしで趣味があってそれなりに充実していると思う。まぁ、恋人はいないけれどそこまで寂しくはない。そんな俺は最近ハマっていることがある。シチュエーションボイスというものだ。CDや配信サイトで声優がいい声で囁いてくれるのだ。それを知ったのは動画を見ていたときだった。突如おすすめされた動画が気になって聞いてみると低すぎず高すぎずな丁度いい声。演技も上手くて物語に集中ができる。その動画はサンプル動画だったみたいで続きが気になってすぐに配信サイトに行き課金をしてしまった。ズブズブとハマってしまって寝る前のルーティンになっている。聞く前のワクワク感、聞いた後の多幸感を感じられて癒してくれる。仕事を頑張れるのはシチュエーションボイスがあるからだ。 推しは力をくれる。恋愛しなくたって推しがいれば幸せだ。 ◇◇◇ 「前田さん、ここ分からないんですけど…聞いてもいいですか?」 「どこ?」 俺の後輩、千葉颯太は容姿端麗で仕事ができて素直でいい後輩だ。 そして何より、声が良い。非常に良い。声質は優しいけどその中に力強さがあって少しハスキーでいい声だ。だから、入社当時声が聞きたくてよく話しかけてしまったのはここだけの話だ。実際懐いてくれていてたまに飲みに行ったりするし仲はいい方かもしれない。 「お電話ありがとうございます。〇〇株式会社△△部でございます。千葉と申します。」 電話対応の声は無料で聞いて良いレベルを超えている。顔に出ないようにパソコンと睨めっこである。今日もいい声だ。ありがたや。救われる命がここにある。仕事も捗るというものだ。席が隣だからよく聞こえるし隣で良かったと本当に思う。 本当にありがとうございます。 ◇◇◇ 朝から落ち着かない。ソワソワする。 今日は推し声優のシチュボの配信日だ。しかも人気シリーズの続編だ。俺がこの日をどれだけ待っていたか。仕事が終わったらゆっくり聞くんだ。あー、楽しみ。 定時で仕事を終えて帰り支度をして挨拶をして出ようとしたときに何もないところで躓いて転んだ。多分楽しみすぎて転んでしまったのだ。30歳にもなって恥ずかしい。 「前田さん!大丈夫ですか?」 近くにいた千葉が駆け寄ってくれた。 「大丈夫、ありがとう」 鞄から出た書類、スマホを一緒に拾ってくれたのだ。 しかし、その画面を見て俺はドキッとして心臓が止まりかけた。昨日寝る前に聞いていたシチュボの再生画面が残っていたのである。一生の不覚だ。 「スマホ大丈夫だったみたいで良かったです!書類もこれで全部ですね」 「…っ、ありがとう!拾ってくれて」 「いいえ」 「じゃあ、お疲れ様」 「お疲れ様でした」 会社を出てからずっとあの光景が目に焼き付いている。絶対に画面を見られた。もうダメだ。よりによって後輩に見られるとかどんなエロ漫画だよ。明日も仕事があるしどんな顔すれば良いのか分からない。 家に帰ってから夕飯を食べて風呂に入って寝るまでそのことがフラッシュバックする。いい加減忘れようと思って今日配信のシチュボを聞く。推しの声は相変わらずいい声で色気があって素敵だった。聞いている間は現実のことを忘れられる。 ある意味、現実逃避だ。 ◇◇◇ 朝になってしまった。朝が辛いのはいつものことだが今日は特に辛い。結局一睡もできなかった… 昨日は履歴画面を千葉に恐らく見られて普段通りの態度ができるか分からない。通勤途中でいつも見かける柴犬を散歩してるお爺さん。柴犬に癒されて少し元気をもらう。 いいなー柴飼いたい。 あっという間に会社に着いてエレベーターを待っていた。一睡もできなかったせいであくびをする。 眠くて後ろの方に気付かず、エレベーターを待つ。 「おはようございます 前田さん」 「!!おおお、おはよっ…」 急に千葉に声をかけられて驚き肩がびくっと跳ねた。 「あ、びっくりさせちゃいました?!すみませんっ」 「い、いや、大丈夫…」 昨日の記憶が一気に蘇り冷や汗をかく。あの画面を見てどう思ったのかそればかりがぐるぐると頭の中を駆け巡る。 「前田さん、今日飲みに行きませんか?仕事のことで相談があって…」 本当は断りたい。でも後輩の相談を無視するわけにはいかない。 「…会社じゃダメか?」 「会社でも良いんですけど、できれば会社の人がいない所がいいんです…ダメですか?」 今の声質めっちゃ好きなんだが??爽やかだけど、しっとりしてて優しくて…いかん!オタクモードになってた。 「わ、分かった。飲みに行くよ」 「ありがとうございます!」 不意に手を握られてブンブンを振り回す。いい笑顔でお礼を言われた。 あの件で気まずい思いがあるけど後輩の悩みを聞くのも先輩の務めとして果たすしかない。 ◇◇◇ 「「かんぱーい」」 仕事が終わりビールで喉の渇きを潤す。仕事の後の一杯は最高だ。 程よく酒が入ってきたところで千葉が朝言っていた相談の話を出した。 「で、朝言ってた相談って何?」 千葉はニコリと微笑んで自分のスマホを取り出して画面を見せた。 「前田さんて、こういうボイス配信とか好きなんですか?」 画面にはこの前の再生画面が映っていた。 「何のことだか分からないんだけど…」 『あなたのここ、もうこんなになってる…期待してるの?』 「?!」 このセリフは前に聞いていたシチュボの一部のセリフだ。 何となく推し声優の声に似ているんだ。まさか本人?