1 / 1
第1話
二〇一四年六月二十一日
網戸から、湿った風が吹いているのがわかった。
布団に横たわった俺は寝返りをうとうとして、気づいた。
──金縛りに遭っている。
恐怖は少なかった。金縛りには慣れているからだ。今は、半分起きて半分寝ている状態。そういうときには、夢を見ながら現実の音が聞こえるようなこともある。
今も、【何か】にのしかかられて身動きがとれない悪夢を見ながら、現実の夜の風を感じている。
──どうせこれは心霊現象なんかじゃない。疲労による睡眠障害と、それによる幻覚だ……。
今日は土曜日で、義理の弟である瞬斗とサッカーボールを蹴りあってたくさん遊んだ。兄らしいことができたのは嬉しかったが、普段運動をしない俺のような大学生には堪えた。
それに、今週から義父が出張に行ってしまった。学生の男ひとりで義弟の世話をする責任を感じて、自分は間違いなく気を張っている。睡眠障害になるのも無理はない。
【何か】は黒い靄だった。実際の部屋の中にそんなものがないのはわかっている。
硬直した体に嫌気がさしてきた頃、変化があった。黒い靄が、俺の唇に触れた……気がした。
さっきまでとは別の意味で緊張した。淫らな夢を見てしまっているのだ、と。金縛り中にこんな夢を見るのは初めてだ。
黒い靄は、唇に触れた何かを、つ、とずらすと、俺の首筋のあたりを執拗に、生温かいもので刺激した。
くすぐったい。しかしその中に、官能的な疼きがあることに気づく。身を捩りたかったが、動くことができない。
「──ちゃん」
突然聞こえた声。
おにいちゃん、と聞こえた気がした。
──しゅんと?
金縛り中は喉も上手く機能しない。声が出せない。義弟が一人寝の寂しさに部屋に入ってきたのかと思い、脳内で問いかけた。
しかしおかしい。さっき聞こえたのは低い男の声だ。瞬斗は、まだ九歳だ。
黒い靄が、声の主なのだろうか。家族の真似をして近づく妖怪──そんな、ありえない想像をしてしまう。
「お兄ちゃん」
今度ははっきりと聞こえた。
黒い靄は体──といっていいのか──を起こすと、俺の下半身のほうに移動したようだった。そして、寝間着を脱がされる感覚があった。
こんな淫夢は初めてだ。あまりにもリアルだ。
「……っ、……!」
声にならない声が、まともに動かない喉から漏れる。湿った何か──人間の舌、のように思える──が、陰茎をぬめぬめとなぞっているのだ。気色悪さの中にも、容易に快楽を見つけてしまう自分が恨めしい。
やがて、陰茎全体が温かく湿った何かに包まれた。上下するそれがもたらすのは、初めての快感だった。身動きがとれないのに、強制的に登りつめさせられる。
抗えないほどの恍惚を覚えながら、俺は考える。まさか、これは夢ではなく、本物の不審者が侵入してきたのではないかと。
しかしそうなれば、どこからだろう。この離れの小屋には自分しか寝泊まりしていない。入り口の鍵はかけた。そうするとこの部屋の網戸からだが、ここは二階だ。ろくに足場もない場所を、音もなく登ってきたというのか?
思考は、生温かいものが上下するごとに増す強い快楽によって、朧げになっていく。やがて射精欲に支配され、俺はただ身を委ねることしかできなくなっていた。この、不審者とも怪物ともわからない存在に、体を支配されているのだ。
「は……っ、……っ!」
絶頂の瞬間、声が出せないかわりに、苦しく激しい呼吸音を吐き出した。射精された液体が、飲みこまれていく感覚があった。
ようやく金縛りが解けたのか、俺の視界が変わった。
目を開けてみれば、そこに黒い靄などなかった。
かわりに目に入ったのは、暗闇にもわかる、明るい色の髪。自分よりも大きな体躯。そして──どこかで見覚えのある顔立ち。
人間。成人男性。不審者。そんな言葉が浮かぶ中、俺は九歳の義弟の顔を思い出していた。
ぱっちりとした目。赤みがかった瞳。色素の薄い睫毛。子どもながらに通った鼻筋。大きくよく笑う口。唇の下のほくろ。
──そういえばこいつは、俺のことを何と呼んでいた──?
