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夢喰いが夢見た運命の人、現実ではまだ他人

 夢喰いの獏(ばく)は夢を見ていた。  悠久の時の中で、同じ夢を繰り返し見ていた。  夢の中の人物は、いつも獏を呼んでいた。  輪郭はぼんやりとして、顔は分からない。  それでも、獏には分かった。  あれは運命の相手だ。  触れようと手を伸ばして、いつもそこで目が覚める。  届かないことが、切なくて、苦しい。  現実で、掴み損ねた手を握りしめた。  もうずっと恋焦がれている。  夢を喰う怪異が夢に溺れるなど、お笑いだ。  夜のスーパー。リズミカルな曲に乗せた店内放送。  半額のシールを貼られた惣菜も殆ど残っていない空の棚。  客もまばらで、そろそろ閉店なのだろう。  獏は、声を聞いた。聞こえた気がした。  夢で自分を呼ぶ、あの声を。  鼓動が速くなる。  珍しく感情が高ぶる。  人間からは眠そうに見える半眼の奥に、決してぶれない強い光が宿った。  声に導かれるまま、獏は何の変哲もない庶民的なスーパーに足を踏み入れた。  黒い服で全身をまとめ、質のよいロングコートを着た男は、この場所で明らかに異質だった。  本人としては、人に紛れているつもりだった。人の姿を借りる時は、いつもこの姿だ。特に思い入れがあるわけではない。  獏は、これまた何の変哲もない青年の前で足を止めた。  青年は、店の看板と同じマークが入ったエプロンを着けていた。店員なのか。興味はなかった。 「……ずっと探していた」  青年が視界に入った瞬間、獏には分かった。  あれほど長く夢で見続けた、運命の相手。  この空気を知っている。  夢でぼやけていた顔が、はっきりと浮かんだ。  そう、この顔だ。  飾り気のない黒い瞳に、薄い唇。顎の輪郭がはっきりしているせいか、素朴な顔立ちのわりに少し大人びて見えた。  胸が高鳴る。柄にもない。  青年は目を逸らさずに、ゆっくりと獏に向き合った。  獏よりも幾分背が低く、見上げてくる。  青年の口が動く。  声を発する。  夢にまで見た光景――。 「どちらの商品をお探しでしょうか?」  獏は目を見開いた。  商品。  あれほど夢見た運命の相手に、商品。 「探していたのはお前だ。……運命の相手だ」  獏は手を差し伸べた。 「『運命の相手』。商品名ですか? どこのメーカーか分かりますか?」  青年の声に抑揚はなかった。淡々と尋ねられた。  差し伸べた手を握られることは、もちろんなかった。 「……商品名ではない。そのままの意味だ。いつもお前を、夢に見ていた」 「……夢?」  青年は眉を寄せた。いぶかる表情で、獏を見た。 「ご確認ですが、その夢というのは、睡眠中に見る映像のほうですか。それとも将来への願望のほうですか」  獏は黙った。  視線を彷徨わせ、答えを探した。 「……どちらでもある」  睡眠中に見た夢だが、夢の相手に出会うことを夢見て今ここにいる。 「困ります。定義が曖昧なままだと、認識の齟齬が生まれます。言葉の意味を揃えましょう」  どうやらこの青年は、言葉の意味を一つずつ確かめなければ気が済まないらしい。  それはその通りだ。  その通りだが、今はそんな業務連絡のような話をしに来たのではない。 「とにかく、私と一緒に来い」 「僕はシフトがあるので無理です。そもそも今は勤務時間なので私用のお誘いは困ります」 「運命とシフトを同じ天秤にかけるなど、愚かしいと思わないか」 「あなたの運命は僕の生活に関係がありませんので」  ことごとく拒絶されたようで、掴めないのは夢の中と同じなのか。  これは現実だ。  無理やりにでも連れ去ることはできる。  連れ去れるが、夢の相手にそんなことをするのは違う気がした。  辛抱強く青年の言葉に耳を傾けた。 「……面白い人ですね。運命という言葉を、そんなに疑いなく使う人は珍しいです」  青年の目が、そこで初めて少しだけ仕事用のものではなくなった。 「少し興味が湧いたので退勤時間後なら話を聞く時間をとります」 「わ、分かった。待っている」 「信用を寄せているわけではないので、怪しい動きがあったらすぐに防犯アラームを鳴らします。そのつもりで」 「好きにしろ。