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今日は朝から――、正確には、昨日の夕ご飯のあとから。俺は浮かれていたんだ。だからうっかりしていたのだ。
「しまった……」
「いや、うっかりしすぎじゃね?」
やっと帰宅できる喜びに、学生服を身に着けた、ピチピチの高校生たちが楽しそうに下駄箱を行き交う。そんななか俺はひとり顔をしかめた。
校内の上履きから通学靴に履き替える。校舎から出られない俺のすぐ隣で、クラスメイトが立派な傘をチラつかせてきた。ひとりで立ち尽くす俺を、見下すような態度でだ。
呆然と立ち止まり、眉を下げた俺の顔は、すごく困っているんだな…、と……。誰が見ても思っただろう。それなのに、真横から優しい手を差し伸べてくれるどころか、突き放された気がしたのは気のせいではないはずだ。
彼はきっと、親切心の欠片も持ち合わせていないのだ。イケメンの無駄遣いとはこいつのことをいうんだろう。
傘をチラつかされて固まる俺へ、遠慮なく呆れ顔を寄越すムダメンを、すぐさま睨みつける。自分ではどうしようもない状況に八つ当たりを兼ねて噛みついた。
「かってに人の心を読むな! 俺だってなぁ、昨日の晩ごはん食べてるときは、傘持ってこようと思ってたんだ! それなのにっ。今日、学校に来るときに、うっかり忘れちまったんだあぁぁ!」
「だからさ……どうやってうっかり忘れられんだよ。昨日の晩から、今日の降水確率は『午後から百パーセントでしょう』ってお天気おにぃさんが言ってただろ……」
それに、朝から天気もすこぶる悪かっただろぉに。と肩を竦められ、アホな子を見る瞳で憐れまれる。
そのとおりだ。俺はいま最大の窮地に立たされていた。高校から自宅まで、徒歩で約二十分。
「ううう、雨やまねぇかなぁ……、なんで、授業が終わったとたん降りだすんだよっ。もぉコレってさ、雨って言わねぇよ、滝って言うんだよ! なんでこんなに、空から水が降ってくるんだぁ……」
「今の時期はさ……、梅雨っていうんだよ。知らねぇなら覚えておきな。じゃ、俺帰っわ。おっ先ぃ~」
人が泣きそうなほど困っているというのに。またも、ドアホな子を優しく見守る眼差しをむけてくる。立ち往生する俺のすぐ横で、自称親友のクラスメイトは傘をさっと広げた。
どうやらこいつはムダメンではなく、人間そのものが駄目なダメメンだったようだ。颯爽と傘をさし、足取り軽く、弱り切った俺を残して校舎から立ち去った。
「はくじょぉーものぉぉぉっ!!」
なんって人非人なんだ! 少々イケメンだからって、友を見捨てるなんてほんっとアイツはダメメンだっっ!! せめて、校門までとかでも、相合傘くらいしてくれてもいいシーンだと思ってたのに!!
ぐぬぬっと怒りに拳を震わせ、ひとりきりになってから、大きくため息を吐き出した。
今日は、誰よりも早く帰宅したかったのだ。こんな日に限って土砂降りなんて……。ほんとに、ついてない。
昨日の夕食のとき、母から吉報を伝えられ、今日が待ちどおしくてならなかった。気が上ずり、なかなか寝付けず、妄想し、寝坊して。あともう少しで遅刻しそうだったのだ。だから傘の存在自体を忘れていた。
俺にとっては傘など微々たるものだった。なにせ今日は家に帰れば、あれほど待ち望んだ存在が、俺を待っていてくれる――。
「――よし。こうなったら……雨でも滝でも嵐でも、突っ走ってやろうじゃねえか!」
次から次に、傘をさしながら豪雨のなかに消えていく学生を、俺もずんずん追いかける。あとに続けと昇降口を勢いよく踏み出した。そのときだ。ふと目の前に、傘をさしたスーツ姿の男が立ち塞がった。
全校生徒が行き来する昇降口は広い。だというのに、わざわざ背の低い俺の前に来なくてもよさそうなんだけど。
それにしてもずいぶんと背が高い。水滴を落とそうとしたのか、傾いた大きな傘が邪魔で顔は見えなかった。俺は不審に足を止めた。
「あの……?」
「傘もささずに、風邪をひくよ。健太 」
まろやかに名前をささやかれて、俺は目を見開いた。どんなに雑音 がうるさかろうと、聞き間違えることなんてない。この、この声は!
