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No.9 三日目・執事「大きなベッド」
今宵もバスルームの前で、坊ちゃんのアイドル時代の歌を秘書と一緒に歌うことになったらどうしようかと、密かに憂いていた。
一度目だから勢いでこなしたが、二回目以降は羞恥心が勝り、おかしな汗が止まらなくなるかもしれない。
なんとか回避できないものかと、朝から思考を巡らせていた。
しかし、少女というのは日々成長している生き物なのだろう。
「歌はもう自分で歌うからいいわ。でも、執事のおじさんか秘書のおじさんのどちらかに、ドアのところに立っていてほしいの。それで、もしミカが怖くなって歌うのを止めたら『大丈夫だよ』って大きな声で励ましてくれる?」
私はミカ様のその発言に、ほっと胸を撫で下ろす。
横では筋肉オバケの秘書が、同じように安堵の息を吐いていた。
「えらいなミカ。よし、俺がドアの外に立っていよう。だから安心して風呂に入るといい」
「うん!」
「ミカ様、ご立派です。では、しっかり警備をして差し上げてください」
私はその場を秘書に任せて一階へ下り、居間の片付けを始める。
掃き出し窓から見える庭の樹々は、風で大きく揺れ、雨粒がガラスを打ち付けていた。
台風は確実に、こちらに向かって進んできているようだ。
私たちは先ほどまで、この部屋でトランプをしていた。
『七並べ』や『神経衰弱』を、子ども相手にどこまで本気で挑んでいいものか計りかねていたが、効率化ばかりを重んじる秘書は、手加減などという言葉を知らないらしい。
だとしたら私も、本気でお相手するしかないだろう。
途中からミカ様は、自分がゲームに参加するより、私と秘書の対決を面白がり、煽り、ケラケラと笑って楽しんでいらした。
私が勝てば私とハイタッチをし、秘書が勝てば彼を称える。
どちらに肩入れするわけでもなく等しく応援してくださる姿は、彼女もまた将来は人の上に立つ人間になるのでは、と思わせてくれた。
そろそろお風呂に入り寝支度をしなくてはという時刻になり、ミカ様がご提案される。
「じゃあ、最後に二人で『スピード』で勝負ね。勝った人は負けた人からプレゼントを一つもらうっていうのはどうかしら?」
別に私は、秘書からプレゼントをもらいたい訳ではなかったが、決して負けたくはなかった。
秘書も同じ気持ちのようで、目の奥がキラリと光り視線が鋭くなる。
なるほど、ビジネスのときの彼はこんな表情がデフォルトなのだろう。
「いっせーのーせ!」
「いっせーのーせ!」
白熱した試合は接戦となる。
その結果、見事私が勝利を収めた。
(勝負事を好まない私ですが、勝利というものはこんなに甘美なのですね)
「プレゼントは明日までに考えておく」
仏頂面でそう言った秘書の言葉を、それなりに楽しみだと思いながら、ローテーブルを拭き、ソファに置かれたクッションを整えていく。
さすがに「プレゼントはプロテイン」なんて、落ちではあるまい。
「ワン」
絨毯の上に寝そべるサモエドのユニに、いつの間にかニヤけていた顔を指摘されたような気がして、慌てて表情を引き締めた。
—
長い髪をしっかりと乾かされたミカ様は、食堂で水を一杯飲み、少し緊張した面持ちで「おやすみなさい」と寝室へ引き上げていく。
そのすぐ後ろには騎士のようにユニが付き添い、ふさふさと尻尾を振りながら階段を上がっていった。
秋から坊ちゃんが過ごされる部屋へ犬を入れることには、正直抵抗がある。
しかし現在最も大切なのは、坊ちゃんの姪っ子であるミカ様が安眠されることだと、考えを改めた。
秘書と二人になった居間でテレビのニュースをつけると、画面には物々しいテロップが並び、台風の接近を伝えている。
この辺りが暴風圏に入るのも、もう間もなくのようだ。
「雷が鳴り始めたな」
「えぇ、まだ遠雷ですが、ミカ様もユニも怖がるでしょうね。早く熟睡してしまうといいのですが」
