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序章『朝戸風』〜壱〜

 夜の江戸の町を、一人の少年が逃げて行く。  両の瞳には恐怖が浮かび、擦り切れそうな草鞋を履いた足が今にも絡まりそうだ。  パッサパサで艶の無い髪をぼろい布切れで無造作に括って、痩せっぽちで背もそう高くない。  少年は身寄りの無い孤児(みなしご)で、年の頃も分からない。周りの大人たちからは、数えで十五に届くか届かないかだろうと言われていたが。  何なら故郷も自分の名前も忘れてしまった。  二、三年くらい前に落ち目の掏摸(スリ)のおやっさんに拾われてからは、町はずれのあばら家で何人かの兄貴分たちと一緒に暮らしている。  ……否、暮らしていた。  今日は朝から散々だ、と彼は半泣きになりながら一日の出来事を頭の中で思い起こす。  朝っぱらに本所の外れのねぐらから、回向院の出開帳で混雑する両国橋の近くまで無理矢理引っ張られてきて。寄進のたっぷり入った財布を掏ってこい、と兄貴たちにけしかけられたのが今日の巳の刻(午前十時)くらいのこと。  でかい橋の上は下っ腹がすうすうして苦手なのに、掏れなきゃ昼飯抜きだと蹴り出されて。  目星も踏ん切りも付かずにしばらくうろうろしていたところで、恰幅の良いおっさんとひょろっと背の高い兄ちゃんの二人組を見付けた。  多分、商家の番頭と手代という組み合わせだろう。コイツなら行けそうだと思って若い方の懐に飛び込んでみれば、それが一回目の運の尽きだった。  商人どころか、そいつらは何と岡っ引きの親分と子分の二人連れで。  しかも手下の方はとんだ韋駄天も良いところで。しつこく追いかけ回されて兄貴分たちに助けを求めれば、皆揃って「こっちに来んじゃねぇ!」と散り散りになって逃げてしまった。  人混みに紛れて細っこい身体で何とか小回りを利かせ、下っ引きの兄ちゃんを撒けた頃にはとっくに昼過ぎで。すきっ腹を抱えて、這う這うの体で町外れのあばら家に帰ってみれば。  何と、先ほど自分を蹴り出した兄貴分たちが、三人とも斬られて死んでいた。  粗末な小屋の床で、血に塗れてひっくり返った兄貴たちと、返り血を浴びて血走った目の浪人たち。下手人たちが振り向いた時の、ぎらりとした目を思い出して、少年は夕暮れの中でぶるりと身を震わせた。  人間、怖すぎると悲鳴も上げられないもんなんだな、と妙に落ち着いた気持ちで、少年はしばし石のように固まっていた。が、不意に吹いた風に袖を引かれたような気がして。  彼はハッとして戸板代わりの筵を跳ね上げて、夜の江戸の町に走って逆戻りしていた。  川沿いを走って走って街中を抜けて、遮二無二逃げ回ってどのくらい経ったろうか。  隅田川に架かる橋を何度か行き来して、枝分かれした水路を辿って。ここは神田あたりだろうか、それとも深川あたりだろうか。夕闇の中ではそれすらも分からなくなってしまった。  はたと立ち止まって目を凝らせば、川面が薄い月明かりを反射して、切り出された木材がぼんやりと見える。  ここでしばらく休もう。そう思って彼は濃い木の匂いの漂う広場の片隅で腰を下ろす。  このまま一晩やり過ごしたいところだが、おやっさんから今朝早くに握り飯をもらってから逃げ回ってばかりなせいで、腹がくうくう鳴ってしまって堪らない。  ここがせめて飯屋の並ぶところなら裏路地で何かありつけたかもしれないのに、と少年は鳩尾の辺りをさすって両膝の間に顔を埋めた。  