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第3話

 嘘か本当か分からないが、とにかく合格の可能性を高めたくて片っ端から資格を取った。元々、勉強が好きだったこともあるし、大学時代は勉強に没頭した。  お陰様で、誰もが知る大手上場企業・神統商事に就職できた。しかも入社試験では「期待の新人」とまで言われるほどの成績を修められた。満足できたし、就活は大成功だと思えた。  しかし、「気付いてしまった」のだ。  きっかけは、大学の寮からワンルームに越した一人暮らし初日。部屋を雑巾掛けし、汗と埃を落とすためにシャワーを浴びた時だった。 「バスタオルどこだっけ?」  濡れた体を小さなタオルでザッと拭いてから段ボール箱の山に駆け寄った時、足が滑ってしまった。 「うわっ!」  バフッと鈍い音がした。  倒れた先にあったのはベッド代わりに準備した「人を駄目にするクッション」だった。マイクロビーズが詰まったクッションは、変な体勢で倒れた体をしっかりと受け止めてくれた。  滑らかな肌触り。  クッションと接した部分がじわりと温かくなる感覚。  力を込めるとムキュッと飲み込まれていく柔軟性。  ほどよい弾力性とフィット感が同居する安堵感。 「……」  動けなかった。あらゆる束縛から放たれた状態で、優しく包み込まれる快感に気付いてしまったのだ。 「すっごく静かで……気持ちいい……」  これが、自由――。  裸で居ても何も言われない。  部屋が段ボール箱に占拠されていても、誰にも迷惑をかけない。  人目を気にする必要がなく、ただ、自分の都合だけで動くことができる空間。 「最高……」  独りの時間と自分だけの空間を手に入れ、人を駄目にするクッションの包容力を体験したあの日から「解放される快感」の虜になってしまったのだった。 (オフ時間は絶対だから……、配属先は……)  揺れ動く意識の中、希望をぼんやりと思い浮かべながら目を開けた。  朝だ。  飲み終えたゼリー飲料の容器やペットボトルを腕で端へ押し退けながら起き上がり、ベッドを降りた。  半身浴を楽しみ、ハナミズキの香りがするボディソープで気分を良くしながら身支度を調えると、午前八時を過ぎてしまった。 「えぇと……メガネ、メガネ……」  放り投げて行方不明になったメガネを探すのに苦労したが、通勤時間がゼロなので焦る必要はない。 「のんびりできる朝っていいなぁ」  ゼリー飲料をズズッと吸いながら床に散乱した書類とカードキーを鞄に入れた。靴をトントンとしながら部屋から出て、ドアが閉まる直前に咥えていたゼリー飲料の容器をポイッと部屋の方へ投げた。パタン、とドアが閉まる。 「……」  歩き出したものの、思い直して部屋に戻った。 「汚い……よね」  ホテルではないので、自分で清掃しなければならないことは分かっている。  足元のゴミを拾おうとした時、ペットボトルの蓋を踏んでしまった。 「痛っ!」  自分で仕掛けた地雷だ。一気にテンションが下がる。 「はぁ……」  床だけでなく、ベッドや枕の周り、テーブルの上はもちろん、バスルームの方にも色々な物が放置された状態だ。 「うん。分かってるんだけど……」  片付けないといけないのは分かっている。手近な所にあったゴミを幾つか拾い、ベッドの脇に寄せて部屋を出た。 「オフモードに入る前に片付ければいいだけなんだけど……ね」  そのスイッチの切替が思うようにできないのだ。  溜め息が止まらなかったが、もうすぐ研修が始まる。  スゥッと息を吸うと、背筋を伸ばして真っ直ぐ前を見た。  講義は八時半からだ。  すれ違うスタッフに会釈をしながら廊下を進み、大講堂に入った。  階段状の作りになっている講堂には既に多くの新入社員が集まっていて、後ろの方の席が埋まっていた。 「前かな」  前方の大型スクリーンが見やすく、速やかに退席できる席を選んだ。  座席にはQRコードが貼られていて、貸与されたタブレット端末で読み込むと出社手続きが完了する仕組みになっていた。実に効率的だ。  ふと、視線を感じた。顔を上げると、すぐ隣に拓野が居た。 「おはよう」 「お、おはようございます」  反射的に敬語で返事をした。  同期だし、知らない相手でもない。「タメ口の方が良かったか」と思ったものの、それほど親しいわけでもない。なんとも迷ってしまう距離感だった。 「……」  小さく咳払いをしてからタブレットに視線を戻し、配信されている連絡メッセージに目を通した。講義は一回九十分。午前と午後に二回ずつ。そして最後に四十五分間のワークタイムという構成だった。 「講義の最後に試問かレポートか。ちゃんと聞いておかないとな」  拓野の呟きが聞こえた。真面目なタイプらしい。それは悪く無い、と思っていると、講師が入って来た。ざわつく講堂に講師の声が響き、初日の研修が始まる。 「皆さん、おはようございます。今日は企業理念や社訓、就業規則の説明から始めて、労務の話をします。まず、タブレットを起動してください」  指示を聞きながらノートを取りだした。講師の話をメモするのだ。  左手でタブレットを操作し、右手でノートにペンを走らせていく。思いの外、進行が早くて集中力が必要だった。  研修中、講堂の出入りは自由だった。  スマホで話をしながら出て行く者も居たし、タバコを咥えて行く者も居た。コソコソとグループで出て行く者達も居たし、寝ている者も居た。 「意外に三者三様だな」  拓野がボソリと呟くのが聞こえた。