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第1話

 会社と言うものは誰かが忙しく働いているのに、他の誰かは暇を持て余していることもままある話だ。樫本ミツル(かしもと みつる)は、デスクで大きく伸びをしながら回りを見渡すと出入り口のボードを見た。 「野木は……」  外出か。あいつ昼も帰って来なかったな……。  営業なので仕方ないが、ここで直帰と書いてあったらちょっと泣いたところだ。 奴とは昨日宅飲みした仲だ。同期ではない。同業種でもない。ただの後輩だ。会社が小さくて事務も営業も同じ箱に入れられているので自然と親しくなった。 「樫本。暇してるなら明日の会議資料作ってくれ」 「はいはい。俺、今暇してるんでコピーに勤しみますよ」  言ってきたのは二つ先輩の剣正道(つるぎ まさみち)だ。イケメンだが逆らうと嫌と言うほど尻をキックされるので、ここはおとなしく言うことを聞く。 「肝心の資料は出来てるんですよね?」 「当たり前だろ。ほらこれ、五部作ってくれ」 「五部、ですか?」  いつもより一部多いのに首を傾げると剣が「ああ?」と嫌な顔をしてきたので、それ以上は聞かずに窓際のコピー機に移動する。これで一時間くらいは使うだろうから終業時間まで一時間。  ここはちょっとゆっくり作ろうかな。  時間調整をしながら紙の補充をして資料を作り出す。内容は作っていれば嫌でも目に入ってくるが、樫本は拘わっていない案件だったので、深く考えることはしなかった。  時間調整をしながら気持ちゆっくりと資料を作る。その間に野木が帰って来ないかな……と思いながらもそうそう拍子良く行ってはくれなかった。 「資料出来ました」 「ああ。ご苦労さん。お前……暇なら今日付き合えよ」 「は? 何にですか?」 「酒だよ、酒。いい女が入ったから見に行こうや」 「はぁ……」  今までにもそんなことはあったが、多分機嫌がいいんだろうと察する。ここはおとなしくついて行ったほうが得だと判断すると、背中を向けながら見られないように小さくため息をついた。  俺、昨日飲んだばっかなんだけどな……。 〇  終に野木は終業時間になっても帰っては来なかった。 たぶん粘り強く営業しているのだろうが、それもこれも現時点で最下位なのが影響しているのだろう。  昨日もそれで慰めるための宅飲みだったのだから。 めげてないのが救いなだけで、いつ「俺、辞めますっ」と言われるか気が気じゃないのも確かだ。 「樫本。お前、あいつどう思う?」 「誰ですか?」 「野木だよ、野木。ここ数か月成績悪いんだろ?」 「ぇ、ええまあ……」  ああこの人も気にしてるんだ……と思うと、ちょっとだけ人間っぽさを感じる。 「このままだと辞めるって言いかねないから、お前から部署替え提案してみたらどうだ」 「ぇ、俺がですか?」 『何で自分で言わないんだよ』と思いながらも『あれ、この人結構優しいんじゃないだろうか……』とも思ってしまう。  そんな話を新しいお姉ちゃんが入ったというバーでされて、注がれた酒を飲んでもそんなに美味しくないと言うものだ。どうせなら純粋な気持ちで女の子と語らい酒を飲みたかった。 〇  数時間、会社の愚痴とか聞かされて店を出る。 心地良い気分のまま二人して駅に向かって歩いていると、急にググっと横に押されて電柱に背中を押し付けられたと思ったら抱き締められた。 「ぇっ……ちょっと、剣さん。大丈夫ですか?」 「……」 「あのっ。俺、女の子じゃないですよ?」 「……今ちょっと、抱きたい気分なんだ」 「ぇっ……でも……」 「いいから、ちょっと黙ってろって」 「ぁ、はい……」  何がなんだかよく分からないが、とりあえず言われるままにおとなしくしている。おとなしくしているが、いかんせんここは歩道。  まだまだ終電には時間があるし、駅までの道だから案外人通りはあるしで、ちょっと気恥しい。でも今これを無理に引き剥がしてしまうと、また後でグチャグチャ言われそうだから動かないでおくことに決めた。しかしギュッと抱き着かれるまでは良かったが、しばらくするとその指先がサワサワと体を這っているように思えるのは気のせいだろうか……?  ちょっとドキドキしながら「あのっ……」と言ってみるが、その手は止まらなかった。 「剣さん」 「黙ってろって言っただろ」 「でもっ」 「俺が今そうしたいって思ってんだからさせろっ」  反論する間を与えないようになのか違うのか、ブチュッと唇を重ねられると無理やりキスをされた。 「んっ! んんっ! んっ!」  抵抗しようと藻掻けば藻掻くほど舌先の絡まりが深くなり動けなくなるし不安になる。 「んっ! んんっ! んんんっ!」 「ったくよ。黙れって言ってんだよ」 「なっ……何でこんなことっ!」 「ぇ、そりゃやりたいからに決まってんだろ」 「だから俺、女じゃありませんって!」 「そんなこと見りゃ分かるってんだよっ! だけど、どうしてもちょっとなんかさ……」  とたんにしどろもどろになるのを見て、樫本は訝しげに首を傾げた。 「……」 なんで? 「だってお前、野木ばっかじゃん」 「はっ?」 「確かに野木は可愛いよ。頑張ってるの見てると俺も後押ししてやりたいってなるよ。なるけど!」  それから先が続かなかった。 「……」 ……んっ? 「そういうの、察しろよっ!」 「ぇ、何を?」 「だから!」 「えっ?」 「だからっ!」 「……んーーーっ。ん。んっ?」  目の前で顔を赤らめてそっぽを向く相手を見ながら考える。でもまさかね。と思ってみるけど、考えてみればこのイケメンにしこたまケツを蹴られるのも自分だけだし、酒に誘われるのも自分以外見たことがない。時々こうして優しくされるのは、つまりはそういうことなのか? と思ってみたりする。 「いや、でもまさかね」 「そのまさか、言ってみろよ」 「いや。いやいや。それは剣さんが直接言ってくださいよ。俺、そういうの自信ないし」 「言ったら叶うんなら言うが、そうでもないなら言ってもしょうがないだろう?」 「そう言われましてもね……」  信じ難いことに直面すると人はそれから目を反らしたくなる。 樫本は今、どうしたら正解なのか。自分の気持ちはどうなのかを唸りたい気持ちで考えていたのだった。 終わり 20260612

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