それからどのくらい時間が経っただろうか、血の臭いを纏った物騒な足音がだんだん近づいてくる気がして、彼ははっと顔を上げた  そうっと物陰から顔を覗かせれば、先ほどねぐらで見た二人の他にもう一人、合わせて四人の浪人たちが、提灯を手にギョロギョロとした瞳で辺りを見回しているのが見えた。  ヒッ、と盛れそうになる息と悲鳴を両手で抑えて、彼は抜き足差し足でその場を離れようと震える膝で立ち上がる。  木戸番の居る辻から隣町に入って、どこかで暮四つ(午後十時)まで身を隠せれば、その後は町ごとに門が閉じて区切られる。そうすれば、明日の朝までは生きていられるはずだ。  生き汚さにはそこそこ自信がある。  材木置き場に目を付けたらしい破落戸(ごろつき)どもの目を搔い潜って、少年が飯屋のある明るい通りを目指そうと踏み出したところで。  ここでも不運なことに、彼は暗がりに置かれた角材に足を引っ掛けて、盛大にすっ転んだ。 「居たぞ!」 「生きて帰すな!」  ああ殺されるんだ、と思ったところでまたびゅうと風が吹いて。彼は誘われるままに立ち上がり、暗い裏路地を通って足をもつれさせながら必死に走る。  どこをどう走ったのだろうか。ふっと十字路に出たところで、またどちらに行けば良いか分からず。彼は辺りをぐるぐると見回した  不意に「あっ」と誰かの声が聞こえて、少年はそちらの方向へ目と耳を凝らした。  神様仏様、どうか命ばかりは助けてくれますように、と彼は切に祈る。 「……どうした、ユウ?」 「履物が脱げた」  片方が優しく片方の名を呼んで。どこか拗ねたような、色のある声が少年の耳に届く。若い男の声が二人分、揺れる提灯の灯りも二人分だ。 「探すから、少し待ってろ」 「ん、助かる」  耳元を風が強く撫でていく中、彼はそちらに目を向けたまましばらく動けずにいた。  そうしている内にまた後ろからバタバタとこちらに迫る足音が聞こえて、彼はハッとしてそちらへ駆け出した。 「お、たす、け…………」  水を飲むのも忘れていたから、喉がカラカラで声が出ない。  あの灯火まであとどのくらいの距離があるのだろう。声は近いのに、やけに遠く感じる。 「今日はやけに風が強いな」 「……ああ」  灯りの片方が、探し物をするように地面をなぞる。 「あったぞ。ほら、足を出せ」 「おい、子供じゃないんだから一人で履けるって」 「別に誰も見てやしないさ。……ほら」 「……分かった」  片方が片方に下駄を履かせて、彼らはカラコロと足音を響かせながらこちらに背を向けて再び歩き出す。  ああ待って、と声を掛けたいのに、少年の喉はひりついてしまって動かない。 「さっきから何か気になるのか?」 「ああ、何だか向こうが騒がしい気がして……」  二人の話し声が段々とはっきり聞こえてくる。  走り方を忘れたみたいに少年が両手を前に伸ばしたところで、耳の横あたりを鞘尻で強かに殴られた。 「うぁっ……!?」  勢い余って地面に転がって、少年の目の前に火花が散った。暗闇の中で、世界がぐるぐる回っている。 「このガキ、手間取らせやがって!」 「チッ、お屋敷が近いな」 「ここで殺るのはマズい、とりあえず人気の無い川べりに……」  ぐわんぐわんと鳴る頭の中で、太い声が自分をどうしようか、どうしてやろうかと話し合っている。  襟首を猫の子みたいに掴まれて、散々踏まれて袋叩きにされて、逃げ出すことも叶わない。  それでも、生き汚い彼は思い切り息を吸って、喉の張り裂けんばかりに叫んだ。 「たすけてぇぇ!! 誰か、おたすけぇぇええーーーーー!!」  