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第11話(番外編) どこにいても、君と笑う
正式番になって、三か月が過ぎた。
薄いカーテンの向こうから、朝の光が差している。
開けられた窓から、花の匂いが入ってきた。
甘い。
少し湿った、朝の庭の匂い。
トオルは目を開いた。
すぐ近くに、オスカーの顔がある。
「……いつから見てたんですか」
「少し前から」
「起こしてください」
「よく眠っていたから」
オスカーの腕は、トオルの腰へ回ったままだった。
寝台は広い。
それでも、二人が使っている場所は中央の一部だけだった。
トオルが体を起こそうとする。
オスカーの腕に力が入る。
「起きないんですか」
「もう少し」
「今日は植物園の視察でしょう」
「時間はある」
「あなたがそう言う時は、あまり信用できません」
オスカーが笑う。
トオルはその胸を軽く押した。
だが、離れない。
自分の右手を見る。
オスカーの寝間着の袖を、しっかり掴んでいた。
指を離す。
「今、隠した?」
「何をですか」
「俺の袖を握っていた」
「寝てたので知りません」
「可愛かった」
「朝から言わないでください」
「昨夜も可愛かったよ」
トオルの動きが止まる。
オスカーの口元が少し上がった。
「昨夜は、いつもより甘かったね」
「感想を言わなくていいです」
「名前を呼ぶ回数も多かった」
「数えてたんですか」
「覚えているだけだよ」
「それが一番困るんです」
トオルは寝台から降りようとした。
今度は本当に腕を離されない。
「オスカー」
「もう少し」
「さっきも言いました」
「もう一度聞きたかった」
トオルは振り返る。
起きたばかりのオスカーは、王太子の顔をしていなかった。
眠そうで。
少しだけ髪が乱れていて。
トオルを離す気がない。
「……三分だけです」
「五分」
「増やさないでください」
「では、四分」
「交渉しないでください」
そう言いながら、トオルは寝台へ戻った。
オスカーの顔が、分かりやすく緩む。
「その顔、やめてください」
「どの顔?」
「勝ったみたいな顔です」
「勝ったからね」
「三分です」
「四分」
「二分にしますよ」
オスカーは黙った。
腕だけは離さなかった。
****
朝食は、寝室の隣にある小さな食堂へ用意されていた。
小さいと言っても、トオルの部屋より広い。
白いクロス。
銀の食器。
花を浮かべた水差し。
温かい料理が、蓋付きの皿で一つずつ運ばれてくる。
トオルは席へ着き、目の前へ並ぶ皿を見た。
多い。
どれも、きれいすぎる。
向かいではなく、隣に座ったオスカーが一皿を選ぶ。
淡い色のソースがかかった、焼いた白身魚。
「これは好きだと思う」
「どうしてですか」
「香辛料が強くない。酸味は少しある」
オスカーがトオルの皿へ取り分ける。
トオルは一口食べた。
柔らかい。
味も好きだった。
「合ってた?」
「料理が美味しいです」
「俺が分かったことは?」
「朝から欲張らないでください」
「違った?」
トオルはもう一口食べる。
オスカーは待っている。
「……合ってました」
「よかった」
本当に嬉しそうに言う。
トオルは水へ手を伸ばした。
その前に、オスカーがグラスを寄せる。
「自分でできます」
「知っている」
「では、どうして」
「君に渡したかった」
トオルはグラスを受け取った。
近くに控えていた侍従は、静かな顔を崩さない。
トオルだけが少し落ち着かない。
オスカーが横から覗き込む。
「まだ慣れない?」
「何にですか」
「朝食」
「食事には慣れました」
「では、俺に世話をされること?」
トオルはグラスを口へ運んだ。
「視察の時間です」
「答えになっていない」
「遅れますよ」
「まだ時間はある」
「三分使ったでしょう」
「四分だよ」
「そこは覚えてるんですね」
オスカーが笑った。
トオルも、少しだけ笑った。
****
王宮の正面には、白い公用車が待っていた。
細い金の装飾。
磨かれた扉。
中には柔らかな座席と、小さなテーブル。
冷たい水と、薄く切られた果物が置かれている。
オスカーが先に乗る。
トオルへ手を差し出す。
トオルは段差を見る。
それから、手を見る。
「一人で乗れます」
「知っている」
手は引かれない。