◇ ◇ ◇
「お兄ちゃん、おはよう!」
朝。
俺にでもできる料理、目玉焼きを焼いていると、後ろから声をかけられた。
日曜の朝だが、瞬斗は朝寝坊しない。食べることが大好きだから、時間になると朝食チェックと称して台所にやってくるのだ。
「おはよう。テレビ観てていいぞ」
「観ない。だってこの時間おもしろいのやってないんだもん」
ついこの間まで日曜朝は戦隊ヒーローの番組を観ていたと思ったが、もう卒業したらしい。
「じゃあ、茶碗を持って茶の間に行っててくれ」
手伝いを頼み、台所から追い出した。瞬斗には悪いが、正直、今はひとりで考えていたいことがあった。
結局、昨夜は不審者が本当に入ってきたのかどうかわからなかった。恥ずかしながら、俺は射精後に意識を失っていたらしい。
朝になって確認したが、離れの入り口の鍵は閉まったままだった。二階に続く外壁にも、侵入を試みたような痕跡は見つからなかった。となると、あれは夢か幻覚だったのだろう。
ただ、謎は残っていた。たしかに現実で射精した感覚があったのに、朝起きると下着と寝間着がさほど濡れていなかった。小学生の頃夢精したことがあるが、あのべっちゃりと濡れた状態になっていないのはおかしい。射精も、夢だったというのだろうか。
そしてもうひとつ。お兄ちゃん、という声。それを伴った淫らな行為。
すべてが夢だったとすると、これは俺に内在する謎ということになる。
──無意識下の、欲望?
本当は、あまり考えたくはなかった。俺は義弟を性的な目で見たことなどない。そもそも、小児性愛者でもない。男子はおろか、小学生の女子にすら性的な興味を持てない。現実の子どもに欲を抱く人間を軽蔑すらしている自分が、あんな夢を見るなんて。
ただ、あの声は成人男性のもののように聞こえた。それは、小児性愛者にはなりたくないという微かな抵抗の跡なのだろうか?
考えていると目玉焼きを焦がしそうだったので、思考を中断して現実の行動を進めることにした。
「目玉焼き、できたぞ」
「何焼きー?」
「堅焼き」
戸を一枚挟んだ茶の間からの声に応える。
瞬斗は半熟より堅焼きのほうが好きだから、きっと喜んでくれるだろう。
俺はふたりぶんの皿に目玉焼きとベーコンを移すと、お盆に乗せて運んだ。
茶の間に行くと、瞬斗はテレビで特撮番組らしきものを観ていた。この時間にやっているのはライダー何とかだろう。結局似たようなものを観ているじゃないか、と内心微笑ましくなる。ツッコんだら本人のプライドが傷つくかもしれないから黙っておく。
「今日は醤油と塩コショウ、どっちかける?」
「今日は〜、醤油」
「ご飯の量は?」
「いっぱい」
年季が入って少し黄ばんでいる炊飯器から白米をよそう。
この家はもともと農家だから、家の造りから引き出しなどの家具に至るまで古いものだらけなのだが、地上デジタル放送対応にしたテレビだけは最新のスリムな大型のものなので、いつ見てもアンバランスさがある。
「ライダー、今何やってるんだ?」
「なんか、途中から観たからよくわかんない。戦国武将? のやつ」
「は? 戦国武将がライダーなのか? タイムスリップでもするのか?」
そこまで言って、何かに思い至る。
タイムスリップといえば……昨夜の青年。瞬斗の顔。
成長した姿、に見えなくもない。
「…………」
「どうしたの? お兄ちゃん」
「いや、何でもない。それより、今日はどうする? 午前中はずっと雨らしい」
「DVD借りたい」