慌てた男のうちのひとりが彼の口元をでかい手で覆って、それも癪だから思いっきりかみついてやった。 「痛てっ、このっ……!」  丸太みたいな腕が後ろから首に回って、がっちりと細い急所を捕らえられた。  ああこのまま締め落とされるのかな、それともポッキリ折られるのかな。そう思って両腕から力が抜けそうになったところで。 「おいテメェら、ガキひとり相手に寄ってたかって何してんだ」  凛とした、若い男の声が耳に真っ直ぐ飛び込んで来た。  何とか顔を上げれば。少年は菩薩様の御顔なんて拝んだことはないけれど、眦を吊り上げたとても綺麗な顔が、月影と提灯のほのかな明かりに照らされているのを見た。 「おい、ユウ……! っと」  続けて背の高い男が綺麗な男に追い付いてきて、こちらを見て剣呑な表情を浮かべている。  あちらは二人で、こちらは刀を携えた男が四人。これは何も見ない振りした方が賢明だし、助けてくれるかな、と少年は諦めの気持ちが浮かんで来た。  今の自分は、汚い子供が盗みか浪人たちに悪戯して、折檻されてるようにしか見えないだろうし。それなら仕方ないよな、と彼は胸の内で自嘲する。  しかし、物事はそう悪い方向には転ばないようで。 「お前たち、その子に何をする気だ?」  十徳を纏った男の瞳は、眼鏡が反射していてよく見えないけれど、声から察するに何だか怒っているようだ。 「ハッ、お医者の先生には関係の無いことよ!」 「こっちの事情だ、すっこんでろ!」 「……何だと?」  侮蔑の目で吐き捨てて。浪人たちが無情にも少年を引きずって行こうとしたところで、彼はパッと手首を掴まれた。  線は細いが、しっかりした男の手だ。  近くで見たら、薄明りに照らされた白い肌に役者みたいに目元に差した紅が映えて、やっぱりきれいだなぁ、と少年は場違いだが素直にそう思った。  浪人たちが怖くないのだろうか、派手な着流し姿の若い衆は、切れ長の目を眇めて問いかける。 「おうおう旦那方。こんな年端の行かねぇガキひとりを大勢で連れてく事情とやらを、こっちに聞かせちゃくれねぇのかい?」 「テメェにゃ関係は無えっつってんだろ、このイロめ!」 「ああ、そうかい! ……っと!」  一人の浪人が色男の襟を掴んだその瞬間、少年の何倍かはありそうな男の身体は宙を飛び、近くの土壁に頭から突っ込んだ。  手妻を見たことは無いけれど、もしかしたらこんな風なのかもしれない。と、少年は信じられないものを見る気持ちでその光景を眺めていた。 「このっ……!!」 「ユウ!」  刀を抜いた男たちの前で、ユウと呼ばれた青年は羽織の背中側に腕を回し、正眼にひたりと何かを構える。  一尺ほど伸びる棒状の影に、手元から夜風に房飾りが揺れている。青年が何を取り出したかは暗くてよく見えないが、向けられた男たちが少々たじろぐのが分かった。 「手出しすんなよ、先生」 「……ああ、なるべく善処する」  これから大立ち回りが始まろうってのに、お医者の先生が手出しなんてするんだろうか。  そう思ったところで、ぱっと少年の首に回されていた腕が離れ、ざりりと男が鞘から刀を抜く音が聞こえた。  微かにだが、鉄の臭いが鼻先を掠める。 「遊び人風情が、武士である我らにそんな物を向けおって! タダで帰れると思うなよ!」  そうして大上段に構えて突っ込んで来た先鋒の男の懐に、青年はひらりと飛び込み。太い胴の横三枚に思い切り一尺の鉄棒を叩き込んだ。 「ぐぁっ……!!」  おそらく肋骨が折れたか、というくらいには鈍い音がした。 「こいつ!! ……ぎゃっ!!」  