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第1話

第1章:琥珀色の序曲(プロローグ) 橘碧空(たちばな あおと)にとって、朝陽(あさひ)という存在は、常に目を離してはいけない「壊れ物」のようなものだった。 大学のキャンパスを歩けば、男女を問わず視線が彼に突き刺さる。朝陽はα(アルファ)でありながら、女性ですら振り返るほどの透き通るような美貌の持ち主だった。細い指先、白磁のような肌、どこか浮世離れした大きな瞳。その線が細く儚げな佇まいは、周囲の「守ってやりたい」という庇護欲と、それ以上に醜い独占欲を無差別に刺激した。 「朝陽、また知らない奴から手紙を渡されていただろ」 図書館の隅、いつもの特等席で執筆に耽る朝陽の隣に座り、碧空はわざとぶっきらぼうにコーヒーを置いた。 「えっ? ああ、これ? 道を聞かれただけかと思ったんだけど、後で読んだら『放課後、裏庭で待っています』って書いてあって……。親切な人がいるんだね、碧空くん」 朝陽は首を傾げながら、天真爛漫な笑みを浮かべる。その天然すぎる反応に、碧空は心の中で盛大なため息をついた。 (……道案内で裏庭に呼び出す奴がいるか) 朝陽がこれまでに何度、危うい目に遭いかけてきたか。そのたびに碧空は、持ち前の冷静さと冷徹な瞳で、彼に群がる有象無象を一人、また一人と「排除」してきた。 周囲から見れば、碧空は特定の恋人を作らず、相手を代わる代わる変えて満たしている「遊び人」のように映っていたかもしれない。だが、それはすべて朝陽という無自覚な獲物を守るための擬態であり、彼への強すぎる執着を隠すための苦肉の策だったのだ。 そんな中、朝陽は倫央(ともひさ)から手渡された琥珀色の小瓶を見つめていた。 朝陽を囲い込むような、底知れないαの独占欲と、他者を引き離す圧倒的な威圧感。その格の違いを見せつけられた輩(やから)たちは、朝陽に手を出すことの恐怖を本本能で悟り、二度と近づくことすら諦めるしかなかった。すでに強固な番(つがい)の絆で結ばれた二人の間には、他者が介入できる隙など一寸も存在しないのだ。 朝陽は倫央から手渡された琥珀色の小瓶を再び見つめた。 「これ、本当にいいんだよね……?」 「ああ。αの遺伝子を活性化させる。……だが、まだ開発段階だぞ」 大学在学中でありながら、その卓越した才能を買われて大手製薬会社の新薬開発チームに属している倫央。そんな彼が秘匿している「実験段階の薬」だという警告も、今の朝陽の耳には届かない。 碧空のような完璧なアルファになりたい。彼に守られるだけの存在ではなく、隣に並ぶに相応しい強さが欲しい。 朝陽はその「微かな苦味」を口に含んだ。それが、二人の運命を驚天動地の方向へと狂わせていくスイッチになるとも知らずに――。 朝陽のポケットには、碧空から渡された予備の鍵が入っていた。 「執筆で行き詰まったら、いつでも来いよ」 そう言って笑った碧空の言葉を信じ、サプライズのつもりで訪ねたマンション。だが、玄関の前まで来ると、鍵を使うまでもなくドアが僅かに開いていた。そこから漏れ聞こえる甘い喘ぎ声と、充満する濃密なフェロモンの香りに、朝陽の心臓は凍りついた。 隙間から見えたのは、自分以外の誰かを抱きしめる碧空の背中。 衝撃のあまり、朝陽の手から持っていた資料の封筒がバサリと床に落ちた。その音に反応し、碧空の鋭い視線がドアの隙間に向く。 「……朝陽!?」 自分の名を呼ぶ声に弾かれたように、朝陽は踵を返して走り出した。背後で激しい足音が追いかけてくる。エレベーターを待つ余裕もなく階段へ駆け込もうとしたところで、背後から伸ばされた強い腕に手首を掴まれた。 「待てよ、朝陽! 行くな!」 必死に腕を掴む碧空。その肌からは、まだ生々しい他人の匂いが漂っている。 「離して……! さっきまで誰かとしたあ後の臭いをつけたお前の傍にいたくない! 離せ!」 朝陽が叫んだその時、開いたままのドアから、シャツを乱した一人の男が顔を出した。 「ねぇ、碧空。どうしたの? 急に飛び出して……」 男は不機嫌そうに呟いたが、朝陽の顔を見た瞬間、その目が驚きに細められた。 「あっ……君、あの時の。図書館で手紙を渡した……」 男は数日前に朝陽が「道案内」だと勘違いして手紙を受け取った、あのナンパ男だったのだ。 碧空は、朝陽を狙っていた男を、あえて「処理の相手」に選ぶことで、朝陽に近付かせないようにしていた――。だが、そんな歪んだ守り方など、今の朝陽に伝わるはずもなかった。 「いいから、もう帰れ!」 碧空は男に一瞥もくれず、射抜くような鋭い視線を朝陽に向けたまま叫んだ。その目は、獲物を逃さない獣のように朝陽だけを捉えている。 「ひどいじゃないか!……碧空の方から誘ってきたのに!」 「うるさい!帰れっ!」 男は朝陽を上から下まで品定めするように眺めると、不機嫌そうに鼻を鳴らして、足早に部屋を去っていった。 残された廊下には、男がまとっていた香水の匂いと、碧空の荒い呼吸、 張り詰めた空気、朝陽の絶望だけが沈殿していた。 「碧空、その手を……離し……て」 朝陽は悔しさと悲痛を宿した瞳を碧空に向けて言った。 「朝陽、違うんだこれは……」 「うるさい!離せって言ってる!」 碧空の言葉を遮って、力強くその手を振り払うと、朝陽はエレベーターを待つ余裕もなく階段へと駆け出した。 「朝陽!」 すぐに追おうと地を蹴った碧空だったが、不機嫌そうに部屋から私物を抱えて出てきた男と、狭い廊下で正面から激しく衝突した。 「ちょっと、危ないじゃない!」 「どけっ……!」 悪態をつく男を強引に押し退けるのに、数秒の決定的なロスが生まれる。 「待て、朝陽!」 なおも裸足のまま階段へ飛び出そうとした碧空だったが、はだけたシャツにスラックスだけという己の姿に、ハッと足を止めざるを得なかった。