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第1話

病棟の夜は思ったよりも明るい。 これが、九条 執(くじょう しゅう)がはじめて病棟の夜を知ったときの感想だった。 病棟内の灯りに加え、大きな窓からのぞく目が痛くなるほどの街明かり。 この夜に輝く街明かりを九条は密かに気に入っている。 そんな街明かりをぼんやりと見下ろしながら、九条は病棟の廊下に立っていた。 あくびを噛み殺し、霞む目をこする。 消灯された病棟の静けさに頭が一層ぼんやりしていく。 そんな中感じた首筋の違和感に手のひらで何度かさすってみる。 後ろを振り返るが誰もいない。ほっとした自分に気がついて思わずぐっと眉根が寄る。 あいつのせいだ。 一人の青年の顔がよぎり振り払うように頭を振る。 首に当てた手をポケットに突っ込むと、九条は廊下奥から感じる視線にそちらを向く。 「福田さん」 「先生、東堂先生帰られましたよ」 声をかけると、九条の視線の先、廊下奥のナースステーションから一人の看護師が歩いてくる。 「ちゃんと九条先生はいませんって言っときました」 「ありがとうございます、助かります」 はあ、と安堵の息を吐くと、隣に並んだ福田が笑う。 「これで逃げなくて済みますね。ほんと先生、大人気ですねー」 先週は加藤先輩でしたっけ?とにこりと福田が目を細める。九条は眉間に皺が寄るのがわかる。 東堂も加藤も目的は一つ、資料集めと発表のスライド作りの肩代わりだ。 これのどこが大人気だ。 思わず深いため息が漏れる。 「雑用押し付けられてるだけです」 「先生が全部引き受けるからですよ。しかも律儀に時間外に残ってこなすから」 三年目は大変ですねえ、と福田が労わるような視線を向ける。 名札に主任バッチをつける彼女には、医師の力関係も筒抜けらしい。 「そんなに先輩に見つかるのが嫌なら、さっさと家に帰ったらいいのに」 「こっちの方が楽なんです。患者対応すぐ出来るし」 「そう言ってナースステーションに居座って、今日で何泊目でしたっけ?」 「………………」 福田の有無を言わせぬ視線に、九条はそっと視線をそらす。   「ついでに、仮眠室の利用時間は?」 「………たぶん、六時間くらいです」   合わせて、と呟いたのが聞こえたかは分からないが、福田が呆れ顔で首を横に振る。 「流石にせめて休憩したらどうですか?地下のコンビニは開いてますし」 福田の提案に、九条の体が一瞬跳ねる。 そんな九条の反応に福田が不思議そうな顔をする。 「先生コンビニ知ってますよね」 「知ってますし、利用してます。でもこの時間帯はあまり行きたいと思えなくて……」 拒否を示す九条に、福田が目を丸くする。 「先生が何か嫌がるって珍しいですね」 福田の驚いた顔に、確かにそうかも知れない、と考える。ここまで何かを嫌ったことはない。 慣れない感覚にまた首を擦る 「深夜帯のバイトが苦手で……」 そこまで言うと福田にも伝わったらしく、ああ、と一度大きく頷く。 「望月くん」 「名前知ってるんですか?」 「この前会った時に聞いたんです」 大学四回生らしいですよ、と福田が聞いていない情報まで教えてくれる。 この病院の地下にあるコンビニは二十四時間営業だ。 その中で、深夜帯の時間にほぼ毎日のようにいるバイトがいる。 それが望月だった。 しかも、その時間ほかのバイトはおらず、望月一人で回している。 なので、深夜帯に行くとほぼ必ず彼がいる。 「彼に会いたくないんですか?」 「…………………………」 率直な福田の質問に、九条は黙り込むことしかできなくなる。 できれば彼には会いたくない。 だが、望月のことを話す福田の顔には好意的な感情が見える。 「彼、良い子なんですよ?いつも挨拶してくれますし、好みも覚えてくれますし」 「俺、一度も声かけられたことありません」 「それはほら、先生が怖いとか」 常に眉間にシワ寄ってるから。 福田が眉間のあたりを指さす。   