気付けば先ほど投げ飛ばされた男が、もっぺん地面に転がされて伸びている。まるで昔見た芝居のような、現実とは思えない光景を少年は呆然と見つめる。 「そっちから先に斬り捨てちまえ!!」  見られたからには面倒だ、と残りの二人は動けない少年を一旦捨て置いて。お医者様の方に向かって斬り掛かっていく。  ああ、危ない! と少年が目を見開いたところで、長身の医師はすっと腰の刀を抜いた。多分刃渡りは二尺もない、護身用の脇差だ。 「ハッ、お飾りの道中差しで何が出来る?」 「父上からは一応堀川物と聞いているんだが……」 「抜かせ!!」  業物として通った刀の名に、煽られた男二人が突っ込んで行くが。それも一瞬のことで。  一方の刀を軽くいなして小手に峰打ちで叩き落とし。もう一方は軽々と弾き返して、その首元すれすれへひたりと鋒を向けた。  思わぬ剣技に、彼らの身体がわなわなと震えている。  これがもし打刀の長さだったら、今頃そいつの首と胴はスッパリ泣き別れしていたに違いない。 「目録を頂いている身で辻斬りに負けたとなれば、師匠に破門されてしまうからな」 「チッ、免状持ちか」 「無駄に良い家に生まれたものよな……!」  知略か剣の腕か、はたまたその両方か。不利を悟った四人は互いに目配せし合い、退くぞ、と打たれた場所を引きずるようにして去っていく。  派手な青年の背に庇われながら、少年は呆然と向こうの辻に消える彼らの背中を見送っていた。 「おれ、いきてる……?」  助かった、助けてもらえたと自覚したら頭がくらくらとしてきて、少年は安堵の息を吐いて目を閉じる。 「おい、大丈夫か!? しっかりしなさい!!」  刀を納めたお医者様が助け起こしてくれるのは分かったが、彼は空腹と頭の痛みを訴えるのも億劫になってきて、そのまま意識を手放した。 ***  どこからか声が聞こえる。  優しい、明るい、落ち着いた、誰かの声だ。  記憶の片隅を掘り起こすような不思議な声の主が気になって、彼は手を伸ばす。  ずっと昔に忘れた名前を呼ばれたような気がする。  そうしてふっと意識が浮かび上がったところで、声の渦は遠のいて消えていった。 「おっ、気が付いたか?」  朝の光が目に眩し過ぎて、少年はしぱしぱと目を瞬かせた。  ぎゅっともう一度目を瞑ってまた開けば、目の前で整った髷に眼鏡の男が微笑んでいた。声からして、昨日の二人組のうちの「先生」と呼ばれていた方だろう。  そう思ったところで、彼はがばりと身を起こして布団を捲り上げた。  いつの間に着替えさせてもらったのか、昨夜まで着ていたボロい古着じゃなくて。だぶだぶに大きな浴衣から、棒切れみたいな脚と出っ張った膝小僧が見えた。  両脚はある、生きてる……!!  しかし今度は頭がぐわんと痛んで、彼は眩暈と共に再び後ろに倒れ込んでしまう。 「おっと!」  眼鏡の先生が少年の背中を支えてくれて、少年は思わず緊張に身を固くした。 「頭を打たれたんだ、無理はするな」  黒い十徳を羽織って顔には鼈甲縁の眼鏡と、いかにもお医者様でございといった格好だが、ゆっくり布団に寝かせてくれる腕は意外にも逞しいもので。  そう言えば……、と彼は昨日の剣捌きを思い出す。  ここはどこだろうかと目だけできょろきょろと身の周りを探れば、天井の板目と、壁際には引出しのいっぱいついた棚が、その反対側には土間と、鉄瓶の置かれた長火鉢が目に入った。  どうやら自分は本当にお医者様に拾われたらしい。  そこまで確認して、助かった、と彼は身体中の力が抜けていくのを感じた。 