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第1話 敵国の王子が、俺を可愛いと言った

「サクマ監査官、右!」 怒鳴り声より先に、トオルは床を蹴った。 倉庫の奥から飛び出した男が、手にしていた薬剤ケースを投げ捨てる。 白いケースは床を滑り、積み上げられた木箱の陰へ消えた。 男はそのまま裏口へ走った。 「止まりなさい!」 止まるはずがない。 トオルは腰のショックバインダーを抜き、狙いを定める。 男が振り返った。 手には短い刃物。 こちらへ向けて踏み込んでくる。 トオルは一歩だけ横へずれた。刃を避け、その手首へバインダーを当てる。 低い作動音。 男の腕が跳ね、勢いのまま床へ崩れた。 トオルはすぐに背中へ膝を入れ、両手を拘束する。 「オメガ保護法違反の疑いで身柄を確保します。暴れると痛みますよ」 「オメガのくせに……!」 「それ、報告書に書いておきます」 男の動きが止まった。 背後から、ゆっくり拍手が聞こえた。 「相変わらず容赦ないな」 ハリー・モリスが倉庫へ入ってくる。 長身のベータ。 共和国保護法執行課の捜査官で、トオルのバディ。 それから、一応。 恋人でもある。 「見ていたなら手伝ってください」 「お前なら一人で片づけると思った」 「刃物を持っていました」 「ちゃんと避けただろ」 ハリーは笑いながら、拘束された男を引き起こした。 軽口ばかりだが、仕事は速い。 男の懐を探り、通信端末と認証キーを抜き取る。 「奥のケースを見てくる。お前はこいつを頼む」 「逆です。俺がケースを確認します」 「薬剤絡みは俺が――」 「オメガ向け抑制剤の違法流通です。監査官の俺が見ます」 ハリーは一瞬、口を閉じた。 それから、仕方がないという顔で肩をすくめる。 「分かったよ。頑固だな」 「仕事ですから」 「はいはい。いい子だから、あまり奥まで一人で行くなよ」 トオルの眉がわずかに動いた。 だが、何も言わずに木箱の陰へ向かう。 白い薬剤ケースを拾い、手袋をした指で認証部を確認した。 表面に傷。 正規の封印は一度剥がされている。 中身は未開封の抑制剤に見えるが、ロット番号が登録と一致しない。 「偽装品です」 「やっぱりか」 ハリーが男を引きずって近づいてくる。 「持ち帰って調べるぞ。お前、朝から何も食ってないだろ。帰りにいつもの店へ寄る」 「報告が先です」 「報告は逃げない。飯は冷める」 「俺は別に――」 「いつものスープでいいな」 聞かれてはいない。 だが、いつものことだった。 ハリーはトオルが忘れがちな食事を決める。忙しい時は休憩時間も決める。抑制剤を飲んだか確認し、遅ければ小言を言う。 周囲から見れば、面倒見のいい恋人だ。 トオルも、そう思っていた。 少なくとも、その時は。 **** 「トオル、右手」 帰宅した途端、机の上からノノが言った。 数年前、蚤の市の隅で動かなくなっていたところを、トオルが持ち帰った古い家庭用AI。 丸い小さな体に、猫ともウサギともつかない長い耳が二本。 製造元も型式もよく分からないが、口だけは達者だった。 「何」 「怪我してる」 「擦っただけ」 「見せて」 「いいよ。自分でやる」 「こういう時だけ一人でできる顔する」 「どういう顔だよ」 トオルが上着を脱ぐと、ノノは机の端まで寄ってきた。 右手の甲に細い傷がある。 男の刃を避けた時、木箱へ擦ったらしい。 「消毒」 「分かってる」 「先に水」 「今やる」 「その前に水」 「どっちだよ」 「両方」 トオルはため息をつきながら、キッチンへ向かった。 狭いワンルーム。 小さなキッチンとベッド、二人掛けの古いソファ。机の端にノノの充電台があり、棚には食器が最低限だけ並んでいる。 トオルは水を飲み、傷を洗った。 