最中のままで飛び出してきたため、靴も、スマホも、部屋の鍵すら持っていない。 「クソッ……!」 自分のあまりの無様さに激しく毒づきながら、一度部屋へ引き返さざるを得なかった碧空。 ほんの数十秒。そのわずかな焦燥の時間こそが、二人の間に半年もの決定的な空白を生むことになってしまったのである。 「なぜあんな守り方しかできなかったのか……っ!」 誰もいない部屋で、碧空は拳をベッドに叩きつけた。朝陽を自分の都合のいい檻に閉じ込め、他の男を身代わりにすることで守った気になっていた。すべてを完璧にコントロールできていると、自分を「夜郎自大」に信じ込み、完全に天狗になっていたのだ。 「本当にめでたい奴だよな、俺は……。一番傷つけたくない相手を、この手でめちゃくちゃにしておいて……」 己の傲慢さが招いた最悪の結末に、碧空は激しい自責の念に駆られていた。 第1章:琥珀色の序曲(同窓会前夜) あの日、碧空の部屋を飛び出してから半年。朝陽は逃げるように執筆に没頭していた。皮肉にも、その絶望が筆を走らせ、彼は在学中に新人賞を受賞。卒業後、名の知れた小説家となった朝陽の元には、ますます多くの仕事が舞い込むようになっていた。 時折襲う眩暈や体の火照りを感じながらも、朝陽は定期的に倫央から貰った「薬」を飲み続けていた。時折襲う激しい火照りに耐えかねて、朝陽は密かに倫央へ電話をかけていた。 「倫央、この症状は本当にまずくないのかな……? 体がずっと熱くて」 『ああ、大丈夫だよ。新薬の初期症状みたいなもんだから、安心してそのまま飲み続けてくれ』 受話器の向こうの倫央の声に嘘はなかった。だが、倫央は碧空にはこのことを完全に黙秘していた。朝陽が自分の開発した薬を服用し、いわば「実験体」のようになっているという事実を――。 そんなある日、出版社から「海外での一年間の執筆活動」の承諾が降りる。今の状況をリセットしたい朝陽にとって、ロンドンでの滞在は願ってもいないチャンスだった。 閉めきったホテルに籠もり、碧空に見つからないよう執筆を続けていた。ホテルでの執筆中、朝陽はふと、下腹部から込み上げる奇妙な昂りに耐えかねて、自身の身体に触れていた。 「……あれ? 濡れてる……?」 αの身体からは本来、分泌されるはずのない未知の熱い潤いが、指先を濡らしていく。その異常な変化に、朝陽の心臓は早鐘を打った。 誠に、弟の蒼汰が郵便物を届けてくれる。 「兄さん、大学の同窓会のハガキだね。ありがとう」 机に置かれたハガキを見もせずに別の作業を続ける兄に、蒼汰は少し心配そうに声をかけた。 「兄さん、碧にいとは会ってないんだろ? 同窓会だけでも行って会ったら?」 「……考えとくよ」 笑顔で弟を見送った後、朝陽は一人呟いた。 「同窓会かぁ。無理だよ……行けない」 欠席の返事を出しようとしたその時、LINEが鳴った。相手は高橋倫央。碧空を通じて知り合った、人見知りの激しい朝陽が唯一碧空抜きでも話せる数少ない友人だ。 『同窓会、欠席なんて言わないよな? 学生の頃あんなに世話してやったのに』 電話越しに聞こえる倫央の冗談めかした声に、朝陽は断る言葉を失う。幹事を務める彼への恩義もあり、朝陽はついに「……わかったよ。参加する」とボソリと呟いた。 電話を終え、再び締め切り間近の原稿に向かおうとした時だった。 「あれ? なんか、体が火照ってきた……っ、あそこが、まただ」 下腹部から込み上げる昂りに、朝陽は自分の身体を抱きしめる。薬のせいか、それとも。 「……ダメだ、今は仕事に集中しなきゃ」 昂る自身の熱を必死に鎮めるように、朝陽はキーボードを叩き続けた。それが、同窓会の夜に起きる「運命の暴走」への、身体からの最後の警告だとも知らずに――。 ◇ 碧空は、朝陽に幾度となく会いたいと連絡するが、「執筆の仕事が忙しい」と言われ、拒まれ続けていた。 現在の碧空は研修医として多忙な日々を送っている。そんな折、同窓会の知らせが届いた。さらに碧空にはもう一つ、大きな転機が訪れていた。その優秀さを認められ、近々海外の医療チームへ、半年間の短期研修に行く話が出ていたのだ。 (日本を離れる前に、どうしても朝陽に会わなければならない……) 出欠の返事を出せずに焦燥感を募らせていると、携帯電話が鳴る。画面に表示されたのは、倫央の名前だった。 「よお、お久しぶり。やっと電話に出たな。元気にしてるのか?」 大学時代からの腐れ縁で、唯一碧空が本音で語り合える親友の高橋倫央だ。 「ああ。毎日病院内を走り回ってるよ」 碧空はため息交じりに答えた。 「はははっ、あの冷静沈着のお前が毎日走り回ってる? ウケるぜぇ」 笑いながら倫央は言った。 「うるさい。お前はどうんだ? 早くいい薬を作ってくれよ」 碧空も久しぶりの親友との会話に、わずかに口元を緩める。倫央は薬品の研究を行い、製薬開発にも関わる仕事をしているのだ。 「はいはい、しばらくお待ちください。それより、お前は同窓会どうするんだ? もうすぐ半年の海外研修に行っちまうんだろ?」 倫央は本題を切り出した。 「返事が遅れてすまない。申し訳ないが、忙しくてな……」 「朝陽は参加するぞ」 断ろうとする碧空の言葉を遮るように、倫央が言った。 「えっ、朝陽が? 本当なのか?」 碧空は驚きに目を見開いた。 「ああ、俺が直接電話をして、来るように誘ったんだ。碧空……お前、大事なことをまだ朝陽に話してないんだろ?」 倫央は、碧空があの夜以来、朝陽のことでずっと後悔し、気にかけていることを知っていた。だからこそ、直接電話をして伝えたかったのだ。 「……ありがとう。当日は何が何でも休みをもぎ取って参加する」 海外へ旅立つ前に、必ず朝陽と向き合う――碧空は、強い決意を込めて倫央に返事をした。 