「水は飲めるか?」  言われて微かに頷いたら、先生がまた彼の身体を支えて温かい湯呑を口元に近付けてくれて。えっ、と口に含んだ水の甘さに彼は目を見開く。  いつぞやの縁日でほんの少し舐めさせてもらった冷や水よりも、ずっと甘い。砂糖なんて高価な品、自分じゃどんなにひっくり返ったって手に入りようが無いのに。  だけどそのふくよかな甘味の誘惑には抗えず、結局彼は湯呑に三杯の砂糖湯をおかわりして飲ませてもらった。  そっと布団に寝かされて天井を見ていると、甘い水のおかげか、ようやく身体に血が巡ってきた気がする。  無一文の孤児なのに、こんなに良くしてもらえるはずがない。やはりここはお医者様のお家じゃなくて極楽浄土じゃなかろうか、そんな気がしてきた。  さてこれからどうしたものかと考えたが、昨夜から続く空腹と浪人たちに甚振られた痛みで頭が上手く働かない。  しばらくぼーっとしていたら、遠くでキャッキャッと子供が騒ぐ声が近付いてきた。 「先生ぇ~~!! おはようございま~す!!」 「おはようございます、良庵せんせぇ!!」  甲高い男の子たちの声と共に、スッパーンと戸板が音を立てて開いた。  その音はちょっと頭に響くから勘弁して欲しい。 「おはよう、今日は怪我人が寝ているから静かにね」  しー、とお医者の先生が人差し指を立てながら土間へと降りていく。優しい笑顔で注意されて、二人の男の子は小さな両手で口元をバッテンに覆ってうんうんと頷いた。  その様子を横目でちらりと見て、少年は布団を頭からかぶって土間に背を向けた。  良く似ているから兄弟だろうか、仲良く手を繋いで、頭頂部でちょこんと結った髪に片方は褪せた藍鼠の、もう少し小さい方は草色の縞柄の着物を着ている。  きっと母親が古着を仕立て直してくれたんだろうな、と布団の中で彼はそう思った。 「良庵先生、今日はご用はありますか?」 「おいらたち、ごようききにまいりました」  奥の床の人を憚ってこしょこしょと御用聞きをする子供たちに、良庵先生と呼ばれたお医者様はふふっと微笑んで、懐から何枚かの銭と書き付けを取り出した。 「じゃあ、金太はあさ屋のおりょうさんに、今日の朝ご飯は三人分でお願いしますって伝えてくれるかな?」 「はい!」 「仁助は裏長屋の重蔵親分にこの手紙を届けてくれるかい?」 「あい、わかりました!」  小さな兄弟はこちらへの配慮はすぐに忘れてしまったらしく、名前を呼ばれて元気に返事をしている。 「二人とも気を付けて行きなさい。それと、寺子屋へは遅れないように」 「大丈夫です、おいらも仁助もかけっこは速いんで!」 「おいら、いつか吉次にいちゃんみたいな“いらてん”になるんだい!」  まだ舌っ足らずに韋駄天になると豪語する弟の手を引っ張って、一平はぺこりと頭を下げて駆け出して行った。  やかましいなと思っていたが、こうしてピイピイ囀るのが居なくなると少し寂しい気もする。 「騒がしくてすまないな」  裏長屋の子供たちは、寺子屋に行く前にこうして小遣い稼ぎをしているものらしい。  ようやく自分で身を起こした少年に、お医者の先生は眉を下げて笑いかける。年の頃は読めないが、多分三十路にはいかないか、もしかしたらもっと若いかもしれない。 「いえ、俺の方も世話になりっぱなしで……」 「別に構わないよ」  今度は砂糖抜きの白湯を差し出してくれる先生の真意が全く読めなくて、少年はこの湯呑を受け取っても大丈夫なのだろうかと戸惑う。  自分に出せるものなんて、何も無いのにな。  