61 / 61
椿屋へようこそ
その途中にある、凪の両親の部屋の前でふと足を止める。部屋の障子が開けられており、温かな春風が凪の髪を優しく揺らした。畳を見ると、桜の花びらがうっすらと敷き詰められている。
凪の両親の部屋には、婚礼の時に凪が着ることになっている白無垢が飾られていた。以前作ってもらった白無垢はもう小さくなってしまったから、和助に手直しをしてもらったのだ。
この白無垢が届けられたとき、凪は歓喜に打ち震えたのを覚えている。白無垢には可愛らしい姫椿の刺繍だけではなく、黄色い蝋梅の刺繍まで散りばめられていたのだから。
それを見た凪は、湯滝村と福寿村の復興を心の底から願わずにはいられなかった。
「なぁ、俺は、もう出来損ないの花嫁なんかじゃないよな?」
凪は誰に問うでもなく小さな声で呟く。「立派な花嫁だ」と皆に認めてほしかったのだ。
「出来損ないなんかじゃない。立派な湯の神の花嫁だ」
「湯玄様……」
いつの間にか起きてきた湯玄が、凪を背中から優しく抱き締めて、耳元でそっと囁いた。湯玄の吐息がくすぐったくて、凪は思わず肩を上げる。
湯玄の言葉が嬉しくて、凪の鼻がツンッと痛くなった。
――よかった、俺、湯玄様に会えて……。
凪は、この白無垢を着る日を心待ちにしているのだ。
白無垢に身を包み、綿帽子を被った凪を、湯玄は綺麗だと言ってくれるだろうか?
「そんなことより、凪。もう一度口付けをしよう。こっちを向いて、その可愛らしい顔を見せておくれ」
「ちょ、ちょっと、誰かに見られたらどうするんだよ!」
「構わぬではないか? ここはひとつ見せつけてやろう」
「おい、こら、湯玄様!」
湯玄の腕から逃げ出そうと体を捩る凪の体が、突然すっと軽くなる。「なんだ?」と振り返ると、湯玄を羽交い絞めにしている湯庵がいた。
「あ、湯庵様」
「凪、大丈夫かい? 湯玄に意地悪をされたら僕に言うんだよ? 今みたいに僕が守ってあげるからね」
「離せ! 湯庵! 俺の花嫁に気安く話しかけるではない!」
「凪を虐める奴を離せるものか。このままどこかの山に捨ててきてしまうぞ?」
「なんだとぉ⁉」
そのやり取りがまるで子供の喧嘩のようで、凪は思わず吹き出してしまう。この二人が、本当に皆から崇め祀られている湯の神なのだろうか? そう思うと可笑しくて、涙が出てきてしまった。
ケラケラと腹を抱えて笑う凪を見た湯玄と湯庵が、ぽかんと凪を見つめている。そんな光景も堪らなく可笑しい。
「湯庵様! そろそろ福寿村に出発しますよ!」
「まったく、主役が何やってんだよ!」
「あ、すまん。今行くね」
玄関から聞こえてくる声に、湯庵の表情が明るくなる。こんな風に穏やかな笑顔を浮かべる湯庵を見られることが、凪はたまらなく嬉しかった。
「行ってくるね、凪」
「湯庵様、お気を付けて」
凪は颯爽と玄関へ向かう湯庵を見送る。こんな騒がしい朝が、こんなにも幸せに感じられるなんて……凪の心は熱くなった。
今の椿屋にはたくさんの個性豊かな神々がいて、笑顔で溢れている。
椿屋の温泉や料理を目当てに、湯滝村を訪れる旅人も増えて、昔以上の活気で満ち溢れていた。
源泉の湯が枯れることなんてないし、きっとこの湯滝村は、これから先もずっと豊かな温泉に恵まれ続けることだろう。
「ありがとう、湯玄様」
「は? なんだ?」
「なんでもない」
凪は心に決めている。いつか、この苦しいくらいの胸の内を湯玄に打ち明けよう、と……。
凪は湯玄の手を取り、そっと指を絡める。
もう、この手を二度と離すことがないように……。
「すみません。今日、宿泊することになっているんですが……」
「あ、はい! ただいま参ります!」
玄関から声が聞こえてくる。どうやら、宿泊客が到着したようだ。
凪は湯玄に向ってにっこりと微笑む。そんな凪を見て湯玄も幸せそうに微笑んだ。
「いらっしゃいませ。椿屋へようこそ!」
明るい凪の声が、椿屋に響き渡る。
出来損ないの花嫁は、湯の神と熱い恋をして……多くの人に幸せを運んだのだった。
【完】
ともだちにシェアしよう!

