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第25話 一口分口移しで

 生田は後片付けを終えたあと、八乙女に礼を伝えてマンションを出た。  送ってあげるよという誘いを固辞したのは、家にまではあがりこまないよという彼の言葉を信じられるほど、お人好しではなかったからだ。  だとして、一人で待つとなると手持ち無沙汰ではある。  夕方までかかると言っていたから、何か手料理でも振る舞ってやろうか。  呼んでもらったタクシーの中で思いつき、それならばと、乗り換えた電車が到着した先でスーパーに寄って、タクシーで久世家へと向かった。    祖父は首相で、父は経営者だと聞く。  その父に呼び出されたと言っていたから不在だと思うが、彼の母のほうは在宅しているかもしれない。  一度来ていると言っても離れに通されただけでは、見知らぬ訪問者である。真っ直ぐに離れへと向かうわけにはいかない。  悩む以前の問題なわけだからと覚悟を決めて、インターホンを鳴らした。  すると、拍子抜けしたことに出迎えたのは女中の(まき)だと名乗る初老の女性で、「透様から伺っております」と聞いて離へと案内を受けた。  さらには、遠慮がちに中で料理をしてもいいかと聞くと「ご自由にお過ごしいただけるように言付かっております」と言われる始末で、なんとも呆気なく彼の部屋に通されたのだった。  到着したのは午後二時過ぎ。  先に手間のかかる筑前煮から取りかかることにして、その他に地元の郷土料理である、けの汁とたらの子和えを作るべく調理を開始した。スーパーで活きの良いのどぐろも見つけたので、煮付けも添えるつもりだ。  和食ばかりになるが、その点は勘弁してもらおう。  洋食も作れるとはいえ、せっかくなら無理に挑戦するよりも手慣れた得意料理を味わってもらいたい。    気合を入れて調理を始めた生田は、日が沈むまでのあいだ、休憩するのも忘れて没頭していた。  そのため、彼が帰宅したことどころかドアを開けても気がつかず、いきなり声を耳にして飛び上がるほど驚いたのだった。 「……美味そう」 「わ! 帰ってきたんなら言えよ」 「ああ。ただいま」  ぼーっとした様子の彼は、疲れているのか何やら目を潤ませている。 「勝手にごめん。ご馳走食べてきただろうけど、御曹司を相手にできることなんて他に思いつかなくて」 「雅紀が来てくれただけでも十分なのに……」  その言葉を信じるなら、目を潤ませているだけでなく震えてさえいるのは感激しているからかもしれない。 「着替えてくる」  そう言い残して、彼は足取り早く消えていった。  よほど空腹なのだろうか。  だとしたら温かいうちに食べてもらいたいと思い、完成した料理をテーブルへ運ぶことにした。  数分とせずに戻ってきた彼は、その美貌を喜びに輝かせ、席についたあとも目で楽しむかのごとく料理を眺め始めた。  彼は珍しくもラフな出で立ちで、チノパンぽいパンツにベルトもせず、シャツはロンTのうえに羽織っただけである。  なんというか、ちょっとエロい。  着崩しただけで色気が出るなんて、美貌とスタイルのなせる技か、恋を自覚した目を通したがゆえか。 「日本酒も買ってきた。妙に取り揃えがよくて、地元の酒もあったから」 「それは嬉しい」  顔をほころばせた彼は艶めいてさえ見える。  くそ。料理どころじゃない。彼のほうを食べてしまいたくなるじゃないか。  酒は冷やのままで言いというので、さっそくおちょこに注ぎあって食事を始めた。  つくった料理が、品のよい所作で形の良い口元へと運ばれていく様は、見ているだけで嬉しくなる。  そればかりか一口食べるごとに褒めちぎり、またも旺盛に食べてくれて、手間をかけた疲れなどすべて吹き飛んでしまうほどだった。  ただ、楽しい時間ではあるものの、彼らしくないことが少し気になってしまう。  いつもの彼なら映画の話をボソボソとやりだすはずなのに、映画のえの字も切り出そうとしないのである。 「そう言えば、『悪霊』のドラマがあるって言ってただろ? あれ、見てみたいかも」  だから、柄にもなく自分から振ってみることにした。 「あ? ああ、DVDがある」  しかし、それだけで口をつぐんでしまう。 「なんだっけ? スタヴローギンを演じた役者が『アンナ・カレーニナ』の誰かも演じてるとか言ってなかった?」 「え? ……ああ、えー、そう。ヴロンスキーだ」 「へえ。