そんな彼の葛藤に気が付いているのかいないのか、先生はカサカサの手にぬくい湯呑をしっかりと握らせて口を開いた。 「申し遅れたが、私の名は良庵という。見ての通り、ここで町医者をやっている」  先生がそう名乗った途端、奥の襖がスパンと開いて、派手な袷を着流しにした男が顔を覗かせる。昨夜月明かりと提灯の灯りの中で見た、あの夜叉みたいに強くて菩薩みたいに綺麗な男だ。 「あっ、あの……!」  どぎまぎと口を開こうとする少年を、男は切れ長の流し目で一瞥するなりニヤリと口の端を吊り上げた。 「おっ、生きてたか、チビ」  第一声がこれで、少年は一瞬で顔を引き攣らせた。コイツに見とれて神様仏様だの何だの思った昨夜の自分をどやしてやりたい。  しかし、この人たちが命の恩人であることに変わりは無い。 「昨夜はそのぅ……、危ないところを助けて下さってありがとうございました」  まだあちこち痛むのを我慢して正座して頭を下げると、良庵先生がまだ無理をするなと肩に手を添えてくれる。  それを見た美形野郎はフンと詰まらなさそうに鼻を鳴らして、どっかと彼らの前にあぐらをかいて口を開いた。 「俺はここらじゃ“(くれなゐ)の夕吉”って呼ばれてるモンだ」  なるほど、先生が昨日「ユウ」と呼んでいたのは、夕吉の「夕」だったのか。と少年は合点した。 「……で、お前の名前は?」  色白の青年の目尻に寝乱れた髪が一筋二筋かかって、妙な色気と迫力を醸し出している。その眼力に気圧されそうになりながらも、少年はぐっと唇を噛み締めて何度も首を横に振った。 「忘れました!」  彼の答えに二人は訝し気に視線を交わす。次いで、紅を刷いたような唇が矢継ぎ早に身の上を問いただしてきた。 「生まれは?」 「それも忘れました!」 「歳もか?」 「それも……!」 「親の名も?」 「なんもかんも忘れました!」 「まあまあ、そこまでにしないか」  良庵の執り成しで何とか身元への詰問は仕舞いにしてもらえたが、少年は射貫くような夕吉の視線が怖くて顔が上げられない。 「あまり怪我人を興奮させるなよ、夕」 「……チッ、分かったよ」  ようやく鋭い両の眼から解放されて、少年はやっと肩の力を抜いた。  梅の頃はとうに過ぎたが、まだ桜はほとんど蕾だという季節。なのに、背中は汗でびっしょりだ。 「質問を変えるぞ」  口を開いた夕吉の容赦の無さに、いやまだ尋問するのかよ、と彼は思わずしょっぱい表情を浮かべそうになる。  お手柔らかにしておけ、と良庵先生は苦笑しているが、相方を止める気は無いらしい。 「昨夜、俺たちと会う前に何があった?」  聞かれて、今度は別の意味で額から汗が伝うのを感じた。  本当は昨日の夜に見た光景を話してしまいたい。でも、この人たちを信じても良いのだろうか。そんなことをぐるぐると考えていたら、また頭が痛くなってきた。 「落ち着くまで少し時間を置こうか」  そう言って良庵は鉄瓶を傾けて茶を淹れてくれる。香ばしいほうじ茶に、少年はほっと息を吐く。  夕吉はふてくされたように茶を啜りながら、手近にあった草紙をパラパラと捲っている。中身は漢字ばかりで読めないが、何やら図形と謎解きのような問題が並んでいるのがちらりと見えた。  一晩で随分と身の周りの状況が変わっちまったな、と少年はぼんやりと湯面を見ながら考える。  土間では先生がご飯と味噌汁を用意してくれていて。ほっかり漂う湯気の香りが、こんな時だってのにまた腹をちくちく刺激してきた。  ふと昨夜のことを思い出してみれば。  この紅の夕吉と町医者の良庵先生は、見た目に寄らず、屈強な四人の浪人たちを前に一歩も退かず。