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No.1 一日目・執事「二人の初対面」
昨晩、横浜港を出航した坊ちゃんは、今頃どうしていらっしゃるだろうか。
天気図を見る限り、海上は穏やかで青空を望めているはずである。
豪華客船の旅には、ご丁寧にも専門のバトラーとやらが付くらしい。
よって私は同行せず、蝉の鳴く森の中で坊ちゃんのことをただ心配する夏休みを、過ごすことになってしまった……。
今朝早くに電車を乗り継ぎ、都心の高層マンションからこちらへやってきた。
庭の水やりすらも引き受けたので、裏の森とも繋がる洋風建築のお屋敷には、私が一人。
せっかくなのでたくさん読書をし、坊ちゃんを支えるための知識を蓄える時間にしたいという心積りだった。
ところが、だ。
「まだ朝なのに暑いなー。森みたいな屋敷だってCEOがおっしゃっていたから、涼しいのかと思ったけど、暑いものは暑いな」
今、玄関ロビーには、タンクトップにジョガーパンツ姿の逞しいマッチョな男がスーツケースを持って立っている。
「それで、どのようなご用件でしょうか?」
門扉を開き、彼の運転してきた派手な車を誘導し、玄関を開けてロビーまでは招き入れたが、これ以上の侵入は許したくない。
「CEOに聞いているだろ?執事さんが一人では心細いだろうから『サポートしてやってくれ』とCEOがおっしゃったんだ。それならばと、朝早くから来てやったってわけ」
彼の言うCEOとは、坊ちゃんのことだ。
仕事関係の皆さんは、皆そう呼ぶ。
「確かに坊ちゃんは私を心配してくださいました。しかし『一人で大丈夫です』とお断りいたしましたので、お帰りいただいて結構です」
私は彼に向かって嫌味を込め、眼鏡を上げながら上品に微笑んで見せる。
しかし、男にはそれが通用しないようで、「年代物のいい造りだな」とズカズカと中へ入り込んできた。
そして、居間まで辿り着くと振り向いて、尻ポケットに入っていた名刺を差し出してくる。
「秘書の俺と、執事のアンタは、同じ人に仕えているのに、意外と顔を合わせる機会がないよな。こうして話をするのも、これが初めてだ」
この秘書の言う通り、私は高層マンションの駐車場で運転手に坊ちゃんを託し、運転手から帰宅時間の連絡を受け、お迎えに出る。
秘書にしても同じだろう。
自社ビルの車寄せで坊ちゃんを出迎え、帰りは運転手に託してその姿を見送る。
ゆえに、私たちが接触する必要はない。
「それで、奥の客間を使わせてもらっていいのか?」
ここに住む主人がいない間も、いつ誰が訪ねてきてもいいように、定期的にハウスキーパーが手を入れてくれていた。
今朝から私が使用することにした部屋の隣も、ベッドメイキングが整ったゲスト用の寝室になっている。
「いつまで滞在されるおつもりですか?」
「CEOが豪華客船の旅からお戻りになるまで。つまり夏季休暇が終わるまでの十日間だ。よろしくな、執事さん」
(なにが「よろしくな」なのでしょう。坊ちゃんが私を心配し、故にこの男に声を掛けたという事実がなければ叩きだしていたのに)
盛大に溜め息をついてみせたが、秘書は気に留めた様子もなく、軽々とスーツケースを持ち上げ廊下を進んでいく。
そのムキムキとした後ろ姿に、この筋肉オバケはオフィスではちゃんとスーツを着こなせているのだろうかと、要らぬ心配をしてしまった。
そんな彼がふと立ち止まり、私を見る。
「あのさ、執事さん。もっと楽な洋服は持ってないの?俺たちはあくまで夏季休暇中でしょ?」
お屋敷で過ごす夏休みにおいて、長袖のワイシャツにスラックスのどこがおかしいのか。
私は首を傾げる彼を一瞥し、キッチンへ向かった。
—
秋以降、都心の高層マンションから、都下のお屋敷へ住まいを移される予定の坊ちゃん。
私はその下準備のため、以前は坊ちゃんのご祖父母がお住まいだったこのお屋敷へやってきている。
十日間の休暇をこちらで過ごし、お屋敷に不具合がないかを隅々まで確認するつもりだ。
これも執事の大切な仕事だから。
思わぬ邪魔が入ったが、とにかく私は自分のペースを守ることにする。
駅からお屋敷まで来る途中にあった個人経営のパン屋で、朝食用にクロワッサンを二つ購入してあった。
持参した茶葉で丁寧に紅茶を淹れ、トースターでクロワッサンを軽く温めてバターの香りを立ててから、皿に盛る。
キッチンから食堂へ移動し、テーブルに皿を並べたとき、背後から声が聞こえた。