じゃあ、よほど端正な顔立ちなんだろうな」 「そうだったかな? それほどでもなかった」 「え? そうなの? ロシア版の『戦争と平和』のアンドレイに匹敵するとか言ってような」 「チーホノフ? ……いや、えっと……」  おかしい。絶対に変だ。いったいどうしたのだろう。  もしかしたら呼び出しを受けた用事のせいで会話もままならないくらいに疲れているのだろうか。 「用事は無事に済んだ?」 「ああ、まあ……」 「沖縄から呼び出されるほどなんだからよほどのことだったんじゃない?」 「ああ。西園寺議員の秘書官になることが決まったんだが、昨夜前任者が問題を起こしたことが発覚して……」  どうやら俊介の噂話というやつは事実らしい。  聞くに大変そうでもあるし、やはりそれが理由で上の空なのかもしれない。   「それは、なんとかなりそうなのか?」 「ああ。西園寺が……」  言いかけて彼は視線を落とす。   「西園寺さんが?」 「いや、その、……火消しを手伝ってくれて……」 「へえ。やっぱ姫の苦境は見過ごせないみたいな?」 「……いや」  今度の彼は箸の手を止めて、さらにうつむいてしまった。  嫉妬を誤魔化すための軽口だったのだが、茶化されたのが嫌だったのだろうか。 「……ごめん」 「えっ? 雅紀が謝ることなんてない……それよりもカクテルを」  彼は言いながら立ち上がり、バーカウンターのほうへ向かっていった。  なにやら茶化したせいではないのかもしれない。だとしたら西園寺と何かがあって、それで悩んでいるとか?  生田は考えながら、空いた皿を持ってキッチンへと運び始めた。  鍋に火をかけて沸騰させつつ洗い物に取り掛かる。  じゃぶじゃぶとやっていると、グラスを両手に彼がやってきた。 「ジンフィズ」 「えっ? 透がつくったの?」 「ああ。前に雅紀と店のカクテルを制覇したことがあっただろ? 自分でもつくってみたくなって練習しているんだ」 「まじ? あ、でも今洗い物中だから」  横目に彼を見ながら急いで湯をすすぐ。  一転して浮き浮きとした彼を見てほっとするも、グラスをテーブルに置こうとせず、手に持ったまま待っているため急かされた気になってしまう。  早く味見をしてほしいようだが、だとして数分くらい待ってくれないものか。  いや、だったら彼の手を借りよう。 「じゃあ、そのまま飲ませて」  思いつきで言ってみたところ、彼はびくと肩を震わせた。  動揺している彼がおかしくも、ほらと言って口を突き出してみる。  すると、おずおずと手を震わせながらグラスをつけてくれた。  めちゃくちゃ美味い。  しかし、なんとも名残惜しいことに一口でグラスが離れていく。 「うま! もっと飲みたい」 「……飲みにくいだろ」 「全然」  なんだか恋人同士のようじゃないか?  恥ずかしくも嬉しくなってしまう。 「……どれくらい傾けたらいいかわからないから」  さらに顔を赤らめた彼を見るに、照れているのではと勘違いしたくなる。 「じゃあ、一口分口移しで」  冗談七割、本気三割である。  西園寺とのことで悩んでいるかもしれない彼に対して不謹慎だが、口をついて出てしまった。  恐る恐る彼を見ると、発熱したみたいに顔が真っ赤に染まっている。  冗談ではなく本気のほうで受け取ったっぽい。 「透には西園寺さんがいることは承知してるよ。僕の片思いだ」  それならばと、何気ない口調で言い添えた。  さすがに顔を見て言うほどの勇気はなく、手元のほうへ視線を逸らしたが、二人きりのこの場であんな彼の姿を見たら言わずにはいられなかった。  振られても、急げば新幹線には間に合うだろうし、だめだったとしても駅にさえ行けば漫喫くらいあるだろう。  気まずくなっても逃げ出す先は色々あるはずだ。  そう覚悟のうえで告白したわけだが、一向に彼からの返答がない。  もう洗い物は終わっているというのに、湯は出しっぱなしだ。ぴかぴかのシンクで、掃除をする必要もないのに、磨くふりをしている。    くそ。なんで何も言ってくれないんだ?  湯がもったいない。  手がふやけそう。  どうしたらいいのかわからない。  視界がぼやけ始めている。  断られるのはわかっている。わかってるけど、何かしら答えてくれよ。  しゃっと水の切れる音がして、蛇口から出ていた湯が止まった。  彼の手が視界に映る。いや、おそらくだ。もう前が見えない。 「……片思いじゃないだろ」  彼の声が聞こえたと同時に、腕を掴まれ身体が引き寄せられた。  背が高くすらりとしながらも、たくましく鍛え上げられた彼の身体に。

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