ノノが満足そうに耳を揺らす。 「ハリーは?」 「報告書を出したら帰った」 「来ないの?」 「仕事だったし」 「恋人なのに?」 「毎日来る必要はないだろ」 「ふうん」 その言い方が妙に引っかかる。 トオルは振り返った。 「何だよ」 「別に。今日もご飯はハリーが決めた?」 「店に寄っただけ」 「トオルは何が食べたかったの?」 聞かれて、少し考える。 答えが出ない。 ノノの耳が、ぴくりと動いた。 「分かんない?」 「腹に入れば何でもいい」 「それ、好きなものじゃない」 「面倒くさいな」 「ボク、家庭用AIだから。面倒くさいこと言うのが仕事」 「そんな仕事はない」 「今できた」 端末が鳴った。 執行課からの公務通知。 トオルは傷に保護シートを貼りながら、画面を開く。 《ベスタ共和国建国五十周年記念外交》 《アルファス帝国王太子オスカー・グラフ殿下来訪に伴う、宿泊施設および移動経路の特別監査》 指が止まった。 ノノがすぐに覗き込む。 「王子」 「読めば分かる」 「昔、この国を持ってた帝国の」 「持ってたって言うな」 「違うの?」 「五十年前、共和国は正式に独立を認められたんだ」 「帝国が、いいよって言ったから?」 トオルは画面を見たまま眉を寄せた。 歴史の授業では、ベータの指導者たちが平等な国家を求め、帝国と交渉したと習った。 国境では小さな衝突もあった。 それでも帝国は軍を本格的には動かさず、最後には共和国の独立を承認した。 共和国では、それをベータが自ら勝ち取った建国の歴史として語る。 帝国では、どんなふうに教えているのだろう。 「独立は、誰かにもらうものじゃない」 「でも、帝国が認めなかったら?」 「ノノ」 「はい」 「歴史の授業みたいな質問はやめろ」 「トオル、答えに困った」 「困ってない」 トオルは通知を下へ送った。 オスカーの公式写真が表示される。 金に近い淡い髪。整った顔。正面を見据える鋭い目。 いかにも帝国の王子という顔だった。 腹が立つくらい、よくできている。 「敵国の王子」 ノノが言った。 「現在は停戦協定下にある友好交渉国」 「それ、仲良くない国を丁寧に言ってるだけだよね」 「公務では言い方が大事なんだ」 「トオル、顔が嫌そう」 「嫌ではない」 「会いたい?」 「どうしてそうなる」 「写真見てる」 トオルは画面を伏せた。 遅かった。 「見てない」 「見てたよ」 「本人確認だ」 「写真で?」 「事前資料は読む」 「二回拡大した」 「ノノ」 「はい」 「充電残量は」 「話そらした」 トオルは端末を机へ置いた。 ノノは少しだけ楽しそうに耳を揺らしている。 「王子様、トオルの好みかもね」 「好みなんてない」 「ハリーは?」 その質問に、トオルは少し黙った。 「恋人だよ」 「それ、答えになってる?」 「なってる」 ノノはそれ以上言わなかった。 ただ、小さな目でトオルを見ていた。 **** 二日後。 グラスホール・ホテルは、共和国で最も格式の高い迎賓施設だった。 磨かれた床。 高い天井。 建国記念式典のため、共和国旗と帝国旗が並べて掲げられている。 帝国と共和国、双方の警備担当者が行き交っていた。 トオルは宿泊階の壁面端末を確認し、記録と実際の配線図を照合していた。 「東側通路のカメラ、向きが変わっています」 ホテルの管理責任者が顔を上げた。 「清掃時に触れた可能性が」 「固定式です。清掃では動きません」 「ですが、記録には――」 「だから、おかしいんです」 トオルは脚立へ上がり、カメラの基部を確認する。 取り付け部分に新しい傷があった。 通路の端を映すように、ほんの数度だけ角度が変えられている。 わずかな違い。 だが、その角度なら王子の客室前ではなく、非常階段の出入口が死角になる。 「このカメラは止めてください。