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朱花に染まる(四)
湯船にお湯をそそぎ終えた無乃 は汗を拭った手で篭を引き寄せた。
陽炎がたちのぼる建物の裏、結びつくように重なり合う青葉の影が繁り、子猫がすぐ傍でやんちゃに転がっている。その様子はのどかで美しく、少し気怠い夏景色の一部のようでもあった。
無乃はいくつか薬になりそうなものがあったので、またせっせと篭の中を掘り出して、野菜の切れ端や屑を手の硬いところで擦り潰したり細かくもみほぐしたりした。
「張浮 、この野菜屑で身体を綺麗にするんだ。お湯からあがったら、君の足をどうにかしないと」
張浮 のうさんくさい顔が無乃を見ていた。お手製の薬湯を見おろし、少し臭うという手つきで湯気を払う。
「お前がどんな治療をするっていうんだ? 命を刈り取っているお前が。それに足なんてすぐに必要なくなる。このままでいい」
気づくと遊び疲れた猫が篭の中で眠っていた。それをちらっとだけ目にした張浮 がどこか気の抜けた顔をする。優しい眼差しにも見えたものだから、無乃はおっとりと瞼を伏せて首をかしげた。
どういうことだろうか? まさか本当に大切に飼っているわけではないだろうな。
それだったらやはり薄気味が悪い、と無乃は捲っていた袖を下ろし、手についた野菜の汁をぱぱっと拭った。
「足は必要だろう。特に君は盗賊だから逃げ遅れてしまうよ。それに浴びるなら同じ液体でもお湯の方がよほど清潔だ。もし錆びくさいのがいいなら、鍋でも持ってこようか」
眠っている子猫を胸の中に抱き入れて、無乃はにっこりとした笑みで振り返る。
「……ところで、張菫 に会わせてくれないか」
とろとろとした足取りで炊事場に戻ると見せかけて、のんびりと無乃は問いかけた。
妻の張菫 からも話しを聞こうと思っていたので、朝顔の部屋に白い棺だけが置かれていて無乃は落胆したのだ。蓋の隙間からは嗅いだことのない臭いがもれていたから覚悟もした。けれど中には生後半年ほどの子猫だけで、しかも名前は無乃ときた。人間の指を餌にしているというではないか。
それなら張菫 は一体どこに?
張浮 は無乃の問いかけに見たことのない薄黒い顔色をして黙っている。無乃はほとんど確信しているように、ふふと乾いた笑みを口元に浮かべ、答えにくいだろうなと構わず続けた。
「それと、張常 の二人の弟も姿が見えないね」
強欲で繊細な次男と、明晰な大食漢の末弟。二人の気配がこの家からはまるでしない。張浮 などという凡人な男の手にかかることはないのだから、おそらく出て行ったのだろう。
くわえて使用人の緊張感のなさも気になった。血を浴びたいなんていう化け物じみた張浮 より、会ったことのない無乃の噂の方を恐ろしがるのだから。もしかしたら誰も張浮 の病を知らないのではないか。
もしくは、病のふりを――?
けれどもしそうなら、老僧が人を掠って血を集めた説明がつかない。
……弱ったな。彼の考えていることがわからない。
無乃は悩ましく息をつく。
すると、悲痛な張浮 の声が、整理のつかない無乃の思考に鋭く斬り込んだ。
「あの女ならどこにもいない」
「いない?」
無乃は動揺をすっかり隠してしまいながら張浮 の恐ろしい顔色に微笑んだ。
「張常 が死に、立て続けに……」とあの娘が言っていたのを思い出す。それに彼のあり得ないほどの顔色の悪さ。目は泳いでいるし、冷や汗が額や首にまで浮き出ているではないか。
「君、さては張菫 を殺したね」
あの白い指。あれは女のものだった。無乃はまさか、その死肉を子猫に食わせているのではないかと考えたくもない想像に行き当たる。
死体を食う猫なんて恐ろしい。浮かび上がる疑念をかき消すように無乃は続けた。
「我氷津 の船を襲ったときは略奪をしなかったようだけれど、そんな肝の小さい君に盗賊の首領なんてつとまるはずがない」
きつい視線が鋭く無乃に向けられた。
「それも全て、お前の所為だろ、無乃。お前が張常 を殺したからこうなった。なのに俺の居場所はそこにしかない」
怫然とした張浮 の静かな怒りだ。張常 が死に、首領になるしかなかった張浮 の鬱屈とした苛立ちが無乃によって刺激されたらしい。
「張菫 を殺した理由はなんだ? 君と彼女は夫婦だろ」
「あの阿婆擦れと夫婦だと?」
小馬鹿にしたように鼻をならし、「誰があの女などと……!」低く唸るように叫ぶ張浮 は、怒りのあまり鬼のように眦を決して無乃に詰め寄った。
「義兄の頼みをどう断れって? 俺はあの人に命を救われてる。その恩をどうやって返せばいい!」
黒々とした憎しみに突き立てられ、臓物の奥深くから爆発するような怒りのままに無乃の襟首を引き掴む。その勢いに張浮 はハッと唾を吐き捨てた。
「あの女はあろうことか、義兄を愛して……!」
無乃は彼の口から飛び出た思わぬ言葉に耳を疑った。
「……張常 を、愛して?」
――二人は兄妹だ。
ならばそれを知らず張常 は張浮 と張菫 を夫婦にさせたのか?