「ふぅ兄ぃ!!!」
傘の陰からひょいっと顔をだした、これぞ真のイケメンを、俺は力の限りで体当たり――ではなくて、抱きついた。
「なんでふぅ兄がいんの!? ってか、背、また伸びたんだ?」
「っとと、相変わらず元気だな。半年ぶりくらいか? 俺もついさっき、実家に帰ってきたところだよ」
全力で飛びついたのに、ふらつきなく受け止めてくれる。頼れるこの人こそ俺が待ち遠しくてならなかった相手。
まさか、ふぅ兄からやってきてくれるなんて。ぎゅうぎゅうしがみつけば、ぽんぽんと優しく背を叩かれた。
「ついさっき実家に戻ったらさ。両親ともどっか行っててな。先に、健太ん家 に挨拶しに行ったんだ。そしたらおばさんが、お前のこと心配してて。手が空いてた俺が、迎えを買って出たんだよ」
言いながら、ふぅ兄は手にした大きめの傘を動かす。それを俺は感涙しながら見つめていた。
小さい頃からふぅ兄は、俺のヒーローであり好きな人だ。どっかの田舎町から越してきた、ぽっと出の生意気なガキだと思われがちだった俺に、ふぅ兄だけが仲良く一緒に遊んでくれた。
無敵で素敵な、俺のヒーロー。何年たとうと変わらない。きりりとした目も、スッと伸びた鼻筋も、甘いボイスを紡ぐ口も――。この、引き締まった肉体美も!!
幼馴染で、とっくに見飽きてもいい年上の、彼の全身を舐めまわすように……、あれ、撫でまわすように……だったかな、飽きることなく見続けた。
もしかしたら俺の両眼は、ハートマークを浮かべていたかもしれない。俺の視線に、ふぅ兄が苦笑した。
「帰ろう」
ぽんと背中を押され、ふぅ兄のフェロモンに呪縛されて動かなかった足が動き出す。一緒に校舎を出ようとして、俺はあれっと小首をかしげた。
「ま、待って。ふぅ兄…、傘は……どこ?」
俺は目を丸くさせた。ふぅ兄の手には、大きく重たそうな傘が一本ある。しかし俺の手に傘はない。この豪雨だ、雨もやまない。戸惑う俺に、ふぅ兄はずっしりした雨傘を、俺の目の前でチラつかせた。
デジャブだ。これはついさっき、ムダメンにもされた見覚えのある所作である。まさか、ふぅ兄も……。俺を見捨てて、ひとりで立ち去るつもりだろうか。心配して、迎えに来てくれたと言ったのに肝心の傘がないなんて。
意地が悪いどころじゃない。これはもう嫌がらせのレベルを超えた。不安げに、ふぅ兄を見上げると、俺を見つめるきりっとした瞳が柔和になった。
「一緒に帰ろう。このくらい大きい傘だと、男二人でくっついても変に思われない。二十分だけ、街中で堂々と密着できるぞ」
わざと、おばさんから受け取った健太の傘を置いて、いちばん大きい俺の傘を持って来たんだ――、と。ふぅ兄が笑った。
「ふぅぅにぃぃ……っ」
なんっってカッコイイんだふぅ兄はっっ!!!
どっかの顔だけダメメンとは格が違う! これはもう、男のなかの男だ、真のイケメン認定だと俺は思う!!
「ぅぅぅうんっ!!!」
「ははっ」
ふぅ兄と一緒なら、滝のような雨も苦にならない。いや、むしろこの豪雨に感謝したい。そして『運良く』傘を忘れた自分にもだ。この大粒のあめは、きっと、今の俺には飴玉のように甘いもの。
ふぅ兄が俺の隣にいる、二十分間のひとときだけ……ずっと、雨が降ればいい。少しひやっとする外気のなかで、ふぅ兄の体温を肌で感じ、俺はこっそりそう、願った。
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