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金露を宿す(六)

 庭一面の、白玉の蕾と、(ひら)いた茉莉花(まつりか)の白い花だった。  その強烈なにおいに目が眩み、無乃(ウーナイ)は咽せかけて困惑した。綾絹の扇をゆったりとあおいでいるのは、寧太丁(ニンタイティン)。その傍で穏やかに瞼を伏せる、無乃である。  無乃ら三人は明け方過ぎになってようやく綾風渚(りょうふうしょ)へ戻ってきて、宿屋を兼ねた飯店で眠い目を擦りながらゆっくりと粥を食べ、羅冴流(ルオフーリウ)と崩れるように睡眠をとった。目の下に濃い隈をこびりつかせた小来(シャオライ)がたずねてきたのはそのすぐ後だった。  戸を開ける羅冴流の背後では、無乃が溶けきった氷のようにずるりと寝台から転げ落ちている。  小来さえ寝不足をおして来ているというのに、全く起き上がらないそれを冷たく一瞥すると、この店の主人が寧家の大旦那で、息子がその太丁であると告げたのだ。屋敷は宿屋の裏にあるので今すぐ来てくれという話しだったが、無乃は起き抜けに聞こえてきた小来の話しに、にこやかに首をかしげた。  まさか、寧太丁の宿としっていて、羅冴流がここにとまったわけではないだろうな? どうにもうまく転がされているようだ。  そんな疑惑がひょっこりと芽生えているのだった。  寧太丁には妾に逃げられた他に妻もいないという。  寂しい寝室だといって藪医者を通す小来に続いていくと、到着を待ちわびていた寧太丁が無乃を見て大急ぎで立ち上がった。目当ての人物を目にして挨拶もなあなあに椅子へ進めようとして、はっと息を呑む。天地のひっくり返るほどの美貌が目の前にあったのだ。まさに心臓が止まるほどの衝撃であった。宇宙も貫くほどの感動も束の間、予期せぬ人物を目にしてひどく取り乱した。  「おや、もしかして、そ、その出で立ち……あなたは荷華幇(かかほう)の、」  と寧太丁がそこまで口走ったとき、羅冴流が咄嗟に鋭い眼差しで口止めした。 「我氷津(ウオピンチン)だ。どうも、初めまして」  次に驚いたのは無乃の方である。羅冴流の適当な挨拶に目を瞬いて、何を言っている? と怪訝な表情を作る。こっそり腕をたたき、どうして嘘をつくのだと声をひそめる。 「君は我ではなく、るお……ふぐ、」 「黙っていてくれ、無乃」  穏やかな口調の羅冴流に口を塞がれ、無乃は一瞬呆気にとられた。寧太丁をそっと目にして、再び羅冴流を見つめる。その瞬間、寝不足に輪をかけ、頭をぼんやりと鈍らせる花の匂いに高速回転していた思考がふとずるっと滑る。ああ、そういうことだねと閃いた気になっていう。 「君も、どうやら追われている身のようだね」 「そういうことに、しておいて」  意味ありげに微笑む羅冴流だった。 「そ、それで、無乃先生、太丁さまの症状なのですが……」  その親しげな二人の様子に小来が慌てて会話に割り込んだ。  寧太丁の症状をさあ言うぞ、と意気込むのだが、やはり目はうろうろと当てもなく泳ぎ、口はぱくぱくとさせるだけで肝心な説明は一切できずじまい。無乃はそんな小来に軽く手のひらをみせ、わかっているよと微笑む。何も分かってはいないが、口ごもる小来に任せていても何も進まない。  けれど悩ましげに唇に指をあて、寧太丁の困りごとを探ろうと向こうに視線をやる。茉莉花の茂る庭の先に、ぼんやりと楼台が浮かんでいた。花の香りにかすむ楼台の窓際を人の影が立ち上がり、さっと窓の向こうへ歩いて行ったように見えたのだ。  それを熱心に見つめていた無乃の目元のほくろに、寧太丁が心狂わされるような湿っぽい息を吐いた。 「やはり、噂はあてにならない。悪逆無道の無乃が、これほどの美貌をお持ちとは」  その気色の悪い吐息に虫唾が走ったのは無乃にとって初めての感覚だった。一体この気味の悪さはなんなのだと、飛び退きたい衝動をひしとこらえ何食わない顔で微笑む。  おさえる手の下ではぞわあと鳥肌がたち、「ちょっと近いかな」、と寧太丁を見ようとしただけで頭皮が浮く様な独特な不快感に苛まれた。最早彼の姿を視界にいれるということは、目にしたくないあの虫を見るのと同じ事。つまり彼は、足がおびただしく生えて不気味な目と体毛をもつ、あの虫と同じなのだと無乃は気づいてしまった。 「……病状を、あなたの口からお聞きしてもよろしいですか。夜の方が少しと、小来はいっていましたが」 「ああ、それか。先生が治してくれると小来から聞きました。あまり心配はしていませんよ」  寧太丁は二十歳ほどの青年だった。小来を視線一つであれやこれやと使わせて、こそこそと二人で耳打ちをしている。