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ep.13 進路霧中

 体育祭の熱気は、週が明けるとあっけないほど急速に冷めていった。  屋外プールから風に乗ってうっすらと漂ってくる塩素の匂いが、夏の始まりを告げる六月下旬。楠原高校の一年生の教室には、浮き立った気分を容赦なく現実へと引き戻す用紙が配られた。 『進路希望調査票(第1回予備調査)』  二年生からの文系・理系コースの選択欄と、現時点での志望校あるいは就職の希望記入欄。何十年も前から使い回されているような、藁半紙特有のざらついた手触りと、粗い黒インクで印刷されたシンプルな表を前にして、教室のそこかしこから静かな溜息が漏れ聞こえていた。 「春希は、書くこと決まってる?」  昼休み、いつもの中庭、いつもの日陰のベンチで、雪が膝の上の小さな弁当箱の蓋を開けた。体育祭の翌週から、「一人分も二人分も大して変わらないから」と秋子が春希へ持たせるようになった、小ぶりの弁当箱だ。 「うーん……」  春希は箸を止め、頭上の楠の葉越しに見える空へ視線を逃がした。  脳裏に、ゴールデンウィーク中に夏美から投げかけられた言葉が蘇る。 ――二年で文理選択あるでしょ。パパの事務所継ぐなら理系一択だけど  父の冬人は一級建築士で、数人の社員を抱える小さな建築事務所を営んでいる。  春希が幼い頃から今日に至るまで、家計の厳しさや生活の不自由を感じた記憶は一度もない。  幼少期、父親が現場から持ち帰った図面やケースを眺めながら、自分もなんとなく「大きくなったら、パパみたいになる」と思っていたが、こうして選択を迫られると、具体的なイメージが何も思い浮かんでこない。 「まだ分かんないな」  言葉を濁すと、雪は箸を置いてこちらを覗き込んできた。 「春希って理数系が得意だよね。そしたら、エンジニアとか、合うのかな」 「メガネのイメージで言ってるだろ」  春希が伊達メガネのフレームを、わざとらしく指で軽く押し上げると、雪の口元が可笑しそうに弛んだ。 「ふふ。そうかも」  黒い前髪を揺らして小さく喉を鳴らす雪の横顔を見つめ、春希は同じ質問を返す。 「雪は?」 「うーん」  雪は首を少し傾げ、弁当箱の端に添えられた甘煮の豆を一粒、口の中に放り込んだ。細い喉が小さく動く。 「僕も、もうちょっと考える。……それより、夏休みのバイト、探さないとなんだ」  雪が放課後にアルバイトをしていることは、日々のとりとめのない会話の中でさらりと知らされていた。  スーパーの試食コーナーで見かけたことを、春希は一度も口にしていない。  雪の方から明かすこともなかった。 「夏休みにバイトを増やす?」 「ううん。前のとこ、辞めたから」 「そう、なのか。新しいところは見つかりそうか?」 「うん。履歴書送ったり、連絡とかもしたとこ」 「そっか」  春希は短く返し、唐揚げを口へ運んだ。  それ以上、進路やバイトについての会話が交わされることはなく、初夏のぬるい風が二人と木々の間を静かに通り抜けていった。 「今日も、一緒に帰れる? 水泳部、始まるんだっけ」  日に日に濃さを増していく楠の葉の隙間から、初夏の強い陽光が中庭へと降り注いでいた。雪は細めた目の端に光を反射させながら、眩しそうに空を見上げた。 「ああ。今日が初日。着替えとかも含めると、帰れるのは七時近くになるな」 「そっかぁ」  雪は少しだけ残念そうに呟き、それから悪戯っぽく口角を上げた。 「こっそり写真撮りにいっちゃおうかな。春希の水着姿、2kiにアップしよっか」 「誰が見たいんだよ」 「ひょろひょろの僕より、全然いいでしょ」  雪が小さく肩をすくめる。  春希は適当なジョークを言い返しかけて、ふと口を噤んだ。 「……2kiと言えば」  代わりに話題を切り替え、春希はポケットからスマートフォンを取り出した。  SNSアプリで『2ki_days』のプロフィール画面を開く。 「フォロワー、百になってたぞ」  アカウントを共有した時に決めたルールや、お互いの投稿頻度は何も変わっていない。顔は出さないし、特定できそうな情報も写真も載せない。タイムラインに並んでいるのは、ただの高校生二人の、何の面白みもない日常風景だけだ。  体育祭の後、雪が弁当について投稿していたので、春希も便乗して『弁当美味かった。△』という短いテキストだけの投稿をした。週明けに画面を開くと、フォロワーが三桁になっていた。 「僕たちがケンカしてないかって、見守っててくれてるんだよ」  雪が画面を覗き込みながら、柔らかく笑った。  黒い眼鏡のフレームの内側で、春希はわずかに眉を動かした。  おせっかいな、うちの母親みたいだ。  喉まで出かかった言葉を、奥へと飲み込む。  もしかしたら雪には親が――と思った。  そこも、まだ聞けていない。訊く必要が、ない。 *  放課後。  青い光の網目が揺れる水際に整列した水泳部員は、一年生が六人、二年生が五人、そして三年生が四人の、計十五人。  引率するのは、学生時代に水泳部だったというだけの理由で顧問を任されている、三十代前半の国語教師だ。  大会での実績とは無縁の弱小部であり、部員たちの入部動機も、春希のように「小さい頃から何となく組」と、「楽そうだから組」の二つに綺麗に分かれている。  水が張られたばかりのプールサイドに漂う空気も、どこかのんびりとしていた。  顧問が注意事項や準備体操の重要性について語っている間、春希は目に入る上級生や顧問の身体を観察していた。