チラリと視線を向けると、ペンで自分のこめかみを小突きながら眉を歪めているのが見えた。 「確かに」  同意しかない。  ここに居るのは国内トップクラスの会社に入社した者達だというのに、不真面目な者が少なくないのは驚きだ。まだまだ学生気分が抜けないのだろうか。正社員として入社すれば、簡単にクビにはならない、と踏んでの行動なのかもしれない。  今、まさに出て行こうとしているカップルに視線を走らせた後、講師の言葉に意識を戻した。  午前も午後も人の出入りは止まらず、特に午後は空席が目立った。どこでサボっているのだろう。そういう不真面目な者達が、自分と同じような採用試験をクリアしてきたと思うと、なんとも複雑な気持ちになる。  隣に居る拓野の存在が、どこか救いのように思えた。 「では、最後に今日の講義のまとめとして試問を行います」  講師が「全員のタブレットに問題を送る」と言った瞬間、講堂全体がざわめいた。焦りの声が多いところをみると、ほとんどの者が配信されているメッセージを読んでいないのだろう。 「二十問……」  送られて来たのは労働基準法と労働安全衛生法に関する選択式の問題だった。つい十分ほど前に講師が説明した内容で選択問題という易しい試問だった。 「よし!」  すぐに取りかかり、三分と経たずに終えると回答終了ボタンを押した。「採点中」と表示され、数秒で「全問正解。お疲れ様でした」と画面が変わった。顔を上げると、講師が頷くのが見えた。退席していいようだ。筆記用具を片付け、席を立った。 「マジ?」 「さすが。秘書課候補は頭の作りが違うね」  勝手な声が後ろの方から聞こえた。 (別に秘書課志望じゃないし。それに、違うのは頭の作りじゃないんだよね)  心の中でつぶやきながら外へ出た。無事に初日を終えた解放感が堪らない。 「お疲れ様」 「え?」  講堂から離れて自販機が並ぶところまで来た時、拓野に声をかけられた。自分よりも高い位置にある顔は端正で凜々しく、確かな存在感を伴う佇まいが印象的だ。 (色んな意味で『いい男』って感じ。もてそうだよね)  会釈を返していると肩をすくめるのが見えた。 「最後の二問、ちょっと迷った」 「あれは言葉の問題です。『必ずしも』『~は全て』というのがポイントですね」 「あぁ。二度読んで気付いた。でも、アレだな。法令と施行規則をメモしておかないと、いくら参考書を見ても答えに辿り着けない」 「そうですね。今日の講師は、試問前にまとめてくれたので親切でした」 「ちゃんと聞いておけば解ける問題ってやつだな」  講堂の方を見て「真面目に聞いていない者は苦労するだろう」と笑いながら、拓野は自販機を操作していた。 「コーヒーでも?」  言葉の直後にガコンという音が二度続いた。 (返事、してないんだけど)  心の中で突っ込みを入れていると、缶を取ろうと前屈みになった拓野からバサバサと書類が落ちた。脇にクリアファイルを挟んでいたらしい。 「あっ!」  しまった、という顔をしたものの、拓野の手は鞄と缶コーヒーで塞がっている。光葉はそっと屈んで書類を拾った。 「悪ぃ」 「いえ」  一番上は、既に記入された希望調書だった。見ていないふりをするのもおかしい気がして、差し出しながら言った。 「秘書課希望なんですね」 「あぁ。花形というか、会社のトップだろ?」 「……まぁ、そうですね」  曖昧な返事をしながら拓野の顔を見た後、差し出された缶コーヒーを見た。飲むとは答えていない。 「紅茶派だった?」 「いいえ。いただきます」  正直に言えばカフェオレ派だったが、無碍に断るほど無神経ではない。軽く会釈してから受け取ると、拓野が遠慮がちに尋ねてきた。 「あ~、その……、どこ希望とか聞いてもいいか?」  首席合格だ、美人だ、秘書課決定だ、など。  光葉に関する噂は数多く流れている。興味を示されるのは当然だと思う。ただ、特に仲がいいわけでもないのに色々と尋ねるのは気が引けるらしい。結構、思い遣りのある性格のようだ。真面目な上にそういう性格は素敵だと思う。 「僕は……残業が少なくて、仕事量が分かりやすい課がいいかな、って」 「へっ?」 「え? なんか、変ですか?」  間の抜けた拓野の返事に、思わず驚いた声を返してしまった。 「いや、その……意外だなと思って」 「そう……ですかね?」  平たく言えば「楽な部所希望」という答えは「期待の新星」にそぐわなかったか。  ポカン、とした顔で目を瞬いている拓野の視線が不快に思えて踵を返した。 「コーヒー、いただきます」  お礼の言葉を残してその場を去る。  今日はもう終わりだ。オフの時間が目の前にあるし、あれこれ探られたくないというのが本音だった。  拓野を振り返ることなく、早足で歩く。寄り道はしない。真っ直ぐ自室を目指しながら、カードキーを手元に準備した。  部屋の前に立つと流れるような動きでカードを翳す。解錠の電子音が耳に心地良かった。 「あ――」  部屋に入ってすぐ、光葉はメガネと手に持つ全てを投げた。鞄や服、全てから解き放たれるこの瞬間が堪らない。  バタン、とベッドに倒れて目を閉じる。顔に当たった空のペットボトルが鬱陶しくて壁際へ押しやりながら溜め息を吐いた。 「一日目……、終わり……」  夕食を食べに食堂へ出たり、娯楽室へ行ったりなんてしない。  今夜もゼリー飲料を胃へ流し込むだけで、あとは漫然と自堕落な時間を過ごすのだった。

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