トオルは小さく息を吐き、その手に自分の指を重ねた。
オスカーが満足そうに笑う。
「毎回、その顔をするのやめてください」
「どの顔?」
「成功したみたいな顔です」
「成功したからね」
「何がですか」
「君が手を取ってくれた」
トオルは返事をせず、車内へ入った。
座ると、オスカーも隣へ来る。
向かい側の座席は空いていた。
公用車が静かに動き出す。
王宮の建物が窓の外へ流れていく。
石造りの回廊。
広い芝生。
水路。
朝の庭には、白と青の花が咲いていた。
オスカーの膝が触れる。
トオルは窓を見たまま、離れなかった。
****
王宮植物園は、ガラスの大屋根に覆われていた。
扉が開いた瞬間、空気が変わる。
温かい。
土と葉の匂い。
白い花の甘さ。
どこかで柑橘に似た香りもする。
天井から落ちる光が、葉の上で細かく揺れていた。
中央には細い水路が通っている。
水の音が、静かな建物の中へ広がっていた。
園長と数人の職員が、入口で頭を下げる。
オスカーの隣には、最初からトオルの場所が空いていた。
「こちらが、新たに移植した薬用区画です」
園長が案内する。
淡い紫の花。
幅の広い葉。
細い茎に、小さな実がいくつもついている。
トオルは足を止めた。
「この抽出液は、鎮静剤に使われているものですか」
「はい。現在は医療院と共同で、使用量の見直しを進めています」
園長が説明を続ける。
トオルは端末へ短く記録した。
その隣で、オスカーが別の葉へ手を伸ばす。
「触らない方がいいですよ」
トオルが言う。
オスカーの指が止まる。
「どうして?」
「茎の毛に刺激があります」
「よく知っているね」
「資料にありました」
「では、こっちは?」
オスカーが少し先の、丸い葉を指す。
「知らないです」
「触るとかぶれる」
トオルはオスカーを見る。
「詳しいんですね」
「この辺りだけは」
オスカーは紫色の花へ目を向けた。
園長たちは少し先で待っている。
水の音。
葉が触れ合う音。
遠くで、鳥が一度だけ鳴いた。
「ここ、好きなんですか」
トオルが聞く。
オスカーは少し考えた。
「静かだからね」
トオルは周囲を見る。
王宮の中にあるとは思えないほど、人の声が遠い。
花の匂いを含んだ空気が、ゆっくり動いている。
「次に来る時も、呼んでください」
オスカーがトオルを見る。
「いいの?」
「俺も気に入りました」
オスカーの目元が柔らかくなる。
「では、必ず」
「視察がなくてもです」
一拍置く。
オスカーが笑った。
「それは、デートということ?」
「散歩です」
「二人で?」
「そうです」
「楽しみだな」
「その顔を見ると、言わなければよかった気がします」
「撤回する?」
「しません」
トオルは先へ歩く。
オスカーが隣へ並ぶ。
水路に沿った道。
白い石の縁。
水面には、ガラス天井と葉の影が映っている。
その中に、二人の姿もあった。
オスカーが何かを言う。
トオルが顔を上げて答える。
水の中でも、二人が同じように近づいていた。
花の影が揺れる。
その間で、自分が笑っている。
思っていたより、楽しそうだった。
トオルは少し足を緩めた。
「何を見てるの?」
オスカーが聞く。
「別に」
オスカーも水面を見る。
「楽しそうな二人がいた?」
「自分で言わないでください」
「違った?」
水面の中で、オスカーがトオルへ顔を寄せている。
トオルも、逃げてはいない。
「……違いません」
答えると、オスカーが嬉しそうに笑った。
水面の二人も笑った。
****
四日後。
ベスタ中央駅前は、夕方の人波で混んでいた。
仕事帰りの人。
買い物袋を下げた人。
店先から上がる湯気。
焼いた肉と香辛料の匂い。
酒屋の前では、瓶が触れ合う音がしている。
トオルは目立たない色のコートを着ていた。
隣のオスカーも、襟の高い簡素な上着を着ている。
ノノがアルゴの背へ乗ったまま、二人を見る。
「ボクたち、中央通信街へ行く」
「何を見に行くんだ」
「新しい中継設備」
『定期点検です』
「デート」
『点検です』
「両方」
ノノの耳が揺れる。
「部屋のセキュリティは見た。何かあったら呼んで」
「分かった」
「でも、すぐ戻らないかも」
「楽しんでこい」
ノノが少し黙る。
耳が上がった。
「言われなくても」
アルゴが歩き出す。
『帰宅予定は明朝八時です』