「TATSUYA行くか」
朝食の後片づけをして、どうせ乾かない洗濯物を軒下に干したあと、少しテレビを観てから車を出した。ちょうどレンタルショップの開店時間だ。
農道と幹線道路を十五分ほど運転して、バイパス沿いのレンタルショップに着いた。早い時間だというのに、スーパーマーケットと共通の広い駐車場には三十台以上は車が停まっていた。このあたりは娯楽が少ないから、雨の日はこういう店が混むのだ。
瞬斗がキッズアニメコーナーを見ている間、俺も何かいいDVDがないか邦画コーナーのあたりをうろついた。
「あれ、楓也(ふうや)くん?」
突然声をかけられ、驚いた。
見れば、高校時代の同級生の女子がいた。化粧をしているからか長い髪を茶色に染めているからか、数ヶ月前の卒業式よりも垢抜けた印象になっていた。
「小泉さんか。専門行ったんだっけ」
「うん、楓也くんは黛大でしょ。いいなー、キャンパスライフ」
「そんな違わなくない?」
「いやー、たぶん、だいぶ違う」
正直、華々しいキャンパスライフの話を振られても困る。俺は合コンだとかサークルだとか、いかにも陽気な学生ライフを送っているわけではない。小泉さんも内心それに気づいているんじゃないか、気を遣ってくれているだけなんじゃないか、と思う。
なにせ、俺の容姿は高校時代とろくに変わっていない。最低限寝癖を整えただけの長くも短くもない黒髪に、焼けていない肌、薄っぺらい体、男の平均より少し低い身長、シンプルなシャツ。よく、真面目そう、と言われるが、それは若者の間ではあまりいい意味を持っていないことはわかっている。
「車で来てるんだよね? トドールとか行って話す?」
「弟と来てるから……」
「ああ、そっか。大変だね」
大変、なのだろうか。
楽しいと思うこともあるが、やはり世間からは、再婚家庭な上に母親に出ていかれ、幼い弟を世話する苦労人、という哀れみの目で見られているのだろうか。
「お兄ちゃん、借りるの決まったよ」
瞬斗の声に、ぎくり、とする。聞かれていただろうか。
弟さんかわいいー! と言う小泉さんに別れを告げ、カウンターで会計をし、瞬斗と車に乗った。
「ねえ、ぼくと喋るときとちょっと喋り方違うよね」
けっこう鋭いことを言う。瞬斗の前では、『兄』でいようと、わざと少し偉そうで年上らしい喋り方になってしまうのだ。二年半前、突然弟ができたときから染みついてしまった癖だった。
「さっきの人、お兄ちゃんのこと好きかもね」
「は? マセたこと言うな。別に普通の元同級生だ」
「だって、お兄ちゃんと喫茶店に行きたかったんでしょ?」
「……」
「お兄ちゃんのつきあう人って、ぼくのお姉ちゃんになるかもしれないわけじゃん。恋人ができたら、ぼくに会わせてよ」
「できたら、な……」
二年半前は恋愛のれの字も知らなかったような子どもが、もうこんなことを語るのか。
人の成長というものに思いを馳せつつ、雨による車窓の視界の悪さに苦戦しながら、俺はひたすら車を走らせた。
午後は雨がやんだ。瞬斗は自転車を飛ばして友だちの家へと遊びに行った。
夕方、瞬斗が帰ってくるとほぼ同時に、義父の姉である美津江(みつえ)伯母さんが大量の保存容器を手に来訪した。
「ご飯作るの大変でしょ? 作ってきたわよ。ていうか、楓也くんあんた、玄関に鍵なんかかけてんの?」