「あれ、執事さんもクロワッサン?俺も、俺も」
秘書は有名なパン屋のロゴが入った紙袋を、ガサガサと振る。
彼は、ペットボトルのアイスコーヒーとクロワッサンで朝食を取るようだ。
「CEOに頼まれて何度かこの店にクロワッサンを買いに行ったことがあってさ。俺も好きになっちゃったんだよね。アンタのクロワッサンも美味そうだな」
坊ちゃんは確かにクロワッサンがお好きだ。
ご自宅では必ず紅茶と一緒に召し上がる。
よもや会社では、下品なペットボトル飲料などをお飲みになっているのだろうか。
「よろしければ、紅茶を淹れてさしあげましょうか?」
(この男にも、坊ちゃんの上品さを体験させてやれば、少しは行動を改めるかもしれませんね)
「え?ホット?」
そう言って彼は大げさに首を横へ振る。
「外は真夏だよ、執事さん。俺は冷たい飲み物で結構。CEOだってこの季節、コーヒーショップで買うのはアイスカフェラテだし」
なんだろう、この男。
まるで自分のほうが坊ちゃんのことを、深く知っているかのような態度が鼻につく。
仕方がない、私が執事になった経緯でも話して聞かせてやろうか……。
しかし、先に口を開いたのは、秘書だった。
「執事さん、何歳?俺はさ、CEOの4つ年上で32歳。秘書になって、もう4年かな」
「奇遇ですね。私も32歳。先代の執事よりこの任を引き継いで4年になります」
ポロポロとクロワッサンの屑をこぼしながら豪快に頬張る秘書に、眉を顰めながらそう答える。
「じゃあ、俺たち同期だね」
同じ括りに入れないでいただきたい、と言いたかったが、こんな安い挑発に乗ったら執事の名が廃る。
私はグッと堪えることに成功した。
「それにしてもさ、CEOは秋になったら本当にこの屋敷に引っ越してくるつもりなのかな?」
「えぇ。お祖父様と、お祖母様が大切にされていたお屋敷を、お守りになりたいのでしょう。家は人が住まないと傷みますから」
「だけど、今のマンションなら社屋まで車で10分。ここに越してきたら通勤に1時間はかかるだろ。あまりに非効率じゃないか」
この男、坊ちゃんの良いところを全然理解していないらしい。
「坊ちゃんは二十歳でご両親を亡くされ、会社を継がれました。人気絶頂だったアイドルグループをお辞めになってまで、家を選ばれたのです」
「あぁ。CEOは判断力に長けた切れ者だからな」
「えぇ、私もそう思います」
初めて意見が一致した。
コクリと頷きながら、紅茶を一口飲む。
「アイドルはもう潮時だって分かって、ビジネスを選んだんだと思うぞ。あれは最高の引き際だった。だってあのグループ、CEO以外はパッとしなかっただろ?CEOのご両親が飛行機事故で亡くなり、マスコミが騒ぎ立て、それを受けてのアイドル引退。そして家業を継ぐ宣言。引退ツアーと銘打って行った全国ツアーは大盛り上がりで黒字化。しかも、会社の知名度も爆上がり」
私はティーカップを持つ手が怒りで震える。
そんなビジネスライクな話では、ないはずだ。
この男もそうだろうが、私もあの頃はまだ坊ちゃんのお側にはいなかった。
だから、ご両親を亡くされた頃のことは、存じ上げない。
しかし、二年前に相次いでお祖父様、お祖母様を亡くされたときのお辛そうな姿を見ていれば、その頃の悲しみも容易に想像できる。
「ぼ、坊ちゃんは、坊ちゃんは……」
そのとき再び、門扉のインターホンが鳴った。
私は苛立ちながら席を立ち、モニターをONにする。
そこには50代くらいの女性が一人、映っていた。
(執事たるもの、アンガーマネジメントは必須。怒りを鎮めお客様対応をせねば)
「はい。どちら様でしょうか」
「あら、よかった。派手な車が停まっていたから誰かいるんだと思って鳴らしてみたの。私、隣の山本です」
「あぁ、お隣の奥様。後ほどご挨拶に伺おうと思っておりました。私、坊ちゃんの執事をしている者でございます。坊ちゃんは不在ですが、夏の数日、私が留守居をさせていただく予定でおります」
お隣といっても、庭を挟んだ向こうの住宅街のことで、早々にこのようなご近所付き合いがあるとは思いもしなかった。
「それは助かるわー。参加してもらえるって町内会長さんにも伝えておくわね」
何に参加するのか少しも分からなかったが、インターホンはプツリと切れてしまった。
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