鳴らす機会は訪れないがな」 「では、他のお客様の迷惑になるので待つなら外でお願いします。店長には、退勤後に不審な人と話すと伝えておきます」 「不審な人」 「現時点では、そう分類するしかありません」 「……好きにしろ。裏の公園にいる。必ず来い」 「では、あと四十分ほどで行きます。十分経って戻らなければ通報されると思ってください」  青年は何事もなかったかのように、商品棚の整理に戻っていった。  獏は拍子抜けした。  運命の相手との出会いは、もっとドラマチックだと思っていた。  目が合った瞬間、相手も獏を運命だと本能的に悟る。  言葉を交わさずとも、抱きしめ合う二人――。  そんなふたりを夢見ていた。  夢喰いの怪異は、夢見がちだった。  冬の夜の公園には誰もいない。  大人しく待っていると、青年がやって来た。紺のダッフルコートが夜の空気に馴染んで存在感が薄い。  夢に見た青年が儚く消えてしまうのではないかと、思わず手を伸ばす。伸ばした手に温かいものが触れた。 「缶コーヒーです。僕のおごりです」  青年は両手に缶コーヒーを持っていた。片方を獏に差し出すから、獏は思わずそれを受け取った。缶コーヒーを飲む怪異などいない。それでも、触れたものは熱かった。  青年はベンチに座ると缶コーヒーを開けて口を付けた。「熱っ」と呟きすぐに口を離し、ふうふうと息を吹きかけ冷ましている。缶に向いていた視線がふいに上がり、目が合った。 「……で、夢の話でしたっけ?」  事務的な声に、警戒心が少し混ざっていた。 「ずっと、探していた。運命の相手を」 「……はあ」 「それが、お前だ」 「……なんで、僕?」 「ずっと同じ夢を見ていた。姿は霞んで、掴めない。だが……お前を見つけた瞬間、分かった」  獏はうっとりと目を細めた。  青年は眉をひそめた。 「姿が霞んでいる不確定情報で、僕だと断定するのはいささか早計ではないですか」 「理屈じゃない。魂が震えた。運命に言葉は不要だと思わないか」 「まるで夢、みたいな話ですね」 「ああ。まさに夢の話だ」  獏は薄っすらと笑った。 「私は夢喰いの獏。人間の夢を喰って悠久の時間を過ごしてきた怪異だ。お前はその私が夢に見た相手だ」 「夢喰いの獏、ですか。僕は伊月理緒です」  怪異だと名乗れば恐れられると思っていたが、自己紹介で返された。 「理緒か。……良い名だ」 「ええ。両親も良い名だと思って名付けたと思います」 「……そうか」  薄っすらと気づいていたが、会話が噛み合わない。 「お前は私を怖がらないのか? 人ならざるものだぞ?」 「対話ができるなら相手は選びません」 「そういう問題か?」 「ええ」  信じたわけでもなく、否定する気もなさそうだった。  理緒の興味は別のところに向いているようだ。 「ところで、アーキタイプってご存知ですか?」  アーキ……。  なんだ急に。 「知っている。心理学者ユングが提唱した、人類の無意識に共通するとされるイメージの原型だ」  悠久の時を生きてきた。人間の書物もいくらか読んでいる。 「そうです。接点のない人同士でも、神話や夢に似たような型が出てくることがあります。人は無意識の深い領域で、似たイメージを生み出す共通の型を持っている、と考えられています」  理緒は缶コーヒーを両手で包んだまま、淡々と続けた。 「だから、獏さんが夢で見た相手は、僕個人ではなく、あなたの無意識が作り出した『運命の相手』の象徴かもしれません。僕はそこに、たまたま重なっただけです」  息を呑んだ。目を何度か瞬かせた。  それから、低い笑い声が喉の奥から漏れた。 「つまりお前は、私の想いは無意識の錯覚だと言うのか」  口説き文句に学術的な反論をされるなんて想像していなかった。  獏は一歩距離を詰めた。  ベンチに座っている理緒を見下ろした。 「面白い男だ。……だが、ひとつ訂正しよう」  瞳の奥に冗談の色はなかった。 「私は夢喰いの怪異だ。ただの願望なら、もっと都合のいい人間を夢に見る。劇的な人間なら、いくらでもいた。王でも、巫女でも、戦場の英雄でも。いくらでもいた。わざわざスーパーの店員を、悠久の時間だけ追い続けると思うか?」 「それは補償作用かもしれません」 「補償作用。意識が一方向に偏ったとき、夢がそれを補う内容を見せて、心のバランスを取ろうとする働きのことだ」 「ええ。