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夢中になるほど Side 悠

 北条悠が、初めて蒼を見たのは、九月の夏の暑さが抜けきれない午前中だった。  レストラン雪月花をオープンしてから一年経ち、なんとなく身体の調子を整えるために始めたランニングを日課としていた。いろんなルートを試して走っていた中で、たまたまもう少し距離を伸ばしてみようと見つけたのが、蒼の店の前の道だった。  信号待ちの時にその場で足踏みしながら何気なく見たほうに、サロンから出て客人を見送る蒼の姿があった。  紺色のエプロンを付けて、笑顔で話し、丁寧なお辞儀をしている姿に目が離せなかった。  何も特別なことはなかったと思う。ただ、蒼の姿に見惚れていた。  そしてランニングコースは、このサロンの目の前を通るというのが決まってしまった。  ランニング中、店の看板を見て、そこがネイルサロンだということを知った。  店の名前は『ロータス』扉や看板に水蓮が描かれ、店頭には、蓮をモチーフにしたランプが飾られている。  毎日、同じコースを走っても、必ず蒼をみることができたわけではない。小さな窓から、チラッと覗き見ても、見えるわけがない。それでも、たまに外にでてきた蒼を見ることができたときは、思わずガッツポーズを決めてしまうほどテンションが上がっていた。  悠のレストランは夜十一時閉店で片付けなど済ませ家に着くころは夜中の二時を回っている。いつも遅めの起床をし、お昼前にランニングをすることが多いが、今朝は昨日が定休日だったこともあり、目覚めた時間が八時だった。身支度を整えて悠は外へ出た。  今日は、散歩をしながらどこかで朝食でも食べようかと考えを巡らせていたが、この時間に多くみられる通勤、通学の人たちを見て足が止まる。  もしかしたら、あの人の通勤姿がみられるかもしれない。  思い立ち軌道をネイルサロンのほうへ修正した。  自分の住んでいる場所とネイルサロンロータスまでは一駅。ゆっくり歩いても三十分くらいだ。  ロータスに近づくにつれ、ソワソワして、視線もきょろきょろしてしまう。  そろそろ店が見えるところで、店から箒と塵取りをもった男が出てきた。  ――あの人だ。  ロータスの入り口が見える道路を挟んで向かい側にコンビニがあり、悠はそこに入り雑誌を手に取った。雑誌を読んでるふりをして外の様子をうかがう。  彼はロータスの前だけでなく、隣の呉服店の前の掃除までしている。呉服店から老婦人が出てきて、みかんを山盛り持たされていた。あたふたしている姿が可愛らしい。  不思議な気持ちだった。彼を見てるだけで、癒される感覚があった。  山盛りみかんを持ってロータスに入ったあと、すぐにでてきた。信号をわたりコンビニに近づいてくる。  悠はドキドキしながら自分の顔を雑誌で隠した。しかし、彼がコンビニに入ってきた感じはない。  慌てて外に出る。彼の姿が見えない。きょろきょろしていると、コンビニの隣にある花屋から笑い声が飛んできた。花屋の店員と彼が仲良く楽しそうに話している。  その笑顔に気持ちが和み、この笑顔が自分に向けられたものではいことに、胸がチクりと痛んだ。    レストラン雪月花では、開店準備の時間になり、スタッフが集まりはじめていた。フロアーでは、掃除、予約を確認するスタッフ。キッチンでは、悠を入れて3人のシェフが準備をしていた。  悠は、ある程度の仕込みを終えると、フロアーやバーカウンターへ目をくばり、スタッフに指示を出している。受付のカウンターに行き、今日の予約を確認した。 「今日の予約は五組です。週末以外は、割と余裕ありますよね。」  レストラン受付担当の前田夢が、情報誌を見ながら続ける。 「予約なしでいらっしゃるお客様も増えてきてるので、今は助かってますけど……ここ最近、いろんな店も出てきてるし、いつかは、こういう雑誌に掲載してもらえるのもアリかもしれませんね? 」  そうだな。と相槌打ちながら、夢が情報誌のページを捲っていくのを覗き見てると、ネイルの文字が目についた。  今朝ロータス前を通った時にみた看板を思い出す。 『秋は乾燥の季節。割れてしまった爪をコーティングで強化します。男性にもおすすめです』  自分の爪を見つめる。