同窓会当日、会場は久しぶりに再会した者同士の熱気で賑わっていた。 「おお、こっちだ碧空」 受付に現れた碧空を、倫央が呼び寄せる。 「すまん、遅れてしまった」 碧空は大学時代から洗練されたセンスと、それに見合った圧倒的な容姿を持ち、朝陽の儚い美しさとはまた違うベクトルの色気で、特に女性たちの注目を一身に集めていた。しかし本人は周囲に全く興味がない素振りを崩さないため、「一体誰があの橘碧空を落とすのか」と、いつも格好の話題の種になっていた。 「わあ、橘君が来た! 相変わらず素敵……!」 碧空が姿を見せるなり、周囲の女子たちが一斉に色めき立ち、その視線を独占していく。 「相変わらず、女子の視線を釘付けだな」 倫央は碧空の隣に座り、面白そうに肩をすくめた。女性たちが代わる代わる碧空の元へやってきては乾杯を求めてくるが、碧空は困惑気味に最低限の愛想でグラスを合わせるだけだった。 「お前、面白がっているだろ」 碧空は淡々とした口調で、手にした酒を口に運んだ。 「ふふっ、そんなことないって。それより――朝陽が来てるぜ。でも、男子どもに囲まれて、飲めない酒を飲まされてるからヤバいんじゃないか?」 心配そうな倫央の視線の先。そこには、大勢 of 男子たちに囲まれ、困惑した様子でグラスを握りしめている朝陽の姿があった。 「……ちょっと、行ってくる」 碧空は席を立ち、迷わず朝陽の元へと歩き出した。 「朝陽、飲みすぎだ……。お前、顔が真っ赤に赤いぞ。熱でもあるのか?」 ふらついている朝陽の腕を掴み、強引に自分の方へと引き寄せる。 「おお、碧空じゃないか。久しぶりだな!」 朝陽を囲んでいた男子たちが声をあげた。 「ああ。悪いが、こいつを連れて行くから」 短くそう告げると、碧空は朝陽をその場から連れ出した。 慣れない酒のせいで意識が朦朧としていた朝陽は、自分をあの窮地から解放してくれた人物にお礼を言いたくて、なんとか顔を上げた。 「ありがとう、助かった……って、碧……空? ごめん、離して!」 驚きと恐怖が覚醒をもたらし、朝陽は激しく碧空の腕を振り払うと、ふらつく足取りで会場の外へと走り去ってしまった。 「朝陽! 待てよ!」 碧空はすぐにその後を追った。 「そんな状態で、どこに行くんだ!?」 まともに歩くこともできていない朝陽にすぐに追いつき、再びその細い腕を掴む。 「大丈夫だから、離し……て……」 朝陽は言いかけたものの、限界を迎えた身体が崩れ落ち、そのまま碧空の胸の中へと倒れ込んでしまった。 「朝陽っ! 朝陽、大丈夫か!? おい、しっかりしろ!」 碧空は意識を失った朝陽をしっかりと抱きとめると、足早に会場の外へと向かった。 「おーい碧空、ほれっ」 すぐに駆けつけてくれた倫央が、二人の荷物をロビーまで持ってきてくれた。 「すまん倫央、本当に助かった」 「気にするな。それにしてもあいつら、飲めないって知っててやりすぎだろ。朝陽は大丈夫か? ……実はここ、俺の叔父のホテルんだ。よかったら部屋を用意するから、朝陽をそこで休ませてやった方がいい」 「それは助かる。少し休ませてから帰るよ」 碧空は腕の中の朝陽を愛おしそうに見つめながら頷いた。 「ここだな。朝陽、着いたぞ」 倫央に手配してもらった部屋に入り、朝陽を静かにベッドに寝かせる。着ていた上着を脱がせ、ズボンのベルトを緩めて、少しでも楽に呼吸ができるように整えた。 「碧空……碧空……なんで……」 眠りの中で、朝陽がうわ言のように碧空の名前を呼ぶ。その傍らに腰掛け、愛しい顔を覗き込んだ碧空は、朝陽の目尻から一筋の涙が頬を伝い落ちるのを見た。 「朝陽、大丈夫か? 俺はここにいる」 碧空は切ない痛みを胸に抱きながら、朝陽の手をそっと握りしめた。 「碧……空? なの……?」 触れられた温もりのせいか、朝陽がうっすらと目を覚まし、すぐ近くにある碧空の顔を見つめた。 「ああ。飲めない酒を無理に飲まされて……気分は悪くないか?」 碧空が心配そうに見つめ、その白い頬にそっと手を当てた、その時だった。 「碧空……お願い。僕を抱いて」 朝陽が突然、碧空の首に強く抱きついて懇願した。 「……っ、何を言ってるんだ? まだ酔いが回っていて、訳が分からなくなっているんだろ。朝陽、一旦離れるんだ」 碧空は理性を保とうと身体を引き離そうとするが、朝陽は驚くほどの力でしがみついて離しようとしない。 「酔ってない……! 僕は本気だよ。今日だけでいいんだ、僕のことを……お願い」 朝陽はそのまま碧空をベッドに押し倒すと、焦ったように彼の服のボタンを外し始めた。 「ちょっと待て、朝陽! やめるんだ!」 碧空はなんとか朝陽の身体を自分から引き離した。 「朝陽、落ち着け。今、冷たい水を持ってくるから」 碧空は乱れた呼吸を整えながら冷蔵庫から水を取り出し、朝陽に手渡した。 「……ごめんなさい。ありがとう」 朝陽は大人しくペットボトルを受け取ると、キャップを開けて水を口に含んだ。――だが、次の瞬間、隣に座り直した碧空を再び不意打ちで押し倒し、その口を塞ぐように自分の唇を重ねたのだ。 朝陽の口から、冷たい水と共に「琥珀色の液体」が碧空の口内へと流し込まれる。 碧空の喉が反射的にそれを飲み込み、小さく上下に波打った。 「朝陽……っ、今、何を飲ませた!? お前、何をしているんだ!」 慌てて起き上がろうとした碧空だったが、すでに酒が入っていた身体にその薬の回りは恐ろしいほど早かった。瞬く間に熱が全身を支配し、骨の奥から狂おしいほどの火照りが突き上げてくる。 「ごめんなさい。……でも、こうでもしないと、碧空は僕を抱いてくれないから」 激しい変異の薬が効き始め、もはや本能の抑えが利かなくなっていく碧空を見つめながら、朝陽は静かにその服をすべて脱がせていく。 