獏さんは人間よりずっと長く生きていて、普通の生活から遠い存在です。だから夢が、あなたの在り方の偏りを補うために、反対側のものを見せたのかもしれません」 「私の反対側?」 「平凡さとか、生活感とか。シフトがあって、閉店時間を気にして、缶コーヒーで舌を火傷するような存在です」 「……お前は」  額を手で押さえ、呆れたように天を仰いだ。  それから深く息をつく。 「私の夢を『作用』で片付ける気か」  獏は理緒に顔を近づけた。  指で顎をすくう。 「いいだろう。なら、試してみるか」  不思議と怒りはなかった。胸の奥底からぞくりとした愉悦が湧いている。 「どんな理論にも検証が必要だろう。私がお前にどんな感情を抱こうが、無意識の補償だと言うなら――お前自身の身体に聞けばいい」  獏の放つ、夢のような快楽にあらがえる人間などいない。 「無理やりですか」  ぴくりと獏の手が止まる。 「それは検証になりません」  余裕のある笑みをひそめ、眉を寄せた。 「身体の反応は、同意の証明にはならないので。おそらく僕の力では怪異に抵抗できないのでしょう。けれど、それで僕が何か反応したとしても、僕が望んだことにはなりません」  理緒は顎を持ち上げられたまま、静かに獏を見上げていた。  獏は動けなかった。 「それでも続けるなら、僕は強いストレス反応を起こすと思います。獏さんを見るだけで、恐怖反応が結びつく可能性があります。あとから何度も思い出す、再体験症状も出るかもしれません。関係はそこで終わります」  見上げてくる理緒の顔には恐怖も媚びもなく、ただ事実を述べる観察者の目がある。 「……そうだな」  獏の声に、わずかな苛立ちが混じった。  ただし、それは理緒に向けたものではない。自分自身への、だ。 「今のは、私が悪い」  丁寧に、まるで割れ物を扱うように手を離した。  獏は一歩引き、腕を組んだ。その表情は、数多の人間の夢と対峙したときよりもよほど複雑だった。惚れた相手が想定外の方向に手強い。 「どのくらいの時を待ったと思っている。初日で台無しにすると思うか。……順序は踏もう。お前が望むまで、指一本たりとも触れることはしない」  声が弱々しくなるが、芯は揺らいでいない。  触れはしない。だが、この会話を手放すつもりもなかった。  ここで退けば、夢の中と同じになる。  伸ばした手は届かず、また見失う。  ようやく繋がった声を、二度と聞き流すつもりがなかった。 「ツァイガルニク効果ですね」  理緒は変わらない態度だった。  獏は目を細めた。 「中断された課題や未完了の出来事は、完了したものより記憶に残りやすい。そういう心理現象だな」  理緒の心理学談義にも、もう慣れたものだ。 「ええ。だから獏さんは、僕に惹かれていたというより、『夢の相手に届かなかった』という未完了の緊張を抱え続けていた可能性があります。現実で会えたことで、その未完了感の一部が解消されれば、興味は薄れるかもしれません」 「つまり、夢で見続けたから気になっているだけ。実際に会えば、いずれ興味を失う。そう主張するつもりか」 「可能性の話です」  長い沈黙のあと、獏が口を開いた。声は低い。低いが――震えていた。怒りではない。 「私が飽きると、そう言ったな?」  公園の空気が沈んだ。街灯の光が遠のき、夜そのものが獏の影に呑まれていく。まるで公園一帯が、異界にずれ込んだようだった。  しかし、理緒は涼しい顔で座ったままだった。  缶コーヒーの表面だけが、指先の中で小さく鳴った。 「悠久の時間、同じ夢を繰り返し見て、ようやくお前を見つけて、声を聞いて——それで『達成』だって?」  理緒に一歩近づいた。 「むしろ逆だ。足りないから苦しい。もっと知りたいから離せない。……お前は私を挑発しているのか?」  もう一歩。 「いえ、事実を並べただけです。あなたにしたら長い時間だったかもしれませんが、僕にしたら獏さんは今日初めて会った人です。それを僕にも同じ重さで受け止めろというのは、獏さんの事情を中心に置きすぎです。自己中心性バイアスがかかっていると自覚してください」  ぐ、と言葉に詰まった。  おどろおどろしい雰囲気は消え、変哲もない夜の空気に戻る。 「……自己中心性バイアスか。ロスとシコリーの話だな。