水仕事で、爪が割れ欠けていたのが気になっていた。  今に始まったことでもないので、ほおっておこうと思ったが、いい機会かもしれない。  それに……会って話してみたい。  予約はインターネットで済ませた。連絡先と名前の入力後、指名欄にスタッフ三人の名前が載っている。顔写真はなかったが、そのうち一人だけ男性ということがわかった。徳永とかいてある。指名ボタンで予約を完了した。こんなにドキドキしたのは初めてだった。    予約したのは悠の店の定休日。  時間ぴったりネイルサロンロータスに着いた。  店内は、白を基調にしたデザインになっていて、壁や棚にデザインされたネイルチップが飾られており、施術する机と椅子のセットが配置されている。  出迎えた人は、徳永蒼と名乗ってくれた。あの人だ。浮かれている自分がいた。  施術は丁寧で、無駄なおしゃべりもないし、居心地の良い雰囲気で、自分の家にいるような感覚にもなった。  図々しく同じオーナーなのだから相談に乗ってくれなんてことを言ってしまった。蒼の返事が詰まっていたようにも感じ、調子にのりすぎたと反省した。  初めてのハンドマッサージは、心地よく、すぐ近くで真剣な顔をした蒼が自分の手に触れていることに、なんともいえない興奮をおぼえた。一瞬、蒼と目が合った時に手を握ってしまい慌てた。蒼の顔が赤くなっているなと思って、その姿に胸がぎゅっと締め付けられた。  きれいにコーティングされた爪をみて、また会いたいなと思いながら家路についた。  それから割とすぐに悠の希望が叶った。蒼がスタッフの女性とレストラン雪月花に来てくれたのだ。 ホールスタッフがやる仕事を引き受けて、蒼の前に立った。  いつもと違う環境で見る蒼は、紺のエプロンがないというだけなのに、大人の色気が漂っている。  注文を取りに行く中で、蒼の表情豊かなことを知った。  一緒に来た女性が、蒼と一緒に働くスタッフの子で、なにやらホールを見回してコソコソ話したり、笑いあったりしている。仲が良いなと微笑ましく思う反面、少し胸がチクりとした。  お酒を出しに行ったとき、『おれは手フェチだ』と発言したテンション高めの蒼が新鮮で、こんな一面を知れたことに胸が高鳴った。  キッチンから蒼たちの席を垣間見ると、頼んだワインボトルをほとんど蒼が飲んでいるようだった。あまりにも夢中になって見つめていたからか、スタッフの夢と前田に「仕事してる?」 と言われてしまった。  お酒が好きなんだろうか……この後、バーのほうに誘ってみようか。  バーカウンターは、悠と高校生からの付き合いの前田純太が担当している。  酒を作るのが上手で、愛想がいい。話し上手で、聞き上手、時々調子にのって考えなしに余計なことをしゃべってしまうのが、たまにキズだが。長く親友をやっていて、信頼の置ける人間だ。  自分の店を出したいと一番最初に話したのも前田だった。高校を卒業して、経営のことを学ぶために大学に入った。その頃の前田はバーテンダーになるための学校に通い、あっという間にバーテンダーとして働きだしていた。 「店をやるなら、俺をバーテンダーで雇ってくれよ」  そう笑顔で言われたときは、前田の行動力と勇気を頼もしく思ったし、レストラン経営を実現させるんだという気持ちが一層高まった。  前田と蒼が、楽しそうに話している。  前田のように親しい友人に対して思う信頼や、好きといった気持ちと、蒼に対する気持ちが違うのは、なんとなくわかっている。  憧れ……なんだろうか。蒼に笑顔を向けられたいし、仲良くなりたい。  思い切って連絡先聞いてみるか。いや、自分の連絡先を渡そう。  自分の名刺をだし、名前の横に携帯電話の番号を書いて準備した。  一段落したところで、バーカウンターにある蒼の隣へ近づく。 「純太、お前なにはなしてんだ。余計なこというなよ」  隣に座り、 近くで見る蒼の顔は、お酒のせいか、目の周りがほんのり朱色に染まっていて表情も柔らかい。サロンで見る顔とは一味違うことに高揚した。  ずっと隣に居たいけど……心の中で地団駄を踏む。  早く肝心なことを伝えよう。  小さく息を吸い込み、意を決して名刺を渡す。受け取ってもらうだけでよかったのに、すぐに返事をくれた。しかも名前呼びを快く(?)承諾してくれた。  