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第9話

 新しい職場で働き始めると生活リズムが変わる。慣れるまで心身共に疲れるものだが、精神的負担は意外に軽かった。  今日も「早く行こう!」と急かす双子を保育園に送ってから、穏やかな空気に満ちた職場に入る。カフェのようなオフィスで人に淹れてもらったコーヒーを口にすると、ホッと一息吐けた。 「ひとつ仕事を任せたいがいいか?」  朝礼が終わってから天黒が言った。 「はい!」 「では、まず、ログインして『相談記録フォルダ』を開いてくれ」 「はい」 「その中の……、あぁ、それだ。それを開いてみてくれないか」  指示に従ってフォルダを開くと、英語名の文書ファイルがズラリと表示された。 「土地活用についての相談だ。これの日本語訳を作って同じ場所に保存して欲しい。ファイル名は英語名の後ろに『訳』と付けてくれ。本社と情報共有する時に使う」 「分かりました」 「急ぎで頼みたい」 「はい!」 「一件、訳し終えたら見せてくれないか?」 「分かりました。では、こちらの訳が終わったらお知らせしますね」 「あぁ、頼む」  仕事を任された――。  その事実が嬉しくて、南月は心の中でグッと拳を握った。  教えを乞うばかりでは「自分は足手まといで邪魔なのでは?」と思えて心が折れてしまうものだ。 「……やりましょう!」  小さな声で自分を鼓舞すると、早速取りかかった。  内容は、本社が受けた外資系の企業からの相談だった。所有する土地を分割して複数の日本企業に譲渡しようとしているものの、話がうまく進まなくて仲介役を依頼してきていた。  本社の担当者は英語が苦手だったのだろう。メールの遣り取りの中で齟齬が生じているのが見て取れた。まず、全文を訳してファイルにしてから、進捗状況と留意点・問題点をまとめたテキストファイルを添えた。指示された場所に保存してから、そっと席を立つ。 「……社長、訳した物を見てもらえますか?」  パーティションの脇から遠慮がちに声をかけた。左手で顎の辺りをさするような仕草をしながらパソコンの画面を注視していた天黒がチラリと視線を寄越し、小さく頷いた。  社長のチェックが始まる。  南月は自分の席に戻って声が掛かるのをじっと待った。次のファイルでも見ていればいいのだが、なんとなく落ち着かなくて、チラチラと天黒の方を見てしまう。  そんな南月の様子を横目で見ていた永江がフフフと小さく笑みを漏らした。 「速いわねぇ! さすが、TOEIC九百点越え! 翻訳もサラサラできるって凄いわ」 「い、いえ。今の文は思ったほど専門用語が出て来なかったので……」 「それなら大丈夫よ。はい、チョコをどうぞ。頭を使ったら食べなきゃ」 「ありがとうございます。いただきます」  永江の引き出しからは色々なお菓子が出て来る。今日出て来たのは、カラフルな包み紙がきれいな丸いチョコだった。ちょっと大きめで、気分転換したいときに満足できるサイズだ。サクサクとした食感が癖になりそうだった。 「これ、美味しいです!」 「でしょう? 夜中のテレビで紹介されてたお取り寄せのお菓子なの。あんまりにも美味しくてリピしちゃったわ。双子ちゃんには教えちゃダメよ」 「ですね! これは内緒で食べたい味です」 「育児中の親には内緒のご褒美が必要よ」  永江のお陰で緊張が解れ、笑い合いながらチョコを楽しんでいるときだった。パーティションの向こうから天黒が現れた。南月は口に入れようとしたチョコを慌ててデスクに置いて立ち上がった。 「内容、大丈夫でしたか?」  手に汗を握ってしまう。心臓がバクバクと鳴っていた。じっと目を見詰められて拍動が更に速さを増した。間違ったところがあっただろうか。分かり難いところがあっただろうか。不安でゴクリと喉が鳴った。 「凄いな。よく短時間でこれほど分かりやすく訳せたものだ。全く問題ない。添えられたメモの内容も良かった。この調子で他のファイルも頼む」 「は、はい!」 「今のファイルを早速、午後に本社で使わせてもらおう。本社向けのフォルダにコピーを入れておいてくれ」 「分かりました」  席へ戻っていく天黒の背中を見送りながら、南月はホッと胸を撫で下ろした。同時に小さな自信が生まれた。  ポン、とチョコを投げ渡された。慌ててキャッチし、永江を見る。 「凄いわね。社長が一発でOK出すなんて見たことないわ。それ、ご褒美よ」 「え?」 「本社に居た時の社長のあだ名は『越えられない壁』だったのよ」 「越えられない壁?」 「そ。企画書とか提案書を最初に見せる相手が社長だったの。『内容以前に書き方から直せ』と言われた社員も数知れず。まぁ、社長のOKを貰えたら内容は確かなもの、って言われていたけど、そのOKが遠くてね。あの一か月で何人が泣いたことか」 「そうだったんですか……」 「その壁を一発で越えられたんだから、自信持っていいわよ! 続き、頑張って!」 「はい!」  翻訳と企画書では求められる内容が全く違うかもしれないが、それでも一発OKは嬉しいし、「余計かもしれない」と不安に思いながら作ったメモが認められたのは大きかった。 「頑張ります!」  南月は喜びが満ちた表情で仕事の続きに取りかかるのだった。

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