窓の外はゴーゴーと風が吹き荒れ、樹々が揺れ葉が擦れ合う音が聞こえる。
「万が一、停電したときのことも考えたほうがよさそうだな」
「えぇ、私は蠟燭や懐中電灯を用意しますから、アナタは先にシャワーを浴びてください。私も続けて入りますから」
「分かった」
そこから私たちはテキパキと行動し、夜の台風通過に備える。
(シャワー後の寝支度を済ませた姿も、相変わらずのタンクトップに短パンとは、驚かされました。眠る時も筋肉むき出しなのかと呆れ果てますが、今は小言を言うタイミングでないですね)
異変があったのは、私がシャワーを浴び終え、パジャマ姿で居間のテレビの前へ移動してきたときだった。
「クゥーン」
不安そうな声で鳴くユニと、シクシクと声もあげずに泣くミカ様が階段を下りてきたのだ。
「どうした?眠れないのか?」
秘書の問いにコクリと頷く彼女は「雷も、風の音も、雨の音も怖いの」と小さな声で呟く。
きっと私たちに頼らず、ユニと一緒に寝ようとギリギリまで頑張ったのだろう。
しかし寝室は雨戸が閉めてあり、外の様子が少しも分からないから、大きな音によってより怖い想像が膨らんでしまうのかもしれない。
「おじさんたち、一緒に寝て……ほしい」
泣きながら頼まれると、要望に応えて差し上げたくなる。
こんな台風の夜にしてあげられるのは、それくらいだから。
秘書を見ると、同じことを思ったようで「皆で一緒に寝るか」とミカ様の頭を撫でながら呟いた。
「では、私は今一度戸締りと火の始末を確認し、二階に上がります。アナタは先にミカ様をお二階へ」
「あぁ。そうする」
私が五分ほど遅れて二階へ上がると、坊ちゃんがお使いになる予定のキングサイズのベッドの上に、奥から秘書、真ん中にミカ様、ミカ様の足元にユニが横になっていた。
「執事のおじさんは、ここだよ」
一番手前を示され、私は「失礼します」と緊張しながらベッドに入った。
主人である坊ちゃんのベッドを、私のような執事が使わせていただくとは、大変恐れ多く恐縮なことだ。
左右に私たちを配置したミカ様は、不安が去ったようで満面の笑みを見せている。
「ねぇ、ミカがここにいる間はみんなでこのベッドで寝よう!約束ね、おやすみ」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
とんでもない約束をされてしまった気がするが、否定せぬまま、キングベッドの上で川の字になって眠りにつく。
普段なら寝つきの悪い私も、皆で眠るという安心感からか、すぐにウトウトとした眠気に包まれた。
—
朝方私は、滅多に見ない夢を見ていた。
半ズボンを履いた小さな少年が、私の前に現れて笑いかけてくる。
「ねぇ、一緒に遊んで」
夢の中では、私も少年になっていて「いいよ」と答えた。
どうやら私のほうが少し年上のようだ。
私たちは何をするでもなく、お屋敷の中を笑いながら走りまわる。
少年が庭に出たので、私も追いかけるように外へ出た。
するとそこにはもう一人、タンクトップを着た少年がいて、そこからは三人で大きな庭を駆けまわった。
木に登ったり、トンボを捕ったり、芝生に寝転んだり。
半ズボンの少年は、私とタンクトップの少年を兄のように慕ってくれる。
それがうれしくて、うれしくて……。
夏の夕暮れなのか、森ではひぐらしが鳴き、空は夕焼けで茜色に染まっている。
楽しくて、楽しくて、私たちは下の名前を呼び合って、暗くなるまで遊んだ……。
夢の終わり頃には、もう意識が浮上し始めていた。
(いつまでもこの幸せな夢から目覚めたくない)
そう思ったけれど、結局私は起きてしまう。
目を開けると、すぐ横に白くふさふさしたものがあり、一瞬ここがどこなのか分からなかった。
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