「どうして……そこまで……あさ……ひ……っ」 碧空の瞳から理性が消え失せ、獣のような『ラット状態(暴走状態)』の深い闇へと突き落とされていく。 「来て、碧空。僕を、君でいっぱいにして」 朝陽は両手を広げ、完全に本能の塊となった碧空を、すべてを受け入れる覚悟で抱きしめた。 ――ラット状態になったα(アルファ)は抑えが利かず、相手を孕ませるまで激しい行為を止めない――。 朝陽はかつて倫央から聞いた言葉を脳裏で呟きながら、碧空が自分を貪るのをただじっと待っていた。 碧空は朝陽を荒々しく押し倒すと、彼の胸の尖りを深く啄み、首筋や鎖骨を狂ったように貪り舐め回し始めた。 (朝陽、すまん……! こんなのは違う, 違うんだ……っ!) 碧空の心は必死に悲鳴をあげていたが、薬の強力な作用に肉体は抗えず、強烈な支配感の中で意識はみるみる混濁していく。 朝陽の両足を両腕で抱え上げ、その片足をさらに自身の肩へと担ぎ上げる。完全に無防備に晒された朝陽の秘丘へと、ラット状態の碧空は欲望のまま、愛撫も、身体を慣らすこともなく、猛り狂う自身の昂りを無理やり突き挿し入れた。 「痛……い……っ! あっ、ああ……っ!」 準備もないままαを受け入れる恐怖とリスクに朝陽は身体を強張らせたが、不思議なことに、想像していたような引き裂かれるような激痛は襲ってこなかった。 自分の中を容赦なく出し入れする碧空の熱を受け入れている蕾が、まるで最初からそう作られていたかのように、未知の潤滑成分をぐちゅぐちゅと音を立てて溢れさせているのだ。 (うそ……僕の身体が、スムーズに碧空を受け入れている……。痛みじゃなくて、信じられないくらい気持ちよくて、頭がおかしくなりそう。どうしちゃったんだ、僕の身体……) 「あっ、もうお腹いっぱいだから……っ、もう、やめて……あ、あ!」 思っていたよりも遥かに激しく、何度も何度も身体の向きを変えさせられ、碧空の凶暴な昂りによって最奥を蹂践される。朝陽の胎内へと、碧空は幾度となく熱い蜜を爆ぜさせ、注ぎ込み続けた。終わりなく攻め立ててくる強引な本能の行為に、「このまま身体が壊れてしまうのではないか」と朝陽は本気で恐怖を覚えるほどだった。しかし、これが自分が仕組んだことの報いなのだと、彼は必死に涙を堪えてすべてを受け入れた。 「まだだ……。お前を孕ませるまでは、全然足りない」 碧空は低い声で獣のように唸り、昂りを突き入れまま、朝陽の最奥へ、最奥へ、命の種を容赦なく注ぎ込み続けた。 朝陽が目を覚ましたのは、夜が明ける頃だった。隣で静かに健やかな寝息を立てている碧空を、愛おしそうに見つめる。 「碧空、ごめんね。……でも、ここに碧空がいっぱいだよ」 朝陽はまだ痛む自身のお腹をそっとさすりながら、切なく、けれどどこか嬉しそうに微笑んだ。 「なんで僕はαなんだろうな。あ~あ、本当に碧空の子どもを産みたかったなぁ。……αなんて、くそくらえだ」 朝陽は天井を仰ぎ見ると、頬を伝う涙を拭うこともせず、ぽつりと呟いた。 朝陽は物音を立てないように、静かにベッドを抜け出した。 (あの薬は効きが良すぎるから、本来の碧空くんのラット状態よりもずっと激しくなっちゃったんだよね。だから、ゆっくり休んで。……辛い思いをさせてごめんね。そして、ありがとう) 乱れたシーツと、幸せそうに眠る碧空の横顔。朝陽は震える手で、クローゼットの奥に隠しておいた自分のバッグを引き寄せた。 中には、昨日出版社から届いたばかりのアメリカ行きの航空券と、パスポートが眠っている。 (碧空くんには、輝かしい未来がある。……僕がそばにいたら、これ以上君の人生を狂ってしまうから……) 音を立てないように素早く服を着ると、朝陽は碧空の寝顔を最後にもう一度だけ見つめた。核心に触れるか触れないかの距離で、切ない別れのキスを落とす。 朝陽は振り返ることなく、静かに部屋を出た。バッグの中には未来へのチケットと、傷を負った自分自身すらまだ気づいていない、新しく芽生えた「小さな命」が、確かに息づき始めていたのだった。 目が覚めた瞬間、脳を焼き尽くすような強烈なフェロモンの残滓と、ひどい頭痛が碧空を襲った。 乱れたシーツ、そして隣にいるはずの朝陽の姿はない。 「朝陽……?」 かすれた声で名を呼ぶが、返事はない。ただ、枕元に残されたかすかな朝陽の匂いと、自分が昨夜、薬の暴走に任せて彼を無残に貪り尽くしてしまったという生々しい記憶だけが、冷酷に蘇ってきた。 ベッドから飛び起き、誰もいない静まり返った部屋を見渡した碧空は、怒りと混乱で激しく頭をかきむしった。 「朝陽……っ、昨夜のことは一体何だったんだ……!?」 ぽつりと呟いた声が、虚しく壁に跳ね返る。 「『僕を抱いて』と言ったのは、朝陽、お前だろ……っ!? 俺をあんなラット状態にまでさせておいて……なんで、どうして俺の腕の中から勝手に逃げていくんだ!」 朝陽を狙う有象無象から、彼を「守ろう」としてやっていたことだった。他の奴に手を出されるくらいなら、俺が先にその身体を繋ぎ止めておけばいい。そう思っていたのに。 だが、それは単なる言い訳で、本質は違ったのだ。自分以外の誰にも朝陽に触れさせたくないという、醜く肥大化した独占欲と執着。それゆえに、自分は朝陽を一番深く傷つけ、すべてを壊し、そして今度は自分が朝陽に激しく狂わされ、置き去りにされた。 「あんな場面を見せて……やっぱり呆れたか? もう、俺のことを見損なって、愛想を尽かして消えたのか……?」 朝陽のあの悲痛な瞳と、昨夜の狂おしいほどに自分を求めてきた熱い身体の感触が脳裏から離れない。 「ふざけるな……。逃げ切れると思うなよ、朝陽。俺には、お前しか愛していないんだ。朝陽、お前だけだ…… Tint !」 碧空は震える手で携帯を掴み、何度も朝陽の番号を呼び出した。しかし、無機質なアナウンスが流れるだけで、二人の電波が繋がることは二度となかった。 