無乃がどんな病でも治す医者だときいていた彼はいぶし銀のような老師を想像していたのだろう。  贅沢に侍女をそろえて待っていたようだが、やってきたのが年若い同い年ほどの青年だとみると途端に態度をかえた。  侍女は皆下げてしまうし、小来にも人払いを頼む始末だ。残った羅冴流をどうしようかという様子で、彼は長椅子にふんぞり返り、片足を膝に乗せてどこか傲慢に顎を揉んでいた。 「大体、人の病というのは心の状態も密接に関わってくるものです。私の手をとって」  そして無乃はそんなことはお構いなしにさっさと終わらせてしまおうと治療にとりかかった。寧太丁に手を差し出し、そこに重ねるようにいう。寧太丁は喜んで手を強くにぎった。そして何やらその爪の形や肌の張りを確かめるように指を動かしてから、 「あなたのような綺麗な人に触られると、落ち着かないな」  と照れたようにいうのだ。ぞ――と怖気を走らせた無乃は崩れ落ちそうだった。 「……脈が速いのは、そのためかな。随分、健康そうだ。もう離して構わないよ」  力なくいう無乃に、寧太丁が大きく身を乗り出す。茉莉花の花のにおいがぶわりと押し寄せた。 「無乃先生、こんなに心臓が痛いのははじめてだ、胸も、よく見て欲しい。あなたに触れられるとどうしてだか――」  触れているのは主に、寧太丁だ。手を離さないのも、寧太丁。  無乃は嫌悪感をこらえてそれをいつものようにやんわりと伝えようとした。 「手を、離せって……」  けれど引いても振りほどこうとしてもびくともしない。迫り来る寧太丁の顔を無意識に叩こうとして、 「それなら、俺がかわろう」  羅冴流がにっこり笑って寧太丁の手をむしり取り、複雑に顔を歪める寧太丁にもう一度にこりと微笑む。 「無乃にみてほしいやつは、大勢いる。一人にさける時間はあまりない」  大きく息を吐き出した無乃は目眩をおさえてぐったりとした。 「……は、肌の状態をおしえて、る――我氷津。できれば、口の中をみてほしいんだけど」   気が動転していたために危うく羅冴流と呼びそうになって、慌てて言い直す。  どっと疲れ果て、卓の上にもたれかかった。 「これほどやりにくい患者に出会ったのは、初めてだよ……」  無乃に手を握られた羅冴流がいやがるのも、こういうわけか。もう二度とあんな真似はしないぞ、と盛大に誓い、大粒の汗を拭うと無乃は気を取り直して微笑を浮かべた。 「それで、妾はどうして出て行ったのかな」  羅冴流に嫌そうな顔を向ける寧太丁がぶっきらぼうに応える。 「精力的じゃ、なかったからですよ。大体親が見つけてきたどこかの娼妓で、確かに顔はこの町一番の美人でしたけど、好みじゃないんですよ。私に一言もなく故郷へ帰ったと聞きました。そこには相思相愛の男がいるそうで」  無乃は午後のやわらかい光りが射し込む部屋に、そっと瞼を伏せた。目の色が違うことを、あまり人に知られて蒸し返されるのは鬱陶しい。それにうまく見えないのだからじっと見ようとするとまるで睨んでいるような顔になるらしい。何度か余計な問題を起こしていたから、無乃はなるべく瞼を伏せるようにしている。  しかしそれほど、人相の悪い顔つきをしているとは。 「……男の私にも迫るくらいなのだから、君はもしかしたら美人な子よりは、醜い男が好きなようだ」 「……え?」  寧太丁の理解が追いつかないというような顔。それを見て無乃は息を吐いた。 「試してみる必要があるね」 「試す? あなたが試してくれるんですか?」  打って変わって目を光らせる寧太丁に、何を想像しているのかしらないが、と無乃はもう一度息を吐いた。 「つまり君の病は、女性相手におこるもので、娼妓の妾が傷ついてこっそり故郷に帰るほどだ。美人相手では営みの気合いが入らない。そういうことだね」 「……まあ、遠からずかな。情けない話しだからあまりおおっぴらにはしたくないんだ」 「今夜、るお――ではなく、我氷津と二人で過ごしてくれるかな。侍女だけでなく、この屋敷中に知らせてほしい。誰一人知らないということがないように。寧太丁が熱をあげるほどの人物がいると」  寧太丁が呼び戻した小来はそれを聞くとまた走って屋敷の隅々まで言いふらしたようだった。日が暮れるまでには我氷津とは誰だと屋敷中の噂になり、ついには飯店にまで我氷津の名前が漏れ聞こえてくるほど。やがて巨船の持ち主、我氷津の耳にこの噂が入るのは時間の問題であった。綾風渚内を一歩動くたびに寧太丁との仲を突っつかれ持てはやされていようとは、無乃にもまったく思いも寄らないことである。

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