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 生物部の部員は俺と田村先輩の二人だけだった。俺が一年の時にはそれなりの人数がいた気がするけど、受験やバイト、他の部との掛け持ちをしていたやつもいて、気付けば二人きりだ。  当然田村先輩が部長で、俺が副部長。俺たちは普段の成績も悪くなかったし、制服も着崩すようなことはしないからか、真面目だと思われている。顧問は放任主義でめったに部室に現れない。放置しても問題を起こすことはないと思われているのだ。  それをいいことに、田村先輩は部室にこっそりと電気ケトルを持ち込み、コーヒーを飲んでいた。安いインスタントの匂いが部室に漂う。それと、水槽の水の匂い。どちらもこの部屋を象徴するものになっていた。 「俺、県外の大学受かったから」  田村先輩が言った。 「それはおめでとうございます!」  嘘じゃなかった。めでたいとは思っている。ただ、少し寂しいだけで。 「県外ってことは、一人暮らしですか?」 「ああ。大学の近くの安いアパートを探してる」 「そっかぁ。先輩、家事出来るんですか?」 「料理は少しな。掃除は……あんま自信ないけど」 「掃除も頑張りましょうよ」 「そうだなー」  沈黙が幕のように降りた。水槽のポンプが動く音が妙に大きい。電気ケトルが鳴った。田村先輩はまた安いインスタントのコーヒーを淹れている。 「なあ、篠原」  インスタントコーヒーを混ぜながら田村先輩が言う。 「このケトル、お前にやるよ」 「え、持って行かないんですか?」 「ああ。もっと早く沸くやつ買ってもらうから」  ケトルをもらってもな、と俺は思った。先輩が何かをくれるというのは嬉しい。この人はもうすぐ卒業していなくなってしまう。記念にもらえるものがあるなら大事にしたいけれど、それがマグカップでもスプーンでも、ブレザーのボタンでもなく、ケトルとは。 「これもらっても……部室、なくなっちゃいますし」 「持って帰って家で使えば」 「ケトルくらいうちにもあるので」 「自分の部屋に置けばいいじゃん」 「でも……持ち帰るにはでかいんですよ」 「それもそうか」  また、沈黙。でも気まずいとは感じない。コーヒーを飲みながら本を読む先輩の隣で、俺は宿題を始める。学校にいるうちに片付けてしまえば、家ではゲームができるし、先輩に教えてもらうこともできるから。 「ところで、ふくちゃんどうする?」  ふくちゃん、というのは、この部室で飼っている青いベタの名前だ。生物部がなくなった後、メダカの水槽は学校が引き取ってくれることになっているが、ふくちゃんは引き取り手を探すか、水槽ごと持ち帰ることになっている。 「俺、引き取れないぞ。一人暮らしになるし」 「そうですよねぇ」  となると、俺の家で飼うことになるのか。青く美しい熱帯魚は、そんなことなど知らずに泳いでいる。 「まあ、ベタは大きな水槽が要らないから、家で飼ってもいいんじゃないか」 「問題は運ぶ時ですね。水温が下がりすぎないといいけど」 「一応、吉田先生にもう一度聞いてみてもいいかもな」  来ないとはいえ顧問ではある。相談してみた方がいいか。 「そうですね。まだ寒い時期に移動させるのは心配だし……」  コーヒーを飲み終わった先輩がカップを洗う。大きなマグカップは茶渋が残っているけれど、それがここで過ごした時間の証明のようで、俺はできればケトルよりマグカップが欲しいと思ってしまった。 「なあ、篠原」  呼ばれて、ノートから顔を上げた。 「お前さ、大学はどこ行きたいとか、決まったか?」 「えっと……まだ、迷ってて」  もうすぐ三年になるというこの時期に志望校が決まっていないことに、俺は少しだけ焦っていた。成績か、やりたいことか、それとも、通いやすさか。学費の負担もあるから、あまりわがままは言えない。 「先輩は、結局、どこの大学に行くんですか」  なんでもないことのように尋ねた。本当は追いかけたいと思っていた。同じ学科じゃなくても。いや、同じ大学じゃなくても。田村先輩の近所で暮らせたりしないかと。 「あー。俺はほら。前に言わなかったっけ——」  先輩が口にしたのは、今の俺の成績だと難しい国立大の名前だった。 「森林科学科に行きたくてさ。