「七時半」
『八時です』
「七時四十五分」
『承知しました』
二体は人の流れへ入っていった。
トオルはそれを見送り、隣を見る。
オスカーは笑っている。
「何ですか」
「仲がいいなと思って」
「そうですね」
それだけ言って、トオルは酒屋へ入った。
棚には、色の違う瓶が並んでいる。
オスカーはすでに、パンと夕食の材料が入った紙袋を片手に持っていた。
トオルは一本を取り、ラベルを見る。
隣の瓶も取る。
「どちらがいい?」
オスカーが聞く。
「今日は、こっちです」
トオルは薄い琥珀色の瓶を渡した。
オスカーが受け取る。
「甘い?」
「少しだけ」
「君が飲みたいもの?」
「二人で飲みたいものです」
オスカーが瓶を見る。
それから、トオルを見る。
「俺も好き?」
「この前、二杯目を自分で注いでました」
「よく見ているね」
「監査官なので」
「仕事?」
トオルは一瞬黙った。
店の奥では、店員が別の客へ瓶を包んでいる。
入口から、人の声が流れ込んでくる。
「違います」
答える。
オスカーの顔が、ゆっくり緩んだ。
「では、これにしよう」
「そんなに嬉しそうにしなくても」
「君が俺の好みを覚えていた」
「三か月も一緒にいれば、分かります」
「それでも嬉しいよ」
トオルは別の棚へ顔を向けた。
耳が少し熱い。
選んだ瓶を、オスカーの紙袋へ入れる。
その上に、隣の店で買った小さな菓子箱も載せた。
オスカーは袋の底を支え直す。
店を出る。
人波が横を通る。
トオルが次の店へ目を向けた時、小型配送車がすぐ横を抜けた。
オスカーの手が腰へ触れる。
トオルの体を、自分の方へ引く。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
車が通り過ぎても、手はすぐには離れなかった。
トオルも何も言わず、次の店を指した。
「果物も買います」
「持てるよ」
「知ってます」
二人はそのまま、人の流れへ入った。
****
帰りの鉄道は、少し混んでいた。
二人並んで座る。
足元には、酒と夕食の入った紙袋。
オスカーの膝には、最後に買った果物の袋が載っている。
列車が動き出す。
外はもう暗い。
商店の明かり。
交差点。
並んで歩く人たち。
窓の向こうへ、次々と流れていく。
「パン、少し潰れてませんか」
トオルが言う。
オスカーが紙袋を覗く。
「大丈夫だと思う」
「思うだけですか」
「上に酒を入れたのは君だよ」
「持ち方で何とかしてください」
「難しい注文だな」
「王宮では、何でも上手に持ってたでしょう」
「君の手ならね」
トオルは横を見る。
オスカーは真面目な顔をしている。
「今のは、うまいこと言ったつもりですか」
「かなり」
「甘すぎます」
「嫌?」
「その質問は、もう必要ないでしょう」
オスカーが笑う。
トオルも、つられて笑った。
窓へ映った二人も、肩を寄せて笑っている。
足元には紙袋。
オスカーの手には果物。
買い物帰りの、どこにでもいそうな二人だった。
それが、妙に嬉しかった。
「俺たち、楽しそうだ」
オスカーも窓を見ていた。
「そうですね」
「君も?」
トオルは窓の中の自分を見る。
頬が緩んでいる。
オスカーの方へ体を傾けている。
否定する理由はなかった。
「俺もです」
トオルは座席の上へ置かれたオスカーの手へ、自分の指を重ねた。
そのまま、指を絡める。
オスカーが握り返す。
会話は止まらなかった。
窓の中の二人も、手をつないだまま笑っていた。
****
部屋へ着くと、トオルはオスカーの上着を受け取った。
壁際へ掛ける。
オスカーは紙袋をテーブルへ置いた。
トオルが酒を冷やし、買ってきた食事を皿へ移す。
背後へ気配が近づく。
オスカーの額が、トオルの肩へ触れた。
「どうしました?」
「少し疲れた」
「駅では平気な顔をしてたでしょう」
「君の部屋へ帰ってきたから、甘えている」
トオルの手が止まる。
オスカーは、そのまま肩へ額を預けている。
「自覚があるんですね」
「あるよ」
「今日は、ずいぶん素直ですね」
「駄目?」
「駄目なら、先に離してます」
トオルは振り返り、オスカーの髪へ触れた。
少し乱れている。
指で整える。
オスカーが目を細めた。
「座ってください」
「君も来る?」
「酒を用意してからです」
「待っている」