交換まで通路を封鎖します」 「王太子殿下の到着まで、あと十五分しかありません」 「だから今やります」 「しかし、帝国側へ説明が」 「俺がします」 トオルは脚立から降り、警備員へ指示を出した。 「東側通路を閉鎖。王太子殿下の動線は西へ変更します。宿泊階の通信ログも、過去七十二時間分を保全してください」 壁面端末が一度だけ処理に詰まり、遅れて反応する。 管理責任者が舌打ちした。 「またですか。帝国製の制御基盤へ更新したばかりなのに」 「外装と表示系だけ共和国仕様です。中枢部品は帝国規格でしょう」 「ええ。国内製で揃えるより、結局その方が安定するもので」 言った後、管理責任者は少し気まずそうに口を閉じた。 建国五十周年を祝うホテルで、警備設備の心臓部は旧宗主国製。 珍しい話ではない。 共和国の機器は安価で、現場でも修理しやすい。 だが、演算速度や通信精度では帝国製に及ばない。 それを公の場で口にする者は少なかった。 「制御基盤の動作記録も保全してください」 トオルはそれ以上触れなかった。 「トオル」 後ろからハリーの声がした。 「殿下が来る。細かい傷なら、後で――」 「死角ができます」 「現時点で問題は起きてない」 「起きてからでは遅いでしょう」 ハリーが小さく息を吐く。 「またそうやって突っ走る」 「仕事をしています」 「お前の立場で、帝国側を待たせたら面倒だと言ってるんだよ」 「俺の立場?」 「共和国のオメガ監査官だ。王子相手に角を立てるな」 胸の奥が、わずかに冷えた。 ハリーはたぶん、心配している。 トオルが敵国王子の前で失敗しないように。 共和国が独立して五十年。 対等な国家として王子を迎えると政府は繰り返している。 それでも、帝国を待たせるなという言葉は、誰の口からも自然に出た。 トオルが何か返そうとした時、背後から別の声がした。 「待たせてもらって構わない」 低く、よく通る声だった。 通路の全員が振り返る。 淡い金髪。 黒を基調にした帝国の礼装。 公式写真よりもずっと背が高く、ずっと目立つ。 オスカー・グラフ王太子。 その後ろに、警備隊長らしい男と、帝国側の随員が並んでいる。 トオルは一瞬、言葉を失った。 写真と違う。 いや、同じ顔だ。 同じ顔なのに、動くと駄目だった。 こちらを見て、ほんの少し笑う。 もっと駄目だった。 「サクマ・トオル監査官ですね」 「……はい」 声が一拍遅れた。 隣でハリーがこちらを見る。 トオルは咳払いした。 「東側通路の監視設備に不自然な変更があります。申し訳ありませんが、殿下の移動経路を変更します」 「あなたが見つけた?」 「はい」 「到着前に?」 「そうです」 オスカーは問題のカメラへ目を向けた。 「変更された角度で、何が見えなくなる?」 「非常階段です。そこから宿泊階へ入られると、記録に残らない時間ができます」 「何分?」 「現時点では不明です。通信ログも確認します」 「分かった。あなたの指示に従う」 あまりにもあっさり言われ、トオルは少し拍子抜けした。 「……よろしいんですか」 「専門家が危険だと言っているのに、王子だから無視しろと?」 「いえ」 「なら、遠慮はいらない」 オスカーはトオルの手元へ視線を落とした。 保護シートを貼った右手。 「怪我をしている」 「昨日の現場で少し」 「少しにしては、利き手を庇っているように見える」 トオルは反射的に右手を背へ隠した。 「見すぎじゃないですか」 言ってから、しまったと思った。 王太子へ向ける言葉ではない。 周囲の空気が少し止まる。 だが、オスカーは楽しそうに目を細めた。 「あなたも、さっきから俺をよく見ている」 「見てません」 即答した。 「公式写真と違うと思った顔をしていた」 「してません」 「そう?」 「事前資料と本人が一致するか確かめただけです」 「なるほど。