面白そうだなって」 「先輩らしいですね」  生物部では魚を飼っていたけど、田村先輩は植物が好きだ。以前、将来は樹医になりたいと話していたこともある。 「篠原は? 何かしたい勉強とかないの?」 「俺は……」  少し考えて、言った。 「カラス、とか。野鳥の研究は興味があります」  嘘でもないけれど。先輩が進学する大学に、カラスの研究室があるというのを知っていたから出た言葉だった。調べていたのだ。その大学の名前が先輩の口から出た時に。 「いいんじゃないか、カラス」 「でも、今の成績だと、ちょっと」 「そんなの、まだこれからだろ」 「そうだといいんですけど」 「塾とか予備校とか行かねぇの?」 「行ってますよ。部活がない日に」 「ふぅん。じゃあ、俺が卒業したら塾の日増やせよ。部活、なくなるんだから」  卒業したら。そう本人に言われると、寂しさが形を持ったような気がした。 「……そうですね。そうします。親がいいって言えばですけど」  ***  結局、ふくちゃんは顧問の吉田先生が引き取り、俺には先輩がこっそり持ち込んだケトルをこっそり持ち帰るというミッションが発生した。よく考えたらあのケトルは学校の備品でも部費で買ったものでもないので、存在を隠さなければいけないのだ。いや、たぶんもうばれているとは思うけど、建前として。  ふくちゃんとメダカの水槽は生物部の部室から科学準備室に移された。移動は大変だった。何せ人手がないから。それでも、吉田先生と田村先輩と三人で作業するのは最後だと思えば楽しかった。  俺は勉強の時間を増やした。田村先輩が入学する国立大を志望校として定めたのだ。担任には頑張れば十分届く範囲と言われ、それなら諦めたくないと思った。  三年生の卒業が間近に迫り、自由登校になった田村先輩は、あまり学校に来なくなった。新生活の用意が忙しいのかもしれない。  なんとなく、学校全体が浮足立っている。ひとつの区切りがすぐそこまで来ていた。  白い電気ケトルを持ち帰った俺を、母は訝しげに見ていた。部活の先輩からもらったと言えば、どうしてそんなものをと言われた。でも。これは田村先輩と俺の、あの部室で過ごした時間の記念品だ。俺は自室にケトルを置いた。安いインスタントコーヒーは思ったより高くて、でも、それも買った。田村先輩の気配が少しだけ俺の部屋に宿った。  部室の最後の片づけの日、俺は思い切って田村先輩に頼んだ。 「先輩。そのマグカップ、俺にくれませんか」 「別にいいけど……こんなもん、どうすんの」 「コーヒーを飲みます」 「もう、部室もなくなるのに?」 「家で、あのケトルで、このマグカップでコーヒーが飲みたいです」 「でも篠原、そんなにコーヒー好きじゃないだろ」 「それは……受験勉強中は、飲むと思うので」 「そっか」  田村先輩はにやっと笑った。 「じゃあ、これはお守りだな。俺が志望校に合格したように、お前もちゃんと受かりますようにっていう」 「そうです」  こうして俺は、田村先輩が使っていたマグカップを手に入れた。  そして、卒業式当日。 「田村先輩。俺、先輩と同じ大学に行きます」 「ああ、待ってる」 「あのマグカップをお守りに頑張るので」 「篠原ならできるよ」  田村先輩は笑ったけれど、その笑顔は寂しそうに見えた。 「先輩。俺……」  情けなく声が震えた。視界がにじむ。ああ、みっともない。 「泣くなよ」 「はい。すみません。おれ」  ぎゅっと、こぶしを握った。今、言わなければ。言えなければ。次に会えるのがいつかなんてわからない。なのに、言葉が出てこなかった。 「なあ、篠原」  田村先輩が言った。 「お前さ、あのマグカップ返しに来いよ」  田村先輩が、手を伸ばす。俺の頭をぽん、と撫でて。 「待ってるから。ほんとに。同じ大学で会おう」 「……はい」  それから、田村先輩はにやりと笑った。 「お前の告白は、大学に入ってから聞かせろよ」  俺の顔は真っ赤になった。きっと、耳まで真っ赤になった。  電気ケトルとマグカップと、俺の気持ちと。先輩は全部置いていってしまったけど。置いていかれたものを届けたいと思うから、俺は今、必死に勉強している。

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