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ep.09 渋谷の攻防

「え?」  振り返ると、初夏には少し暑苦しい、細身の黒いジャケットを着た男が立っていた。  きっちりとセットされた髪に、口元の端だけを持ち上げた愛想の良い笑み。  男の目は春希には目もくれず、真っ直ぐに雪の顔だけを値踏みするように見つめていた。 「事務所はもう入ってる? もしまだだったら、芸能関係のお仕事は興味ないかな」  男が滑らかな口調で言いながら、内ポケットから取り出した名刺を差し出す。  信号待ちをする周囲の観光客たちの視線が、何事かと振り向いた。 「っぇ……ぁの……」  雪は息を呑み、反射的に春希の背後へと半歩下がった。  春希のスウェットの袖が、強く引かれる。 「すみません、急いでるんです」  春希は雪を背中で庇うように立ち塞がった。  男はわずかに眉を動かしたが、すぐに人当たりの良い笑みを崩さず、「ごめんね。気が向いたら連絡してね」と、春希の手へ強引に厚手の中質紙を握らせた。 「行くぞ」 「う、うん……」  青信号を知らせる電子音が鳴り出す。  信号待ちをしていた観光客たちが一斉に流れ出し、人の流れに隠れるように春希は雪を引いて進んだ。  巨大なビジョンから流れる大音量の音楽と、飲食店から漂う油と香辛料の混ざった匂いが立ち込めるセンター街の入り口まで辿り着く。 「すみません、お兄さんたち」  今度は、オーバーサイズのパーカーを着た若い男が立ち塞がった。  首から大きな一眼レフカメラを下げている。 「僕、写真家で、ストリートスナップを撮っているところなんだけど、お兄さんめちゃくちゃ雰囲気あるなと思って。良かったら撮らせてくれませんか?」  レンズを向けられそうになり、雪はサッと顔を伏せた。  春希の腕の後ろに完全に顔を隠し、細い肩を硬くしている。 「すみません、写真、苦手みたいで」  春希が短く告げて横を通り抜けようとすると、男は「残念。もったいないな」と不満げに鼻を鳴らしながらも、すかさず二人の間へ手を伸ばし、「じゃあこれだけでも」と名刺を雪のトートバッグの縁に滑り込ませた。  通りすがりの女子学生たちが、 「ねえ見た? やば」 「超カオ綺麗なんだけど」  と振り返りながら、甲高い声を上げる。  雑踏の中を数分進んだ、ファストフード店の前。 「君、モデルやってみない?」  派手な柄シャツを着た、日焼けした男が並走してきた。 「〇〇とか△△ってモデルや俳優、聞いたことある? その事務所なんだけど、君のルックスなら、すぐにでもデビューいけるよ」  男の香水とタバコが混ざったような強い匂いが鼻をつく。  男は巧みに春希と雪の進行方向を阻害するよう体を挟んできた。 「っ……」  雪の息遣いが、春希のすぐ耳元で浅く、速くなり始めていた。 「……すみません、興味ないみたいです」  春希が低い声で牽制すると、男は肩をすくめて名刺を雪のパーカーのポケットに差し込んだ。 「気が向いたら、連絡してみて」  香水とタバコの臭いを振り切って直進する。  プリクラやガチャガチャが並ぶゲームセンターの入り口付近で、今度はパンプスの音を響かせて女性が近づいてきた。 「突然ごめんなさい。私、こういう者です」  ネイビーのスーツを隙なく着こなした女性が、両手で丁寧に名刺を差し出してきた。 「あなたのその透明感、映像や写真で絶対に美しく映えると思うんです。お時間あれば、お話だけでも聞いていただけませんか」 「……」  女性の落ち着いた声音に、雪は少しだけ顔を上げた。  だが、周囲でスマホのカメラを向けている通行人たちの姿に気づき、再び春希の背中へ顔を埋める。 「そういうの、ちょっと怖いみたいで」  春希が女性の手から名刺を受け取り、軽く頭を下げて歩き出す。 「ごめんなさい、怖がらせてしまって。受け取ってくれてありがとう」  女性はそれ以上追ってはこなかったが、その視線はいつまでも雪の背中を見つめていた。  スポーツ用品店の青い看板がようやく見えてきた交差点の角。 「ねえ君! アイドル興味ない?」  金髪に色付きのサングラスをかけた男が、正面から雪の肩へ手を伸ばしてきた。 「ひっ……」  雪の喉の奥から、くぐもった吐息が漏れた。 