「……望月くんと何かあったんですか?」   しかし軽口から一転、心配そうに尋ねる福田に、彼女と望月の仲の良さが伺える。 そんな彼女に、自身の経験を話していいのだろうか。 彼の顔を思い出し、また首筋に手を当てる。 望月とは、何かあったというほどのものはない。自意識過剰だと言われれば、その程度のものだ。 たが。 「別に何かはされてません。ただ……」 「ただ?」 「……じっと、見られているだけです」 九条からの告白に福田が目を丸くする。 「望月くんが?」と不思議がる声に、今度は九条が目を丸くする。 「彼、そういう癖ないですか?」 「うーん、感じたことないなあ」   戸惑った顔で首を振る福田に、九条もまた戸惑ってしまう。 あれは、彼の癖だと思っていた。 コンビニ店内に入るとほぼ毎回と言っていいほど、九条は望月の視線を感じる。 それは万引き防止と言うには生ぬるく、店内を歩く九条を追ってくる。   「その目が苦手で…………」 よみがえった視線の感覚に、また一度首筋をさすりあげる。 その瞬間背後から感じた視線に、九条は咄嗟に後ろを振り返る。 「先生?」 「っ、あ、いや」 「ああ、九条先生と福田さん」   九条の反応に福田が驚いているタイミングで、後ろから廊下を歩いてきた男性が二人に声をかけてくる。 視界の端にいる福田が、九条をじっと見ているのが見える。 「原西さん」 「先生、まだ病棟にいたんですか!今回の入院では大変お世話になりました!」 原西が九条に近寄り、九条の手を握ると勢いよく振る。 「原西さん、明日の朝退院ですね」 「そうなんです!興奮して眠れなくて眠れなくて」 豪快に笑う原西に、九条の顔も緩んでいく。 誰かのこの顔を見るたびに、医者になってよかったと実感する。 そのまま手を振り談話室へと歩いていく原西を見送る。 そして姿が見えなくなると、九条は横からの含みのある視線に思わず体の向きを変える。 「……休憩、必要じゃないですか?」 どう見てもお疲れですよ、と静かな声で諭す福田に、九条は抵抗を諦める。 どうせ作業は捗りそうもない。 霞む視界に眼鏡を外すと、こめかみ付近の頭痛が強くなる。 「それにしても、視線ねえ……」 「は?」   目頭を揉む九条の隣で、福田が釈然としない顔をする。 視線、視線、と呟いたかと思うと、九条を見上げ口元に手を当てるとじっと何かを考え込む。 その間も外れない視線に、九条は何も言えず一度身じろぐ。 そうしてしばらく立ち尽くした後、福田がうん、と一度頷く。 「じゃあ先生、早くナースステーションに戻って休憩取りましょう」 納得した顔であっさり戻っていく福田に九条は拍子抜けした気持ちになる。 何か言おうとしていなかったか? しかし福田は足早に歩いていく。 仕方なくその背を追い、ナースステーションまで戻る。 開いたままだった作業画面を見ると、頭痛が一層ひどくなる。 まるで呪文だ、歪む視界にため息をつき肩を落とす。   「……ちょっと休憩してきます」 「はーい、いってらっしゃい」 初めて聞くような明るい声の見送りに、九条は一瞬足を止めるがそのままエレベーターへと向かう。 コンビニへは行きたくないが、背に腹は代えられない。 今日進まなかった作業分は明日の九条が担うことになるのだ。 途端に重くなった足を引きずるように歩いていると、「九条先生」と福田から声がかかる。 「なんですか?」 「いやー……、先生って、ハリネズミって知ってます?」 ハリネズミ? 唐突な問いに、九条ははあ、と首を傾げる。 「一応見た目は知ってますが」 「なら、お腹に触ったことありますか?」 続く福田の質問に、九条ははっきり首を振る。 そもそも腹なんてあったのか、そんな当たり前な事さえ気にしたことなかった。 「それがどうかしたんですか?」 「いえ、ちょっと思い出して。ねぇ先生、知ってます?」 「ハリネズミのお腹って、とってもやわらかいんですよ」

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