俺も恥ずかしかったけど、蒼さんも少照れているように見えたのは気のせいかな……。  閉店後、バックヤードに戻って自分の携帯電話を見て、にやにやが止まらなかった。  お互い仕事の時間帯も違うし、必然的にメールでのやり取りが多くなった。  ほとんどが悠からの連絡で、起業の時の苦労話や相談、今回新しくメニューとして出した料理、お酒の話しが中心だった。  蒼からは雪月花に行くという連絡のみで、来てくれた時は決まったカウンター席で食事やお酒を楽しんでいる。  悠は、自分の手が空くと蒼に話し掛け、時には隣に座って話し込んでしまうことがある。 「仕事に戻れ」と前田に文句を言われることもあった。  初めてネイルコーティングをしてもらってから三週間ほど経っていたので、そろそろメンテナンスの時期だし、蒼に聞いてみようかと思ってたところ、ふいに蒼から手を捕まれ、爪を見ながら聞かれる。 「そろそろ、爪も伸びてきたし、メンテナンス時期だね。どうする?」 「あ、えっと、明後日、定休日なんで。夕方大丈夫ですか?」  蒼は鞄から手帳を出し、予約時間を確認し、その日は六時以降なら大丈夫と教えてくれた。    ネイルのメンテナンスの日、悠は雪月花に来ていた。バーカウンタ担当の前田と受付ホール担当の夢、キッチン担当のシェフの二人とクリスマスのディナーについての打ち合わせだ。  クリスマスシーズン、昨年はサービスでケーキを提供するだけだったが、今年は、流行りのアフタヌーンティーをクリスマス一週間前から提供することにしようという提案をした。  皆の反応も良く、メニューも問題なく決まっていく。  よし、今日はこれで終わり。早く蒼の元に行けると浮き足たっていた時に、夢からの一撃があった。  「悠、ここ最近、ボーっとしていることが多い気がする。この前の新メニューを蒼さんにだしちゃったやつ。あれ、予約のお客様分の材料があったから良かったものの、あれは危なかったと思う」  あ、あの時のか……。たしかに、あれはヤバかった。新しいメニューを蒼にも食べてもらいたくて、確認もぜずに出してしまったのだ。  予約のお客様分がギリギリ残っていたから、滞りなく済んだが。一瞬、キッチンがバタついて。焦った。  常日ごろから、スタッフで共有することを約束していたのに、自らがそれを破ってしまった。 「ああ、あれは、たしかに俺が間違ってた。ごめん。」  大きなため息をついて夢が続ける。 「蒼さんも大事なお客様だし、お友達かもしれないけど、平等に見ていかないと、オーナーなんだから」  オーナーのくせに、こんな当たり前の指摘をされて情けなくなった。確かにここ最近の俺は、集中していない。それはわかっている。原因も。  蒼を前にするとおかしい。特別扱いしてしまう。時間を忘れてしまう。大事なお客様……平等に……大事な人……。  考え込んでいる悠を見て、何かを察したように夢が続ける。 「悠、何か相談があるなら話して、皆んな、あなたを信頼してるから」  夢は近所に住んでいた四歳上の幼馴染で、実家の店には家族そろって来てくれることがあって、小さい頃からよく知っていた。  学校を卒業してホテルのレストランで働きだし、忙しくしていたみたいだが、たまに会った時に話してくれるレストランのことは、とても刺激になったし楽しかった。『こんな話、聞いて楽しい?』と揶揄されたこともあったが、話してくれる内容は、客との接し方、満足のいくものを提供すること、対価が支払われるということ。  お店で働くという難しさを教えてくれた。実際身をもって知ったのは、働き出してからだけど。  雪月花をオープンするとなった時、夢の方から一緒に働きたいと言ってくれた。前田もそうだったが、失敗するかもしれないことに人生を掛けてきてくれた事が嬉しかった。  信頼されているのだ。しっかりしないとな。悠は姿勢を正して、頭を下げた。 「ありがとう。これからもよろしくお願いします」  その言葉を受けて、前田が悠の肩に手を乗せた。 「これからも良いレストランにしていこうぜ」  良い仲間をもった。経営者として実現できたこのレストランを守っていかないと。  ネイルサロンロータスの扉を開けると、蒼が、いらっしゃい。と、にこやかに声をかけてくれた。  今日はもうスタッフは帰ったので、気楽にしていいよ。