言われると思っていた。このあたりは貧乏農家ばかりだから、鍵なんかかけたら逆に浮くんだ、と義父にもたしなめられたことがあった。広い家にエアコンが一台しかないから、風通しをよくするためもあるのだろうが。
「今は俺たちふたりだけですし、許してくださいよ……」
今のご時世、防犯対策なんていくらしてもいいと思うのだが、上の年代の人たちとはこのあたりの話がまったく噛み合わない。
「泥棒なんて来ないわよ」
べつに泥棒だけが犯罪者じゃないだろう、と思う。たとえば、小学生を襲う変態だとか、誰でもいいから殺したい異常者だとか、そういう人間がたまたま我が家を標的にしないとも限らない。
しかし、この美津江伯母さんはべつに悪い人というわけではない。現に、俺たちを心配して、大量の惣菜を差し入れてくれた。
「でも、こんなに食べ切れるかな。この時期だし、腐らないか心配です」
「あまったら冷凍にすればいいのよ」
「いや、冷凍庫も冷凍食品でパンパンで。伯母さんも一緒に食べていきませんか?」
ダメ元で言ってみたが、伯母さんは快諾してくれた。
実はというと、俺は少し恐れていたのだ。昨夜の、悪夢のような怪異のような【何か】を。大人の人間がこの家にいてくれれば、安心できるような気がしたのだ。
「ああ、うちの旦那のことなら大丈夫。あの人は酒さえあればひとりで勝手に晩酌やってるから」
ふくよかな体を揺らして豪快に笑う伯母さんに和まされる。
唐揚げやポテトサラダなど、子どもが好きそうなものを多めに作ってくれるという気遣いもありがたかった。
最近目玉焼きや冷凍食品ばかり食べさせられている瞬斗は、「今日は宴会!?」と目を輝かせた。そのおかしみのある言い方に伯母さんとふたりで笑った。
食後、瞬斗は借りてきたDVDをプレイヤーにセットして観はじめた。最近子どもたちの間で流行しているアニメらしい。
「あら、伯母さんも知ってるわよこれ。『もののけカレンダー』でしょ」
「なんで伯母さんが……」
「うちの下の娘がこれ詳しいの」
伯母さんの下の娘、は既に大学生なのだが。なぜキッズアニメに詳しいのかは訊かないでおいたほうがいいだろうか。
アニメは、季節ごとに現れるヘンテコな『もののけ』を主人公が捕まえてカレンダーに封印し、呼び出して戦う、という内容だった。エンディングテーマの『レッツ! もののけイリュージョン』がなぜか頭に残った。
食後のお茶を飲み終わると、伯母さんは鞄の中からポチ袋をふたつ取り出した。それを俺と瞬斗に握らせ、言う。
「お小遣い、お父さんには内緒ね。あんたたち、しばらくふたりきりで大変だろうけど、支えあって頑張るのよ。ときどき様子見に来るからね」
瞬斗は、何も答えなかった。
ふたりきり。支えあう。頑張る。
生まれたときから母がおらず、やっと現れた新しい母も、勝手な都合で家を出ていってしまった。瞬斗はもう、じゅうぶん過酷な人生を歩んできたと思う。これ以上、つらい想いをさせたくはなかった。
──瞬斗は俺を支える必要なんてない。これ以上頑張らなくていい。俺が瞬斗を支えるんだ。
その晩、瞬斗はめずらしく俺と一緒に寝たいと言ってきた。さっきの伯母さんの言葉に、悲しくなっているのかもしれなかった。
俺は客用の布団と枕を押し入れから出して瞬斗の隣に並べると、彼を抱きしめるように寝た。腕の中の小さな体が愛おしかった。それは決して性欲でも恋愛欲でもなかった。
ならば家族愛なのか。自分ではよくわからないが……たぶんそうなのだろう。
その晩は、悪夢も怪異も訪れなかった。
ともだちにシェアしよう!