あの日を境に、二人の運命は決定的な空白の時間を迎えることになる。 朝陽は碧空に告げぬままイギリス・ロンドンへと旅立ち、碧空もまた、引き裂かれるような執着を胸に抱いたまま、半年間の海外研修へと日本を離れた。お互いが海外という遠い空の下、時差と距離、誠にすれ違う想いのせいで、繋がるはずの電波は虚しく空を切るばかりだった。 ――そして半年後。 お互いの「空」が再び結ばれる、あの奇跡の夜に向かって、運命の歯車は静かに、けれど激しく回り始めていた。 第二章:再会とすれ違い 1.ロンドンの雨と、琥珀色の奇跡 どんよりとした灰色の雲が広がる、イギリス・ロンドン。 朝陽はこの異国の街のアパートに拠点を移し、静かに執筆活動を続けていた。日本を離れてから数ヶ月。碧空に宛てたスマートフォンの画面は、あの日以来一度も開いていない。会いたい、声を聴きたいという身を切るような寂しさを、キーボードを叩く指先にすべてぶつけるようにして、朝陽はただひたすらに物語を紡いでいた。 そんなある日、ロンドンにいる朝陽の元に、親友の倫央から国際電話がかかってきた。 『よお朝陽、ロンドンの生活には慣れたか?』 「うん、倫央。こっちは少し肌寒いけど、執筆は順調だよ。わざわざ電話ありがとう」 『いやさ……ちょっと耳に入ったから、一応お前に伝えておこうと思って。――碧空の奴、婚約したらしいぞ』 「え……?」 受話器を持つ朝陽の指先が、一瞬で凍りついた。 『なんか、親同士が決めたビジネス絡みの噂らしいんだけどな。相手は顔見知りの、医者を目指してる優秀な令嬢だって話だ』 (碧空くんが……婚約……?) あの日、ホテルで自分を狂ったように貪り、激しく愛してくれた碧空の体温が蘇る。けれど、彼はもう私の手の届かないところへ行ってしまったのだ。完璧なアルファである彼には、自分のような異常な男ではなく、お似合いのふさわしい女性がいる。 「そっ、か……。おめでたい、ね……」 声を震わせながらなんとかそれだけを告げて電話を切った瞬間、朝陽は猛烈な吐き気に襲われて洗面所へと駆け込んだ。 「うっ……、げほっ……!」 胃の奥から込み上げる激しい不快感。ここ最近、ずっと体がだるく、微熱が続いていた。ただの環境の変化による疲れだと思っていた。けれど、下腹部に手を当てた瞬間、ドクンと力強い拍動を感じて、朝陽はハッと目を見開く。 急いで現地の病院を受診し、目の前に突きつけられた診断書には、信じられない文字が並んでいた。 『――妊娠、しています』 自分は男のαだ。あり得ない。恐怖で目の前が真っ白になり、朝陽はアパートの部屋で一人、ガタガタと震えながらすくみ上がっていた。 ――ピンポーン、と重苦しい沈黙を破ってアパートのドアが叩かれたのは、まさにその時だった。 恐る恐る扉を開け、突然の訪問者である弟・蒼汰の顔を見た瞬間、これまで張り詰めていた朝陽の心の糸が、音を立てて切れた。 「蒼汰……っ、僕、お腹に赤ちゃんがいるんだって……」 朝陽は蒼汰のシャツの胸元に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。震える指先で、自身のまだ平らなお腹を愛おしそうに、けれど恐れるようにさする。 「僕、αなのに妊娠してるってなんで……? どうしよう、どうしたらいいの……っ!?」 混乱と恐怖に怯える兄を、蒼汰は何も言わずに力強く抱きしめ返した。その腕の強さは、かつて頼りきっていた碧空のそれとは違い、ただひたすらに優しく、朝陽を世界の理不尽から匿うための防壁のようだった。 「兄さん……お腹の子の父親は誰なの?」 蒼汰は静かに、けれど真っ直ぐに朝陽を見つめた。 「言いたくなかったら、言わなくていいよ。……でも、もしかしたら、碧にい?」 「…………っ」 朝陽は答える代わりに、ただ大粒の涙をボロボロと溢れさせた。その無言の涙を見て、蒼汰はすべてを理解した。 (やっぱり、碧にいだったんだ……) 蒼汰の心に湧き上がったのは、碧空への単純な憎しみではなかった。幼い頃から家族のように慕ってきた「碧にい」への、怒りと、限界突破した憤りだった。あんなに兄さんに執着しておいて、こんなに傷つけて、おまけに自分の子供を妊娠していることすら気づいていないなんて。 「兄さん、もう一人で抱え込まなくていい。僕が全部、兄さんとその子を守るから」 蒼汰は朝陽の涙を優しく拭うと、頼もしい笑みを浮かべた。 「日本に帰ろう。碧にいの奴には、僕がガツンと喝を入れてやるからさ。『しっかりしてよ、碧にい!』ってね」 朝陽のその言葉に、朝陽は涙で濡れた瞳を瞬かせる。 (僕の身体の中に……碧空くんの赤ちゃんがいる……) 恐怖のどん底にいたはずなのに、弟が味方になってくれたことで、胸の奥に温かい光が灯っていく。それは、世界で一番甘美で、密やかな祝福のように思えた。たとえ彼に別の婚約者がいようとも、自分の元に遺してくれたこの絆だけは、誰にも渡さない。 「うん……日本に、帰るよ。この子を、ちゃんと産みたい」 朝陽はまだ平らなお腹を愛おしそうにさすりながら、蒼汰の手を握りしめ、前を向く決意をしたのだった。 2.最強の味方 お腹の子供のこと、何よりも兄の体調を一番に考えた蒼汰に伴われ、朝陽は予定を切り上げて日本へと極秘帰国した。 ゆったりとしたコートで大きくなり始めたお腹を隠し、二人で向かったのは、幼い頃から自分たちを知っている高名な医師・橘厳(たちばな げん)の元だった。 厳は、著名な患者からも絶大な信頼を寄せられる『橘総合病院』の院長である。バース系医療においては日本で三本の指に入る最新技術を誇り、優秀な医師や看護師、さらには男性の妊娠・出産にも極めて長けた超一流の助産師たちが揃う、国内最高峰の総合病院を率いる男だ。