本人確認か」 その言い方。 完全に面白がっている。 トオルは端末を持ち直した。 「殿下。西側通路へご案内します」 「オスカーでいい」 「よくありません」 「では、公務外で」 「公務外でも殿下は殿下でしょう」 「あなたの前でも?」 「何の話ですか」 オスカーが笑った。 ハリーが二人の間へ一歩入る。 「殿下。監査官は業務中ですので」 「見れば分かる」 オスカーの視線は、ハリーではなくトオルへ向いたままだった。 「仕事中の彼は、かなり格好いい」 トオルは端末を落としかけた。 ぎりぎりで掴む。 オスカーの後ろにいた警備隊長が、静かに目を伏せた。 見なかったことにする顔だ。 ハリーの表情が硬くなる。 「殿下。こちらへ」 トオルは先に歩き出した。 顔が熱い。 耳も熱い。 何なんだ、この王子。 初対面だ。 敵国だ。 公務中だ。 なのに。 背後から足音が追いつく。 オスカーは当然のように、トオルの隣へ並んだ。 近い。 少し近すぎる。 「殿下は、もう少し後ろを歩いてください」 「なぜ?」 「護衛の配置が――」 言いかけて、やめた。 また仕事の言葉で逃げるところだった。 オスカーがこちらを見る。 トオルは少しだけ眉を寄せた。 「近いと、気が散るんです」 正直に言ってしまった。 オスカーの足が止まる。 トオルも止まった。 数秒、誰も何も言わない。 「……今のは」 「取り消す?」 オスカーが聞いた。 声に笑いが混じっている。 トオルは顔が熱いまま、前を向いた。 「取り消しません。でも、喜ばないでください」 「難しいな」 「そこは努力してください」 「もう十分、努力しているよ」 意味が分からない。 聞き返したら負ける気がした。 トオルは再び歩き出す。 西側通路の入口で、オスカーがふいに足を止めた。 「共和国式の挨拶は、握手だったかな」 「はい」 差し出された手を、トオルは見た。 長い指。 きれいな手。 何を見ているんだ。 トオルは自分の左手を出した。 右手は怪我をしている。 オスカーはその手を取る。 握手。 それだけのはずだった。 だが、オスカーはトオルの手を持ったまま、少し身を屈めた。 頬へ、柔らかい感触が触れる。 唇。 一瞬だった。 トオルは完全に固まった。 「……何を」 「帝国式の挨拶」 オスカーは平然と言った。 後ろで警備隊長が小さく息を吐く。 「殿下。それは拡大解釈です」 「そうだったかな」 「そうです」 トオルの顔が一気に熱くなる。 「王子殿下!」 「オスカーでいい」 「よくない!」 「では、次に呼んでもらう」 「次がある前提で話さないでください!」 オスカーは本当に嬉しそうに笑った。 トオルは怒っている。 絶対に怒っている。 そのはずなのに。 握られた手を離すのが、一拍遅れた。 オスカーはたぶん、それに気づいた。 目が合う。 何も言わない。 ただ、少しだけ甘く笑う。 最悪だ。 敵国の王子に、完全に遊ばれている。 「トオル」 ハリーの声が背後から落ちた。 「行くぞ」 「……はい」 トオルはようやく手を引いた。 ハリーはオスカーへ一礼し、トオルの肩を押すようにして先へ進ませる。 「いい子だから、仕事に戻れ」 その言葉が、さっきまでより少しだけ耳に引っかかった。 トオルは何も言わなかった。 ただ、一度だけ振り返った。 オスカーはまだこちらを見ていた。 目が合うと、片手を上げる。 トオルはすぐに前を向いた。 「見てた」 その場にいないはずのノノの声が、頭の中で聞こえた気がした。 見ていない。 確認しただけだ。 そう言い訳しようとして。 トオルは、やめた。 見た。 もう一度、顔を見たかった。 それだけだった。

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