自分の記憶や事情のほうが思い出しやすいせいで、自分の立場を重く見積もりやすい、という話だ」 「ええ。性格の話ではなく、認知の偏りの話です。対人関係では、相手の事情を軽視する原因になります。今、まさにです」 人間の夢を喰ってきた怪異が、人間の理論に言い負かされそうになっている。 だが不思議なことに、獏の口元はわずかに緩んでいた。 「自己中心性、ね」  片手で顔を覆う。自然に「くくく」と笑い声が漏れた。 「……認めよう。確かに、お前の立場で考えればそうだ。私だけが悠久の渇望を抱え、お前は今夜初めて私を見た」  指の隙間から覗く瞳は、先ほどまでの獰猛さが消え、ひどく静かだった。 「ひとつだけ言わせてほしい。自覚したところで、この感情は消えない。むしろ鮮明になった」  囁くように優しい声だった。けれど、その奥には確かな力があった。  それに対し、理緒は独り言のような返事をする。 「サンクコスト効果。費やした時間を無駄にしたくない心理」 「聞こえているぞ」  また来た。  つまり理緒は、私が理緒を欲しているのではなく、費やした時間を惜しんでいるだけだと言いたいらしい。 「好きに分析しろ。私を理解しようとしてくれているなら、それは嬉しいことだ」  獏は理緒の隣に腰を下ろした。一人分ほどの間を空けて。近いようで遠い。 「私は、この感情を諦める気はない。そしてお前がどれだけ理論を並べようと——」  理緒の顔を真っ直ぐに見た。 「お前が近くにいるだけで、胸が痛むこの現象に名前をつける気はあるか? また心理学とやらで、説明できるか?」  理緒を言い負かしたいわけではなかった。勝ち負けの話でもない。ただ、聞きたかった。理屈では割り切れない感情を突きつけられたとき、この青年はどう答えるのか。  理緒が口を開く。 「それは、恋ですね」  獏はベンチから転げ落ちそうになった。 「ただし、獏さんの中にある感情の名前です。僕が同じものを持っている、という意味ではありません」 「……お前はいつも正しい」  恋。  そう言われてしまえば、あまりにも単純だった。  運命の相手だと、初めからそう言っていた。  けれど理緒が口にしたその言葉は、獏の胸に、夢よりもずっと現実的な重みで落ちてきた。 「時間をかけろ。好きなだけ分析し、研究したらいい。……結論を出すのは、全部見てからにしろ」  理緒の目から視線をそらさずに言った。 「いつか、お前を異界に連れていく」  人間界ではない。異界で共に暮らす。  それが獏の願いだった。 「異界、ですか」  理緒が缶を握りしめた。コーヒーはもう冷めているだろうか。 「僕を異界に連れていきたいなら、まずスタート地点に立ってくださいね。僕たちはまだ、他人なので」  他人。  運命の相手は、他人。  言われてみれば、そうだろう。  それにしても。 「異界で暮らすことに、問題ないのか……」  人間なら、ここで拒絶すると思っていた。  異界へ連れていく。人間界ではない場所で共に暮らす。  獏が苦戦するなら、まずそこだろうと考えていた。  だというのに理緒は、そこでは立ち止まらなかった。 「場所は大して問題ではありません。誰と、どういう関係で行くかの問題です」 「誰と。どういう関係……」  運命の相手と異界で暮らす。  願望が抽象的すぎた、と今さらながらに自覚する。  理緒と、これからどうなりたいのか。  獏は考えを巡らせた。 「日本だろうとアマゾンの奥地だろうと、僕は僕なので。それは異界でも変わらないことです」 「……では、これからお前を口説いていく。私はお前に、恋をしている」  運命の相手と言っても論理武装でかわされるなら、理緒が口にした『恋』の単語に全ての想いを乗せた。 「長くなりますよ。頑張ってください」  理緒が笑った。  眉の下がった、やわらかくどこか楽しげな笑みだった。  初めて見た顔に獏は目を見開いた。どういうわけか落ち着かなくて、視線をそらした。 「今さらだ。どれほど長く夢見てきたと思っている」  現実は夢のようにうまくはいかない。けれど、夢よりもずっと鮮やかだった。  胸の奥の痛みは切なくて、甘い。その痛みすら、獏には手放しがたかった。  おしまい

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