大正、碧空はその偉大な父親の跡を継ぐ次期院長という、重責を担う存在でもあった。 「――なるほどな。Mα(変異体)か」 診察データを一通り確認した厳は、白髪の混じる顎髭をさすりながら、至って冷静に、どこか嬉しそうに目を細めた。 「本来なら医学の常識を覆す異常事態だが……朝陽くん、君の身体はあやつのすべてを受け入れるために自ら形を変えたんだ。お腹にいるのは、紛れもなく橘碧空の子だよ。私も、自分の孫の顔が見られると思うと、実に嬉しい」 厳先生の力強い言葉に、朝陽の張り詰めていた心がすっと軽くなる。しかし、朝陽は意を決して、ずっと胸に支えていた疑問を切り出した。 「あの……厳先生。碧空くん、婚約したんですよね……?」 「ん? 婚約だと?」 厳は怪訝そうに眉を寄せた。 「いや、確かに取引先の社長から『娘をぜひお前の嫁に』と打診はされたが、私は『本人に聞かないと返事はできん』と断ったぞ。承諾した覚えなど毛頭ない!」 「えっ……? でも、噂では……」 「あいつが私に断りもなく勝手に承諾するような男ではないのだがなぁ。まあ、相手のお嬢さんは碧空が小さい頃からの顔見知りで、利発な女性αだ。彼女も医師を目指して大学で勉強しているが……」 厳先生の言葉に、朝陽は再び胸が締め付けられる。 (承諾してないってことは……碧空くんが、自分の意志でその人と婚約を進めたんだ……) 強烈な誤解と劣等感が朝陽を襲う。やっぱり、自分のような男の身体で子供を産むなんて、碧空くんの輝かしい未来の邪魔になるだけだ。 「厳先生……、お願いがあります」 朝陽は厳の手をぎゅっと握りしめ、必死の面持ちで懇願した。 「碧空くんが先生に本当のことを話すまで、僕が妊娠していることは、絶対に彼に秘密にしてください」 「なぜだ? あやつにも責任が――」 「碧空くんは正義感が強いから、もし僕の妊娠を知ったら、自分の本当の気持ちや婚約者さんを押し隠して、無理に僕を選んでしまうと思うんです。……そんなの、僕は嫌なんです! だから、お願いです。彼には知らせないでください……!」 朝陽のどこまでも健気で、切実な瞳。 厳はしばらく沈黙した後、盛大なため息をついて朝陽の頭を大きな手でワシワシと撫で回した。 「ったく……あいつのどこにそこまで惚れ込む要素があるんだか。分かった、朝陽くん。この橘厳、男に二言はナシだ。あやつが自分でケジメをつけるまで、このことは絶対に秘密にしておく。その代わり、国内最高峰の我が橘総合病院の医療サポートはすべて私に任せなさい!」 「……っ、ありがとうございます、先生……!」 こうして、厳先生という最強の味方を得た朝陽。 しかし、この時朝陽が抱いた「碧空が自ら選んだ婚約」という誤解の裏には、当の碧空すら知らない、とんでもなくサバサバした「笑える真相」が隠されているのだった――。 3.婚約の裏の「大いなる勘違い」 その頃、当の碧空は、研修先のニューヨークから半年ぶりに日本へ帰国していた。 橘総合病院の廊下を歩く碧空の表情は、半年前よりもさらに険しく、どこか近寄り難い冷徹さを纏っていた。その優秀さは誰もが認める男だったが、半年経っていや、まだ半年しか経っていないのに朝陽を忘れることなどできず、執着と後悔という名の暗い情熱をその身に宿したままだった。 (朝陽……お前は今、世界のどこで、誰といるんだ……?) そんな碧空の元に、ヒールの高い靴音を響かせて一人の女性が歩み寄ってきた。 西園寺麗香(さいおんじ れいか)。厳が言っていた「医者を目指している、取引先令嬢の優秀なα」であり、朝陽が『碧空の婚約者』だと激しく誤解している張本人である。 だが、彼女の本来の姿は、朝陽が想像しているような、しとやかな令嬢とは180度違っていた。 「よお、碧空! やっとニューヨークから帰ってきたか。相変わらず辛気臭いツラしてんなぁ!」 麗香は碧空の肩をガシガシと力強く叩くと、豪快に笑い飛ばした。 「麗香か。お前もこの病院で研修中だったな」 碧空はいつもの冷静なトーンで返す。 「ああ、お前の親父さん(厳先生)に叩き込まれてるよ! それよりさぁ、例の『婚約』の件だけどさ」 麗香はフッと不敵な笑みを浮かべ、碧空の耳元に顔を寄せた。 「うちの親父と、お前の親父さんが勝手に盛り上がってるみたいだけど……悪いな、私、男にはこれっぽっちも興味ねぇんだわ。私の狙いは、この橘総合病院の最新医療技術と、将来の最高幹部の椅子だけ。お前のことは『超優秀なビジネスパートナー』としてしか見てねぇから、そこんとこ夜露死苦(よろしく)な!」 「……フッ、そうか。奇遇だな。俺も好きな奴が他にいる。お前と結婚する気は1ミリもない」 碧空の口元に、久しぶりに微かな笑みが浮かぶ。 「だろ!? ハハッ、交渉成立だな! 親たちには適当に『婚約者としてお互いを高め合っています』ってポーズだけ見せて、利用できるものは利用し尽くそうぜ。お前の狙い(好きな奴)も、私の腕で全力でサポートしてやるからさ!」 これこそが、朝陽が絶望していた「婚約」の、あまりにも男前でサバサバした真相だった。麗香は碧空の恋路を邪魔するライバルなどではなく、むしろ碧空の朝陽への執着すら面白がって協力してくれる、これ以上ない最強の「戦友」だったのだ。 だが、この大いなる勘違いが解けぬまま、運命は最悪のタイミングで加速してしまう。 4.運命の擦れ違い 極秘帰国から数週間。朝陽のお腹は、ゆったりとした私服の上からでもはっきりと分かるほどに大きく膨らんでいた。 (もうすぐ、碧空くんとの赤ちゃんに会える……) 朝陽は愛おしそうにお腹をさすりながら、体調が良い日にだけ、気分転換を兼ねて病院の敷地内にある緑豊かな中庭を散歩するのが日課になっていた。 その日も、穏やかな木漏れ日の中をゆっくりと歩いていた時だった。 「――朝陽!?」 