「そんな顔で言わなくても戻ります」
「早く戻ってほしい」
トオルはオスカーを見る。
王宮で見た、余裕のある顔はどこにもない。
ただ、トオルへ触れていたい男がいる。
「……甘すぎます」
「ここならいいだろう?」
トオルは答えず、オスカーの額へ短く口づけた。
「先に座ってください」
オスカーが少し驚く。
「今のは?」
「早く座らせるためです」
「もう一度なら、すぐ座る」
「調子に乗らないでください」
それでも、オスカーは嬉しそうにソファへ向かった。
****
酒を開ける。
二つのグラスへ注ぐ。
ソファへ座ると、オスカーがすぐ隣へ寄った。
肩。
脚。
手。
どこかがずっと触れている。
トオルはオスカーへグラスを渡す。
「お疲れさまでした」
「君も」
グラスを合わせる。
小さな音。
酒は、思ったより軽かった。
少し甘い。
オスカーが二口飲み、トオルを見る。
「好きですか」
「うん」
「よかった」
「君も?」
「はい」
トオルはもう一口飲む。
オスカーが肩へ寄りかかる。
トオルは空いた手で、オスカーの髪を撫でた。
ゆっくり。
オスカーが目を閉じる。
「君は」
「何ですか」
「俺を甘やかす時、少し嬉しそうだね」
トオルの手が止まった。
「そう見えますか」
「うん」
「あなたが甘えすぎるからです」
「嫌?」
「それは聞かなくていいと言ったでしょう」
トオルは髪を撫でる。
さっきより、少し丁寧に。
オスカーが顔を上げた。
「嬉しい?」
トオルはグラスへ目を落とす。
オスカーの髪が、自分の指の間にある。
触れていると、落ち着く。
オスカーが安心して体を預けていることも、嬉しい。
「……そうかもしれません」
オスカーの目が柔らかくなる。
「新しく知った」
「何をですか」
「君は、俺を甘やかすのが好き」
「あなたが甘えすぎるから気づいたんです」
「かなり嬉しい」
「だから、甘すぎます」
「止める?」
トオルは答えず、オスカーの髪へもう一度指を通した。
「止めてません」
オスカーが笑う。
トオルも、少し笑った。
****
グラスが空になる。
トオルは二つをテーブルへ置いた。
立ち上がる。
オスカーが、その手を取った。
「もう飲まない?」
「十分です」
「では?」
トオルはオスカーを見る。
分かっている顔。
期待している顔。
それでも、トオルから言うのを待っている。
「行きましょう」
「どこへ?」
「分かってるでしょう」
「君から聞きたい」
トオルは少しだけ顔を寄せた。
「今日は、俺が甘やかします」
オスカーの目が変わる。
さっきまでトオルへ預けていた体を起こす。
「それは」
「何ですか」
「かなり楽しみだ」
「今から余裕をなくしておいてください」
トオルはオスカーの手を引いた。
立ち上がったオスカーの唇へ、自分から口づける。
一度。
離れる。
オスカーが追いかける。
今度は長く重なった。
トオルはその襟を掴み、寝室へ向かう。
街の音が、窓の向こうで続いている。
寝室の灯りが、静かに落ちた。
****
薄暗い部屋。
オスカーの顔が、トオルの胸元へ寄っている。
トオルは枕へ背を預け、オスカーの髪を撫でていた。
呼吸が、少しずつ整っていく。
「今日は」
オスカーが低い声で言う。
「何ですか」
「甘かったね」
トオルの手が止まる。
「あなたがです」
「君も」
「感想を言わなくていいです」
「新しく知ったことがある」
「今日は多いですね」
オスカーが少しだけ顔を上げる。
「君は、自分から求めた夜の方が、終わった後に優しい」
トオルは黙った。
オスカーの髪へ指を入れる。
ゆっくり梳く。
「……あなたが嬉しそうだからです」
オスカーの目が緩む。
「それも新しい」
「もう知ったでしょう」
「何度でも嬉しいよ」
「甘すぎます」
「君がそうしてくれるから」
オスカーはまた、トオルの胸元へ顔を戻した。
腕が腰へ回る。
「もう少し、このままでいていい?」
トオルは髪を撫で続ける。
「どうぞ」
「眠るまで?」
「眠ってからもです」
オスカーが小さく笑った。
「それは、かなり幸せだな」
トオルも笑う。
「俺もです」
オスカーの呼吸が、胸元でゆっくり整っていく。
トオルは髪を撫でる手を止めなかった。
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