「今度新しいボーイズグループ作るんだけどさ」  春希は反射的に雪の腕を引き寄せ、男の手を払いのけるように間へ入る。  最後の最後で、これまでで一番、胡散臭くて強引だった。 「すみません、興味ないです」  春希が代わりに断ると、男は「メガネ君に訊いてないんだけど?」と嘲笑いながら、黒い名刺を雪の胸元へ押し付けてきた。  春希は雪の肩を抱き寄せ、逃げるようにスポーツ用品店の自動ドアへ滑り込んだ。 「はぁ……」  冷房の効いた静かな店内に入り、春希はようやく小さく息を吐き出した。 「本当にいるんだな、ああいうの」  渋谷、原宿、表参道あたりはスカウトやストリートフォトグラファーが出没するというのは、本当だった。  もしかしたら一人くらいは雪に声がかかるかも――という予想は甘すぎた。 「雪」  春希は雪の肩から手を離すが、雪の手は春希のスウェットの裾を握りしめたまま、俯いている。 「ごめんね……びっくりしちゃって、僕……」  絞り出された声は、震えていた。 「失礼な奴らばっか。あれでOKもらえるわけないのにな。丁寧な人もいたけど」  春希が店のガラス窓から外を見やる。  さきほどの金髪サングラスが、次のターゲットを探して交差点周辺をウロウロしていた。 「先に、キャップ買うか」 「え……」  戸惑う声を引くようにして、広い店内の入り口に立つフロア案内板の前まで移動する。 「姉ちゃんに後で払ってもらおうぜ」  春希がイタズラっぽく笑うと、ようやく雪も、表情を綻ばせた。  スポーツ用品店での買い物を手早く済ませ、春希たちは夏美の指定したスタジオのあるビルへと向かった。  雪の頭には、急遽購入したMLBの青いキャップを目深に被せている。  それでも、宇田川通りを奥へと進む間に、もう一人から声を掛けられた。  カットモデルを探しているという若い美容師だった。  丁寧な物腰だったが、春希はそれも丁重に断り、雪の腕を引いて歩くペースを上げた。  観光客の姿が急に途切れる。  コンクリートの壁に囲まれた小さな保育園を通り過ぎると視界が開け、新しく再開発されたオフィスビルエリアに出る。  綺麗に整えられた植木が縁取る小径の石ベンチに、見覚えのある人影が座ってスマートフォンを操作していた。 「あ、春希〜!」  こちらに気づいた人影――姉の夏美が、大きく手を振って立ち上がる。  黒のタイトなノースリーブの上に、風をはらむ透け感のあるオーバーサイズのシャツを羽織り、ボトムスには落ち感のあるワイドパンツを合わせている。無造作に束ねられた髪の隙間や首元で、大ぶりなシルバーのアクセサリーが光っていた。  地元にいる時と変わらない遠慮のない声量に、テラス席でコーヒーを飲んでいた、首からIDカードを下げる数人の会社員たちが振り返る。春希は少しだけ肩をすくめながら、「あれ、姉ちゃん」と背後の雪へ短く目配せをした。 「あら」  春希の背中に隠れるようにしてついてくる細身の影に気づき、夏美の足が止まった。  瞬時に、瞳が雪のキャップのつばからスニーカーの爪先までを二往復するのを、春希は見た。  だが、夏美はすぐに表情を緩め、いつもの「姉ちゃん」の顔を作って駆け寄ってきた。 「助かった〜〜、来てくれてありがとね!」  春希がリュックから取り出したケース入りのタブレットを受け取ると、夏美はそれを肩に掛けた大きなレザーバッグへ滑り込ませた。 「春希のお友達かな? はじめまして〜、姉の夏美です。弟と仲良くしてくれてありがと〜」 「あ……す、すみません。遠野雪といいます。こちらこそ……」  雪が慌てたようにキャップを脱ぎ、夏美へ深く頭を下げた。  落ちていた前髪が揺れ、白い顔が露わになる。 「――雪君ね」  夏美の視線が雪の顔のパーツに一秒ほど釘付けになった後、ふっと瞬きをしてから春希の方へ向いた。 「なに食べたい? このあたりなら、何でもあるよ。ガツンと肉系でも、おしゃれ〜なカフェでも、ファミレスでも。国籍もいろいろよ。韓国、中華、インド、イタリアン、フレンチ、ハワイアン……」  指折りに候補を挙げながら、夏美の視線が春希と雪の顔を交互に行き来する。 「静かめなところが、いいかな」 「おっけ〜」  春希の要望に、夏美は心得たと深く頷いてみせた。

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