春希より、胸板と肩幅が一回りも二回りも、厚くて大きい。 「……」  視線を落とし、春希は自身の腕や胸元を覆う薄い肉を見つめた。 (親父のところで、現場のバイトでもさせてもらおうかな……)  足元の濡れたコンクリートを見つめながら、そんなことをぼんやりと考えていた。  水泳部の初日は、水慣れを中心とした軽いメニューのみだった。  春希は更衣室で着替えを終えて、濡れた髪の毛のまま、ロッカーから鞄を引き上げるために教室へ向かう。  誰もいないと思って扉を無遠慮に開けると、教室の中央付近で二つの人影が机を挟んで向かい合っていた。 「――あ、すみません」  立ち入ってはいけない空気に、春希は思わず足を引っ込める。 「っ……あれ、春希?」  雪と、担任の青木先生だ。  机の上に書類らしき紙が数枚と、水色の表紙をした薄いパンフレットが広げられているのが見えた。  雪は慌てたように、それらを両手でかき集める。 「牧野か。部活お疲れさん。じゃあ、先生はこれで」  青木先生も、バインダーを脇に抱えて立ち上がった。  雪は集めた書類と冊子を胸元にきゅっと抱え込んで、「ありがとうございました」と深く頭を下げる。  そのまま教室を出ようと春希の横を通り過ぎる間際、青木先生が足を止めた。 「もう外は暗くなってきてるから、二人で一緒に帰りなさい」  それだけ言い残し、足早に廊下の奥へと去っていった。  春希は軽く会釈をしてから、気まずさを隠すように首の後ろを擦りながら室内へ足を踏み入れた。 「ごめん、邪魔したか?」 「ううん、ちょうど終わるところだったんだ。一緒に帰ろ」  雪はいつものようにふわりと笑って見せた。 「ああ。おけ」  春希は短く応じ、ロッカーから鞄を取り出す。  振り返ると、雪は胸に抱えていたものを鞄の奥底へと見えないように押し込み、ジッパーを閉めているところだった。  濃いオレンジ色と藍色が混ざった光が差し込む静かな校舎を、二人は並んで後にした。 *  夕飯の食卓に並んだアジの南蛮漬けをつつきながら、春希は向かいの席に座る父・冬人へ声をかけた。 「父さん、夏休みの間、事務所の手伝いをさせてくれないかな」  一級建築士である冬人が経営する牧野建築事務所では、夏休み期間中に学生のアルバイトを募集している。若者の就労体験や地域貢献を兼ねて、事務所開設以来、毎年恒例で行っているものだった。 「……」 「あらまあ」  両親が同時に、視線を皿から息子へ向けた。 「水泳部の練習の合間に行くから、毎日は入れない。バイト代はいらないから」  味噌汁の椀を持ったままの冬人が、わずかに眉を上げる。 「シフトは気にしなくて良い。働くなら、バイト代はきっちり払う。その代わり、他の応募者と平等に扱うし、手加減はしない」 「うん。分かってる」  春希が短く頷くと、冬人は「そういえば」と椀を置き、席を立って奥の書斎へ向かった。戻ってきた手には、二つ折りの紙。 「バイトといえば、春希。この子、お前の友達じゃないのか。ほら、渋谷に一緒に行ったっていう」 「!?」  テーブル越しに差し出された紙面を覗き込み、春希の呼吸が止まった。  氏名欄に書かれた、遠野雪の文字。枠内に貼られた証明写真には、白いシャツの第一ボタンまで留めた雪の顔が写っていた。証明写真でも犯罪者のようにならないのは流石だ、などと頭の片隅で思いつつ、春希は無言で固まった。  まさか雪が、父親の事務所に応募してくるとは。 「何か、事情は聞いているか?」  冬人の太い指先が、履歴書の備考欄をトントンと叩く。  連絡先として、児童養護施設の名前が記されていた。 「……施設」  春希の喉から、空気が漏れるような音がした。  顔色を変えた息子の様子に、両親が静かに視線を交わす。 「聞いていなかったのか。それは、遠野君に悪いことをしたな」  冬人が履歴書を引き寄せ、背後の棚へ置いた。 「春希、今の履歴書は見なかったことに――」 「父さん、雪を採用してやって!」  椅子の脚が床を擦る音が響く。  春希が立ち上がり、テーブルに身を乗り出していた。  驚きに目を丸くした両親が、揃って息子を見上げる。 「前に、スーパーで接客のバイトしてるのを見たことがあったんだ。この間、そこを辞めて新しいバイトを探さないとって言ってたから」  春希はテーブルの縁を握りしめ、一気に言葉を繋いだ。 「詳しいことは知らない。でも、たぶん、どうしてもバイトしないといけない事情があるんだ。あいつ、自分の弁当も持ってこれてないし……」  再び、両親の視線が空中で交錯する。 「春希。座りなさい」  おずおずと椅子に腰を下ろした息子へ、冬人は静かに毅然と、口を開いた。 「お前の友達といえど、俺は経営者として、他の応募者と同じように平等に面接をする。それだけだ」  とはいえ、学生のアルバイト募集自体が地域貢献の一環なので、雪のような経歴の子は積極的に採用するようにしている。息子の手前、冬人が筋を通しただけのこと。 「何だ。友達がバイトに来るから、お前も一緒に働きたいって話じゃなかったのか」 「違う。雪のことは本当に知らなかった。俺は――」  自分の浅はかな動機を口にしかけて、春希は口を噤んだ。  無言で箸を伸ばし、小鉢に入っていた人参の煮物を口に放り込む。  甘辛い出汁の味が、舌の上に広がった。

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