いやそんなことあるわけがない。 『真っ赤になってかわいいね、止まらなくなる…』 「ちょ、ほんとに止めろっ!!」 耳元で囁く千葉から距離を取り大声を出す。 「お前酔ってんの?男相手に何やってんだ…」 発した言葉とは裏腹にセリフにドキドキしてしまい自分を落ち着かせる。 「酔ってませんよ。それに…」 グイッと顔を強引に向かせられ嫌でも千葉と目が合う。 「前田さん本気で嫌がってないでしょ?」 「そ、そんなことない…」 胸がドキドキしていつまでも静まらない。あのシチュボは何度も繰り返し聴いているものだから尚更だ。それくらい俺にとっては特別な作品なんだ。 「ファンが何でもかんでも喜ぶと思うなよ…そうやって囁けば喜ぶと思ってんだろ。その声はみんなのものだろ!一人のために使うな!過剰なファンサはやめろ!…もう帰る!」 「っ、前田さん!」 例え本人と現実では距離が近いとしてもそんな過剰なファンサはしてはならない。 推しとファンは一定の距離を保っていたい。 俺は料金を机に置いて急いで店を後にした。 この日をどれだけ楽しみにしていたか。真実を知る前の俺なら純粋に楽しめていたはずだった。俺が推している配信者が初のサイン会をやるということでこれは行くしかないと思ってチケットを買った。 しかしその配信者・紗和は、会社の後輩の千葉爽太だった。 今日何度目か分からないため息をつく。チケットを眺めてはため息が漏れる。この前の居酒屋の件が頭にちらつく。本人に向かってなんてことを言ってしまったんだ…でもあんな過剰なファンサはおかしいと思ったんだ。きっと揶揄っているに違いない。圧倒的に女性ファンが多いし男の俺は少し肩身が狭い。サイン会に行ったって嬉しくないに決まってる。 紗和のチャンネルを開いてとある動画のサムネを見る。 この動画は知るきっかけになった作品だった。あのとき、俺は仕事で心身ともに疲れていて家と会社の往復を繰り返す毎日だった。何気なく流れて来たその動画をタップしたのがきっかけだった。声の演技に魅了されていつの間にかファンになっていた。そのときは登録者もそんなに多くはなくて、でも声が大好きで応援をしたいと思った。もっと自分の時間を大切にしたいと思って当時勤めていた会社を辞めて今の会社に入った。今もそれなりに大変だけどあの頃みたいに心が病むような状態ではない。推しがいることで生活に潤いが出て生きる活力になる。よく人との出会いはタイミングと言うけれど自分はあのときがターニングポイントになったんだと思う。 ◇◇◇ 「おはようございます」 休み明けの月曜日、いつも以上に憂鬱なのは居酒屋での一件からだ。 挨拶をされて見上げると千葉が立っていた。 「おはよう」 なんとなく気まずい空気が流れて伝えたいことがあるのに上手く話せない。 『この前は声を荒げてしまってごめん。』 『サイン会はどうだった?上手くいった?』 「…千葉」 「前田さん」 二つの声が重なり互いを見合う。 目が少し大きくなって驚く表情が映る。先にいいぞと譲ると前田さんからどうぞと言われて、また千葉からいいよと言った。 「千葉って強情だな」 「前田さんもですよね?」 結局、俺から言うことにした。 「…この前は怒鳴っちゃってごめん。大勢のファンがいるのに俺だけがファンサを貰うのが許せなくてその声はみんなを幸せにするものだから安売りはやめてほしかったんだ」 チラリと千葉の方を見ると緊張した面持ちで目が合った。 「俺の方こそ、すみませんでした。…現実でファンに遭遇することってあんまりないから嬉しくて…勝手なことをしました。本当にすみませんでした」 「……俺はずっとファンとして千葉を推すよ応援してる」 「…っありがとうございます」 俺たちの他にまだ誰もいなくてよかった。週の始まりは憂鬱だけど少し心が軽くなった気がする。 「…なぁ、サイン会やったんだろ?どうだった?上手くいった?」 「緊張しましたけど予想以上に来てくれて嬉しかったです…けど」 「けど?」 少しムッとした表情でそっぽを向く。 「…前田さんに会えるかなーって思ったけど会えなかったです」 チラリと目線だけこちらに向けて拗ねていた。 「…ほ、本当は行こうとしてたんだ。でも居酒屋の件で気まずくて行けなかったし、どんな言葉をかければいいか分からなくてっ…それに…」 「それに?」 「俺、男だし…圧倒的に女性のファンが多いだろ?だから、ちょっと躊躇して…」 「そ、そこまで気にしなくていいですよ!男とか女とか関係ないです。応援してくれるなら俺はすごく嬉しいです!…あと今日、動画投稿するんですけど見てくれたら嬉しいです」 「!っ絶対見るよ」 「よかったです…」 えへへっという効果音がつきそうな笑顔で笑う。仕事中は実年齢より大人っぽく見えるのにそんな無邪気な笑顔を見せられたらなんだか胸が高鳴って落ち着かない。 「ちょっとコーヒー買ってくるわー」 「あ、はい。いってらっしゃい」 席を外したのはコーヒーを買うためじゃない。とりあえずお手洗いに駆け込んで胸の高鳴りを落ち着かせる。 「マジで…?」 こんな気持ちを持ったままファンを名乗っていいのか…? ぐるぐると頭で考えても分からない。声だけが好きだったはずなのに。

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