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謎の美しい男
凪は憂鬱だった。
昔は炊事場に流れ着く温泉も豊富だったのに、今は小さな池のようだ。最早この温泉も止まってしまうのではないか? と不安に感じてしまう程、湯量が少ない。
今まで手がかじかむことなく洗濯もできたし、汚れた茶碗も洗うことができた。この温泉が止まれば、店の使用人はきっと寒い思いをしながら炊事をすることになるだろう。そう思えば、やはり湯滝村にとってこの温泉は生活に欠かせないものだ。
そして、その温泉をもたらしてくれているのは湯玄である。なぜ湯玄が今更自分を花嫁として求めているのかはわからないが、自分が湯玄の元へと再び嫁げば、源泉はまた豊かな湯を称えるのだろうか。
もしそうだとしたら……。
「でもなぁ……」
凪は洗濯をする手を止めてぽつりと呟いた。石鹸の泡がふわふわと空中を漂っていたから、それを無意識に視線で追いかける。音もなく次々と割れていく泡を見ていると、なんだか不安になってきてしまった。
湯玄に追い返されたあの日以来、凪はずっと「出来損ないの花嫁」と後ろ指をさされ続けている。それはとても屈辱的な日々でもあり、生まれ育った村にいることさえ苦痛に感じられるくらいだった。それでも耐え忍んだのは、十七歳になる日を待ち侘びていたから。湯玄のあの言葉を、信じて疑うことなどなかったのだ。
しかし、現実には遊郭を訪れようとする湯玄を見かけてしまうではないか。自分の気持ちを踏み躙られたような気がした。
そんな思いを凪にさせておいて、今更「また嫁に来い」なんて、あまりにも虫が良すぎる。大体あのとき、自分と目が合っただろう。遊女たちに囲まれて、まんざらでもない様子を見られたことを、気がついていないはずはない。
そんなこんなで、いくら湯の神様だからといって、「はい、わかりました。すぐに嫁に参ります」なんて凪には言えそうにない。
「はぁ……どうしたらいいんだろう……」
「ふふっ。大きな溜息だね?」
「は?」
「何か悩みでもあるのかな?」
突然頭上から声がしたことに驚いた凪は、慌てて顔を上げる。
するとそこには、確かに人がいた。まさかこんな至近距離に人が立っているなんて想像もしていなかった。ぼーっと泡を見ていたから、誰かが近付いてくる気配に気が付かなかったのだろうか?
いや、そんなはずはない。その人物は気配を消して凪に近付いてきたとしか思えなかった。
「……あ、あんた誰だ?」
「ふふっ。突然声をかけちゃってごめんね。泡を眺めている見る君が、ひどく可愛らしかったから」
「……初めて会う奴にかける言葉にしちゃあ、軽いな。あんた、なんなんだよ。変質者か?」
「まぁまぁ、そんなに警戒しないでよ。別に怪しい者じゃないから」
十分怪しいんだけど……そう言いかけた凪は、その男の容姿に思わず息を呑んだ。
凪の目の前にいるのは高身長の若い男だった。逆光が眩しくて思わず目を細めた凪を、男は優しい笑みを浮かべながら見つめている。亜麻色の髪は肩まで伸び、肌は絹のようにきめ細かい。気品に満ち溢れた雰囲気は、男の育ちの良さを感じさせた。まるで女のように美しいその容姿に、凪は言葉を失ってしまう。
湯玄が男らしい妖艶さを秘めた美しさだとしたら、この男は綺麗に咲き乱れる花のように美しい。その繊細そうな雰囲気は、同性である凪の視線さえ簡単に奪ってしまったのだった。
「君の名前は?」
「お、俺は凪。あんたは?」
「え? 僕? ふふっ。ごめんね、今は教えてあげられないんだ」
「はぁ? なんだよ、それ。人に名前を聞いておいて」
その男はこんなにも麗しい見た目をしているのに、ひどく訝しい。凪が立ち上がって真正面から向き合うと、男は無邪気な笑みを浮かべた。善人なのか悪人なのかわからない……凪は思わず身構えて、一歩後ずさった。
「そんなことより、凪は面白いものを持っているね?」
「面白いもの? 別にそんなもの持ってねぇし」
「あるじゃないか? ほら着物の懐に……それ湯石かな?」
「……え?」
凪の背中をぞわぞわっと寒気が走り抜ける。なぜこの男は、凪が湯石を持っていることを知っているのだろうか?
――こいつ、本当に何者だ?
凪は身の毛がよだつ思いがした。
「その湯石は誰にもらったの?」
「…………」
男の問い掛けに答えずにいると、男は一気に距離を詰めて凪の顔を覗き込んでくる。その人形のような整った顔立ちに、凪は恐怖を覚えた。
「もしかして湯玄にもらったの?」
「湯玄様? ち、違う。そうじゃない……」
「嘘だ。だって、この湯石からは湯玄の神力を感じる。珍しいね、あいつが誰かに湯石を授けるなんて」
「そんなことより、あんた湯玄様のことを知っているのか?」
「まぁね」
男が笑いながら凪の懐にしまわれている湯石を着物の上からそっと撫でると、湯石が少しずつ熱くなっていくのを感じた。
――なんなんだ、これは……。
呼吸がうまくできなくて息が苦しい。心臓が早鐘を打ち、眩暈がしてきた。
「君は、湯玄のお気に入りなのかな?」
「……⁉ そんなわけねぇだろ、離れろ……!」
男が凪の頬をそっと撫でたとき、湯石が焼石のように熱くなり、着物の上からでもわかるほどの光を放つ。次の瞬間、炊事場の湯が間欠泉のように勢いよく吹き出した。
「……なんで……?」
「へぇ。これは素晴らしい。やっぱり君は特別な力を持っているんだね」
凪が呆気にとられていると、男は恍惚と湧き出る温泉に見入っている。口角を吊り上げて笑う姿は、先程までの人懐こい笑みを浮かべていた男とは、まるで別人のようだ。
「凪、この湯石を大切にするんだよ。わかったね?」
「だから、一体あんたはなんなんだよ……」
「今は、秘密。今はね。でもまたきっと会いに来るから。待っててね、僕の花嫁」
「花嫁……?」
「うん。凪は僕の可愛い花嫁。絶対に迎えに来るから、その時は湯玄ではなくて僕を選ぶんだよ? じゃあ、その日まで……」
先程までの冷たい表情は影を潜め、また人懐こい笑みを浮かべる男を、凪はただ茫然と見つめることしかできない。
凪は懐から湯石を取り出した。先程のような眩い光は放っていないものの、まだ素手で触ることを躊躇ってしまうくらいの熱を持っている。
「意味がわからねぇ。花嫁ってなんなんだよ……」
いつの間にか空からは雪が舞い落ちてきている。湯石の上に落ちた雪の結晶が音もなく消えていったのだった。
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