背後から響いた、聞き間違えるはずのない、低く、深く、震える声。 朝陽がハッとして振り返ると、そこには、白衣を翻し、驚愕のあまり目を見開いて立ち尽くす碧空の姿があった。 「碧……空、くん……」 半年ぶりの再会。最後に会ったあの夜の記憶が、彼が「婚約した」という絶望の噂が、朝陽の脳裏を駆け巡る。 「朝陽……! お前、今までどこに……規!」 碧空は狂おしいほどの歓喜と衝動に駆られ、朝陽の元へと大股で歩み寄る。 ――だが、その足がピタリと止まった。 朝陽の、不自然に大きく膨らんだお腹が嫌でも視界に飛び込んできたからだ。 「……朝陽、お前……そのお腹、どうしたんだ……? 男の、αのお前が、なんで……」 あり得ない光景を前に、碧空の思考は完全にフリーズしていた。 (俺を置いて、海外へ逃げて……他の男と番(つがい)になり、その男の子供を産むというのか……!?) ラット状態まで落とし込み、あれほど激しく、壊れるほどに命の種を注ぎ込んだのは、自分だ。それなのに、自分の腕をすり抜けて、朝陽は他の男のものになってしまった。脳内を真っ黒な嫉妬が埋め尽くし、碧空の理性がパキンと音を立てて軋む。 「違う……! 違うんだ、碧空くん!」 朝陽は必死に首を振った。だが、碧空の背後から、一人の美しい女性が歩み寄ってくるのが見えた。西園寺麗香だった。 「おいおい、碧空。急に飛び出してどうしたんだよ?」 麗香はいつものサバサバした調子で声をかけたが、朝陽の目には、それが「仲睦まじい完璧な婚約者同士」の姿にしか映らなかった。 (やっぱり……碧空くんには、あの綺麗な人がお似合いんだ。僕みたいな異常な身体の男が、彼の未来の邪魔をしちゃいけない……!) 「ごめんなさい……っ!」 朝陽は涙を流しながら叫ぶと、大きなお腹を抱え、ふらつく足取りで全力で走り出した。 「待て! 朝陽! 行くな!」 碧空がすぐにその後を追おうとした、その時だった。 「ちょっと待て、碧空! 落ち着け!」 麗香が碧空の肩をガシッと掴んで引き留めた。 「離せ、麗香! あいつを、朝陽を逃すわけにはいかないんだ!」 「馬鹿野郎! 妊婦……いや、あの身重の身体で走らせたら危ねぇだろ! 刺激するなって言ってんだよ!」 麗香の冷静な怒号に、碧空はハッと我に返る。だが、その数秒の躊躇の間に、朝陽は中庭を抜け、正面玄関へと向かって走っていってしまった。 「クソッ……! 朝陽――!!」 碧空は麗香の手を振り払い、再び地を蹴って朝陽の後を追った。 第3章:暴走と覚醒 1.臨界点(クライシス) 碧空から逃げる一心で、朝陽は病院の外へと飛び出した。しかし、大きなお腹で無理に走った代償は、すぐに恐ろしい激痛となって朝陽の身体を襲った。 「うっ……、ああぁ……っ!」 下腹部を貫くような、経験したことのない凄まじい激痛。朝陽はその場に崩れ落ち、アスファルトに両手をついて激しく喘いだ。 痛い。お腹が、張り裂けそうに痛い。 (赤ちゃん……、ごめんね……。僕が無理に走ったりしたから……っ) その日、朝陽の身体から、甘く、けれど焦げ付くような、濃密で圧倒的な『変異体Ω(オメガ)』のフェロモンが爆発的に大気中に放出された。 それは、危機に陥った母体が、本能的に自身の唯一の「α(つがい)」を求める、命がけのSOS信号だった。 ドクン、と病院のロビーを走っていた碧空の心臓が、跳ね上がるように鳴った。 半年前のあの夜、自分を狂わせた、世界でたった一つの琥珀色の匂い。それが、信じられないほどの濃度で外から漂ってくる。 (この匂い……朝陽……っ、まさか……!?) 「朝陽――!!」 碧空は白衣を脱ぎ捨て、正面玄関を蹴破るようにして外へと飛び出した。 道路の向こう、うずくまる朝陽の姿が見えた。だが同時に、彼の発する強烈なフェロモンに当てられ、周囲にいた野生のαや、理性を失った輩たちが、濁った目をギラつかせて朝陽の元へとじわじわと集まり始めていた。 「おいおい、なんだこの上極上の匂いは……」 「男……? いや、関係ねぇ、こんな美味そうなオメガ、見たことねぇぞ……」 ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、朝陽に手を伸ばそうとする男たち。 「やめて……来ないで……っ、碧空くん……助けて……っ!」 朝陽はお腹を庇いながら、涙ながらに絶叫した。 「――俺の朝陽に、その汚い手で触れるんじゃねぇえええええ!!」 地響きのような咆哮と共に、碧空が道路を跳び越えて割って入った。 碧空の全身から、周囲の空気を一瞬で凍りつかせるほどの、圧倒的で冷徹な『最上位α』の威圧フェロモンが解き放たれる。 「ひっ……!?」 「な, なんだこのアルファ……格が違いすぎる……っ!」 近寄ろうとしていた輩たちは、碧空の放つ圧倒的な「死のプレッシャー」に気圧され、恐怖でガタガタと震えながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。 「朝陽! 朝陽、大丈夫か!?」 碧空はすぐさま朝陽の元へ駆け寄り、その細い身体を壊れ物を扱うように優しく、けれど絶対に離さない強さで抱きしめた。 「碧空……くん……。ごめん、なさい……。お腹の、赤ちゃんが……っ」 朝陽は碧空の胸に顔を埋め、痛みに耐えながら必死に訴えた。 「お前のお腹の子供は……俺の子だ。誰が何と言おうと、半年前のあの日から、お前は俺だけのオメガんだよ、朝陽!」 碧空は朝陽の額に優しくキスを落とすると、彼をひょいと横抱き(お姫様抱っこ)に抱え上げた。大きくなったお腹に負担がかからないよう、細心の注意を払いながら、力強い足取りで病院へと走り出す。 「麗香! 親父! 朝陽が産気づいた! すぐにオペ室(準備)をしろ!」 碧空の怒号のような無線連絡に、病院内が一気に臨戦態勢へと突入した。 