と言い、いつもお客様を迎えるルーティンの荷物や上着を受け取るために近寄ってきてくれる。  思わず、蒼を抱きしめていた。無意識だった。蒼の柔らかな髪が鼻腔をくすぐる。 「ど、どうした? 大丈夫か?」  肩越しに聞こえる蒼の言葉に、我に返った。ごめんなさい。と言って引き離す。  戸惑いながら見る蒼の顔は、少し朱色がかっていたが、いつもの冷静さで席に案内してくれた。  切れ長の目元は落ち着きをもっていて、真剣に爪をみる視線は職人のプロの目だ。かっこいい。 「ではメンテナンスしますね」  いつものように丁寧に手をもち、施術に集中する。  コーティングされている親指の伸びたところを切り、ジェルを落とす為の薬剤をコットンにつけ、それを親指に巻いていく。  他の指の甘皮を整え、伸びた爪にやすりをかける。爪が削られ均等な長さになっていく。あっという間だ。  「蒼さんは仕事でミスしたことありますか?」  少し間をおいて、思い出すようにゆっくりと話してくれた。 「ミスというか……オープンしたての頃、ネイルチップのデザインがお客さんの要望と合わなくて、発注をキャンセルされたというのはあったよ。それがきっかけで、そのお客さんは、離れて行ってしまったけどね」  目が合った蒼は、小さく息をついて、寂しそうな目をしている。  なんとか励まそうという衝動に駆られたが、今さっき情けない失敗をスタッフから指摘されたことを思い出し、今の自分には、何が言えるだろうと歯痒さで目を伏せた。  そんな悠の顔色を伺うように少し下から覗き込んできた蒼と目が合った。 「でもね、失敗があるか今があるし。離れてしまうお客さんに対しては残念だけど……ネイルが好きで、この世界に入ったわけだから、いろんな覚悟を決めてやっていってるよ。今はスタッフの支えもあるし、長くこの店を続けられるように頑張んないと。って思ってる」  そう言い終えると揶揄うように失敗しちゃったの? と問われた笑顔にドキリとする。  自分が励ましたり、アドバイスしたりできる余裕のある人間になりたい。  蒼に頼られたい。  親指に巻かれたコットンを外すと、コーティングされていたジェルがぐにゃりと柔らかくなり、ドロッとしていた。そのはっきりとしない形態が、まるで今の自分の気持ちみたいだ。  俺は、どういう人間になりたいのだろう……蒼さんからは、どう映っているのかな……。  俺のことどう思っているかな。いきなり抱き着いたのに、なにも聞かない。なにも思わないか……。  割れていた爪は、ジェルとともに伸び切り、あらわになった自分の爪は、元通りになっていた。  最後にその親指にやすりをかけ、仕上げにかかる。その様をみて、ひどく寂しい気持ちになった。  もう、こんな風に触れることはできないのか……。  マッサージの終了とともに、蒼の手を握った。 「思わず抱きついて、すみませんでした……びっくりしましたよね」  蒼の頬が赤く染まっている。そしてはにかむように答えてくれた。 「……は、ハグって、ストレスを八割くらい軽減してくれる効果があるんだって。テレビで、誰かが言っていたようなきがするよ……だ、だから問題ないよ」  そう言った後、顔を下にむけたまま上げてくれなかった。この愛らしい人のいろんな顔をみたい。  家へ帰る道を歩きながら、蒼に対する気持ちと、これからどう向き合っていこうかと思いを巡らせていた。  学生の頃から、割と人から好かれていて、クラスでも友達に囲まれていることが多かった。  でも、自分自身は人付き合いに興味がなく、誰かの付き合いで部活に入るとか、女子から告白されても、特に嫌いではなかったからという理由で付き合った。  自分が一番興味を抱いていたのは、食べること料理をすることだったから、付き合った女子からは、すぐにつまらないとフラれた。そのたびに、前田からは、『黙っていればモテるのにな。話すこといつも同じだもんな』と残念そうに言われた。  今は、レストラン雪月花と同じくらい、もしかしたらそれ以上に蒼に夢中だ。  蒼は何が好きなんだろう? 食べ物も、音楽も、テレビ番組も、もっと知りたい。一緒に出掛けたい。蒼のことばかりを思いうかべていた。

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