それどころか逆に相手を退けてしまったのだ。  この二人、一体どういう関係なのだろう。それに、あの腕っぷしの強さは……?  逃げたい気持ちは、まだちょっぴりあるけれど。優しく世話を焼いてくれた良庵先生に、何も返さずに居なくなるのはやっぱり気が引けるよな。  そんなことをつらつらと考えていたら、玄関の前で誰かが話す声が聞こえてきた。  渋い男の声とそれに続く若い男の声に、何となく嫌な予感を覚えて、彼は思わず生唾を呑み込んだ。 「ごめんくださいよ、良庵先生。お、(くれ)さんも……」 「おはようございます。今朝の出前は三人分とお聞き、して……」  見れば、昨日散々に自分を追いかけ回した岡っ引きと、出前の岡持ちを持った下っ引きが、戸口に立っていた。 「………………。」 「……………………。」 「…………………………。」  暫しの間、彼らは無言で見つめ合う。  最初に動いたのは、あの韋駄天走りの下っ引きの方だった。 「お前、昨日のスリの……!」 「ひぇっ!」  布団から飛び上がって湯呑も放り出して、少年はせめて奥の襖の方へ逃げようとバタバタと立ち上がる。  ……が、悲しいかな。ただでさえ足りない身の丈に結構な体格の先生の浴衣を着せられていたせいで、長く引きずっていた裾を踏んづけでしまった。 「ふぎゃっ!」 「おいおい、大丈夫か?」  べしゃっと畳の上に転げてしまった彼に、良庵が慌てて駆け寄ってくる。 「俺、厄年なのかなぁ……」  涙目で呟く少年に、紅の夕吉はけらけらと笑っている。  本当に、昨日から散々だ。と少年はどこかで聞いた『泣きっ面に蜂』の言葉の意味を噛み締めていた。 ***  思わぬ再会とドタバタ騒ぎがようやく落ち着き、良庵先生に擦り剝いた鼻の治療までしてもらって。  そして今、彼は朝食の膳を前に正座したまま固まっている。  目の前には先生が炊いた白いご飯と刻んだ菜っ葉を入れた味噌汁に、出前の岡持ちから出した煮しめと香の物が並ぶ。  朝からおかず付きという今までに無い豪勢なもてなしに、少年はやっぱり何か裏があるんじゃないかと、そろそろ恐ろしくなってきた。  出された箸にも椀にも手を出せないでいたら、向かいでポリポリと糠漬けを齧る夕吉の野郎に鼻で笑われた。 「拾ってきたばっかの猫みてぇだな」 「お前には言われたくないと思うぞ? 夕」 「……うるせぇよ、先生」  含み笑いを浮かべる良庵をじろりと睨んで、夕吉は残り少なくなった飯椀に湯を注いでさっさと掻き込む。  美人という生き物は、どうやら湯漬けを食べる姿まで様になるらしい。  夕吉の態度には少々むかっ腹が立つが、くぅ、と鳴った腹が恥ずかしい。こうなりゃ背に腹は代えられないと、少年は「いただきます」と両手を合わせ、まだ熱い汁椀を持ち上げた。 「うまい……、です」  一口啜れば、青菜と味噌の香りと塩っ気が身体中に沁み渡って、思わず涙がこぼれた。  ひとつひとつ噛み締めた甘い米粒も、醤油と出汁を吸って濃い色になった染み染みの大根も、気付いたら夢中になって平らげていた。 「ごちそうさまでした」  こんなご馳走はいつぶりだろう、と少年はしゃくりあげながら思った。腹の内が温かくなって、胸がぎゅうっとなって。  この人たちなら信じても良いかな、良いかもしれない。と彼はぐしゃぐしゃになった顔を借り物の浴衣の袖で拭いながら、そう思った。 【続く】

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