「義兄も張菫 の思いには気づいていた」
「それでもなおかつこの俺を……!」重苦しく潰えていく張浮 の声が、なにかまだ裏に一幕ありそうだと予感させる。
張常 があれほどこの男に目をかけたのは、このこじれた関係に巻き込んだせめてもの償いだったのだろうか。
奇しくもそれが、二人の弟がここを去った理由になろうとは。
「張常 が死んで、弟二人は出て行った。元々俺の事を良く思っていなかったからな。残ったのは、首領を押しつけられた俺と、あの女だけ……俺が、ぶんどっただと? むしろ張常 に火傷を負わせたのはあの弟たちだ。俺はあいつらがいなくなって張菫 を殺すまでの間、お前の代わりに責められ続けたよ。兄をなぜ殺したのかと」
張浮 は張菫 を殺してもなおを憎んでいるのだ。
「なぜ張常 を殺した」、この一言に縛られるようにして。
張浮 が生きているのは最早、乗り移った張菫 の亡霊を見るようでもあり、全てのきっかけを作った無乃をただひたすら恨み続ける哀れな人のなれの果てである。
「無乃、協力するって言ったよな? もしまた逃げるつもりなら、一生消えない悪名をお前の身体に刻み、子孫累々と俺が語り継いでやる。お前の配偶者も、子孫もその子どもも、お前の血を継いで肉親となって生まれてきたことを後悔するほどにな」
張浮 は怒気に拳を震わせていた。その凄まじい憎しみをぶつけられても、無乃は「はあ」と心ここにあらずというように相づちをして、さて? と遠い場所に目をむける。口元に指を添えつつ穏やかに言った。
「もし私の配偶者が君だったら、どうするんだ?」
張浮 は大真面目な顔でそんなことを聞く無乃にすぐに頭が働かず、驚くほど一瞬、間がひらく。
ぎょっと、顔色を変えて飛び退いたあと「……なに? 俺が、お前の?」と理解すると、本気か冗談かもわからない涼しげな無乃に焦りだした。
いや、この男はからかっているだけだ。
張浮 は胸ぐらを掴んでいた手をまるで汚いものを触ったかのように腰で拭いだした。
その様子を無乃は笑みを浮かべておっとりと見ていた。
「それで、もしそうなったら、どうするんだい?」
「は?」と目を見開く張浮 が、脳内を整理する時間もなく問いかけられたので、これもまた問われるままに呆然と呟いていた。
「……そもそも子どもが、俺とお前の間ではできないだろ」
ふ、と無乃は噴き出しかけた口元を隠す。
「私の配偶者になるのは、構わないのか。君、押しに弱いだろ。だから器じゃないのに口車に乗せられて簡単に首領の座におさまってしまったんだよ」
「なに……?」
「こうなったのは全て君のせいだってことだよ。私でも張菫 のせいでもない。お湯、冷めないうちに入るといい。私は疲れたからどこか適当に部屋を借りるよ」
「俺のせいだと?」
怒りで逆立っていた毛髪を乱れさせたまま、張浮 は呆然と肩を落としていた。
「そうだよ、自分で選ぶこともせず、流されて盗賊団の仲間になった。どうして私が君の悲劇の原因になるんだ? 私だって張常 をどうにか助けようとしたよ。でも死なせてしまった。それを君たちのせいだとは思っていない。盗賊は嫌いだけれどね。あれほど体調が悪いと言ったのに引きずられたんだから」
憤然としたものがようやく凋んでいく張浮 に、無乃はしょんぼりと美しい眉を下げた。
「君のことは、だからあまり嫌いになりきれない。私を気にかけてくれたのは、君だけだ。病のこともさっぱりわからないけれど、もう少し時間をくれたら、どうにか解決策を見つけてみるから」
力の抜けきった張浮 を背に、無乃はふらりと廊下を歩いて行った。
強欲で繊細な次男と、明晰で大食漢の末弟。二人は張常 と張浮 の関係を知っていたのだろうか。もしそうなら、彼らはやはり明晰で強欲だ。張常 が目にかけていた男を首領にすえ、家を捨てる口実を得た。いともたやすく仲間との絆も切り捨て、彼らは兄弟二人きり、新しく盗みを働くことにでもしたようだ。
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