朝陽がストレッチャーに乗せられ、慌ただしく分娩室へと運ばれていく。バタン、と重い扉が閉まり、赤い『手術中』のランプが灯った。 扉の前で、碧空はただ呆然と立ち尽くしていた。自分の白衣はどこかで脱ぎ捨て、両手は朝陽を抱きしめた時の熱さで震えている。 「……親父、一体どういうことなんだ! 朝陽は男だぞ……? なんであいつが子供を産むなんて、そんなあり得ないことが……!」 廊下の奥から足音を響かせて現れたのは、橘総合病院の院長であり、碧空の父親である厳だった。厳の表情は、病院を率いる男として、すべてを知る者として、冷徹なまでに冷静だった。 「落ち着け、碧空。……お前にまだ話していなかったな」 厳は静かに、だが重みのある声で告げた。 「朝陽くんは、ただのα(アルファ)ではない。極めて稀な確率で後天的に性別が反転する、変異体Ω(オメガ)――通称『Mα』だ」 「変異体……Ω……?」 自分の耳に飛び込んできた言葉が理解できず、碧空は息を呑む。 「半年前のあの夜、お前の強大すぎる最上位αのフェロモンに宛てられたことが引き金なのは間違いない。……だがそれだけではない。朝陽くんがそれまで密かに服用していた、高橋(倫央)のあやしげな『新薬』……あれが彼のα遺伝子を異常活性化させ、結果としてΩへの変異を爆発的に促してしまったようだ。倫央の薬による肉体的な変異と、お前のフェロモンという精神的・本能的な衝撃――その二つが最悪の、いや、奇跡のタイミングで噛み合ってしまったんだな」 厳の言葉が、碧空の胸に鋭い楔(くさび)のように突き刺さる。 その薬を朝陽に手渡し、あえて碧空に黙秘していた倫央の意図はどこにあったのか。親友への複雑な感情が過るが、今はそれどころではなかった。朝陽を深く傷つけたと思っていたあの瞬間に、朝陽の身体は自分だけのものになり、密かに新しい命を育み始めていたのだ。 (朝陽……っ、頼むから無事でいてくれ。今度こそ、俺が一生をかけてお前を幸せにするから……!) 碧空は固く拳を握り締め、ただひたすらに、愛する人と我が子の無事を祈りながら、分娩室の扉を睨みつけるように見つめ続けた。 ――それから、どれほどの時間が経っただろうか。 永遠のようにも思える静寂を破り、分娩室の重い扉の向こうから、一つの小さな、けれど力強い生命の産声が響き渡った。 「――オギャー! オギャー!……ッ」 張り詰めていた廊下の空気が、一気に歓喜へと塗り替えられる。 「……っ、あさ、ひ……」 碧空の目から、堪えきれずに熱い涙がボロボロと溢れ落ちた。 生まれて初めて流す、安堵と、愛おしさと、感謝の涙だった。男の手で顔を覆い、碧空はただ、無事に我が子を産み落とししてくれた愛しいオメガの存在に、心からの祈りを捧げるのだった。 2.最高のハッピーエンド(結婚式) 激しい嵐のような夜を乗り越え――橘総合病院の最新医療チームと、厳先生の完璧なサポート、何よりも碧空の命がけの付き添いによって、朝陽は無事に、碧空にそっくりな元気な男の子を出産した。 あの日の「婚約」の誤解も、麗香が直々に朝陽の病室へ突撃し、 「おいおい、私に男の趣味はねぇって言っただろ! 碧空のどこがいいんだか知らねぇが、末長く爆発しろ!」 と豪快に笑い飛ばしたことで、完全に氷解したのだった。 ◇ ――それから、数ヶ月後。 雲一つない、どこまでも高く青い空が広がる佳き日。 格式高い教会の控室で、朝陽は純白のタキシードに身を包み、大きな鏡の前に立っていた。 細いウェスト、白磁のような肌。あの日、命がけで碧空の子供を産み落とした朝陽の佇まいは、以前のような「儚い壊れ物」ではなく、どこか一人の母としての、最愛の男に愛され尽くした者としての、芯のある美しい強さを湛えていた。 「兄さん、本当に綺麗だよ」 ドアを開けて入ってきた弟の蒼汰が、少し目頭を熱くしながら微笑んだ。その腕には、碧空と朝陽の愛の結晶である、すやすやと眠る可愛い赤ん坊がしっかりと抱かれている。 「ありがとう、蒼汰。……僕、本当に幸せになっても、いいのかな」 「何言ってるんだよ。兄さんは世界で一番幸せにならなきゃダメ。……さあ、碧にいいが首を長ーくして待ってるよ」 朝陽は蒼汰に背中を押され、ゆっくりとチャペルの扉を開けた。 ステンドグラスから差し込む、七色の美しい光のバージンロード。 その先で待っていたのは、同じく純白のタキシードを完璧に着こなした、橘碧空だった。 碧空の瞳には、かつて朝陽を縛り付けていた歪んだ執着や焦燥は、もうどこにもなかった。そこにあるのは、ただ目の前の愛しい存在を、生涯をかけて愛し、守り抜くという、揺るぎない、深く穏やかな慈愛の光だけだった。 一歩、また一歩と、碧空の元へと歩みを進める。 (もう、逃げない。この手を、絶対に離さない) 碧空の前に辿り着いた朝陽の手を、碧空はそっと、力強く包み込んだ。 「朝陽。綺麗だ……。世界で一番、俺の自慢の番(つがい)だよ」 「碧空くん……。僕を、見つけてくれてありがとう。愛してる……」 誓いの言葉を交わし、二人は静かに唇を重ねた。 それは、過去のすべてのすれ違いも、切ない涙も、すべてを琥珀色の甘い幸福へと変えていく、永遠の約束のキスだった。 参列席の最前列では、厳先生が「うむ!」と満足そうに深く頷き、麗香が「ひゅ〜っ! ごちそうさまでした!」と誰よりも大きな拍手を送り、倫央が「やれやれ、これでお前らの薬(のろけ)に付き合わされずに済むな」と、嬉しそうにグラスを掲げていた。 鳴り響く祝福の鐘の音と、温かい拍手の中。 碧空と朝陽は、愛する我が子を抱いた蒼汰と共に、光あふれる未来へと、しっかりと歩み出したのだった。 (――完――)

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