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ep.25 それぞれの、新学期
八月三十一日・月曜日。
二学期の始業式の朝。
雪はいつものように、楠原高校へ向かう下り電車の最後尾、端の隅に身を寄せていた。
ポケットから取り出したスマートフォンを、覗く。あの日以来、春希からのメッセージが届くことはなく、2ki_daysの更新も止まったままだ。
――僕、春希にそんな同情されたくない!
そう叫んだ瞬間の春希の顔が、まだときどき瞼の裏でちらつく。
「はぁ……」
何度目になるかも分からない息が漏れた。
雪はスマートフォンを胸元に抱きしめ、軽く首を振った。
背筋を伸ばし、首を伸ばして堂々とする――半分は自分を奮い立たせるための強がりだ。
川に落ちて以来の登校。クラスメイトたちは自分にどんな視線を向けてくるだろうか。ネット上の騒ぎは収まりを見せていたが、外を歩けばすれ違う人の顔のわずかな動きすら気になってしまう。
電車が楠原駅のホームに滑り込み、ドアが開く。吐き出される人波の最後尾に混じり、階段を上がって改札口へと続く列に並んだ。
「あ……」
改札の向こう、コンクリート柱の傍らに、その姿があった。
夏の太陽を吸い込んで褐色に引き締まった腕。
この一ヶ月で少し太くなった首、上半身、脚。
黒縁メガネの奥で、春希がどこか控えめに目元を緩め、すっと片手を高く掲げていた。
「春希……っ」
思わず駆け足になって改札を抜ける。幹線道路側の出口へ向かう通勤客や生徒たちの波を割るようにして、雪は春希の方へまっすぐ駆け寄る。
背中に視線を感じたが、どうでも良かった。
「ごめん」
あと一歩で手が届くという距離まで迫った時、春希が深く頭を下げた。
「待って。謝らないで」
「むぎゅ」
差し伸ばした両手で雪は春希の両頬を掴んで、強引に前を向かせた。
手のひらで押し潰された春希の頬がむにゅっと寄り、眼鏡がズレて、ひどくおかしな表情が雪の目の前に現れる。
「ぶふっ」
耐えきれずに雪の口元から小さく笑いが漏れた。
春希は雪の両手首を掴んで、そっと自分の頬から引き離した。
「お前なあ」
黒縁のフレームを押し直しながら、春希の口元にも可笑しそうな苦笑が広がる。
目を合わせ、ひとしきり笑った後、春希はちらりと周囲へ視線を巡らせてから、まっすぐ雪の瞳へ向き直った。
「あとで、聞かせてくれるか」
「え……」
「進路のこと。俺も、報告したい」
強張りが残っていた雪の頬の線が、滑らかに解けた。
「うん……! 聞きたい。話したい」
「行こ」
「うん」
夏休み明けの、少し気だるい空気の中、二人は歩幅を合わせ、通学路の坂道へと歩き出した。
*
「あれ、牧野。ちょっとデカくなった?」
二人そろって教室に入ると、廊下側にできた島にいた男子生徒の一人が春希に声をかけてきた。夏休み前と、髪色が変わっている。日焼けもしていた。
「え」
思わず春希は足を止める。
男子生徒はニッと笑うと、自身の肘を曲げて作った力こぶを軽く叩く仕草を見せる。
「……荷物運びのバイトしたからかな」
日焼けして硬くなった己の腕に視線を落としつつ答える。
「 かっけぇじゃん」
気さくにひらひらと手を振り、男子生徒はそのまま自分の席の輪へと戻っていく。
「……」
そんな風に言われたことは初めてで、春希は面食らって立ち尽くす。
気配を感じて隣を見やると、雪が口元に手を当ててニヤニヤと笑いを噛み殺していた。春希が「なんだよ」と視線で咎めても、雪は知らん顔で小さな肩を揺らすだけだ。
窓際の自席へと移動しながら、春希はさりげなく教室全体を視線でなぞった。
お調子者たちが騒ぎ、女子たちが夏休みの話題に花を咲かせている。
が――その中に、佐伯結菜の姿だけがない。
取り巻きの女子たちが「ゆな遅いね」と、開け放たれたドアから廊下を覗いている。
そこへ、濃紺のポロシャツを着た担任の青木先生が顔を出した。
教室内を一瞥し、春希の隣に立つ雪へ視線を止める。
「遠野、ちょっと」
青木先生に連れられて雪が向かった先は、一階の奥にある校長室だった。
校内で異質な雰囲気を漂わす、重厚な木製の扉を抜ける。
応接用の黒い革張りソファが置かれた室内に、二人の見慣れぬ人影と、見知った顔がひとつあった。
佐伯結菜と、その両脇に立つ両親だ。
「遠野君です」
青木先生が短く紹介すると、四十代ほどの、暗い色のスーツを身に纏った両親が揃って深く頭を下げた。結菜もおずおずと、両親に倣って身を折る。
「このたびは、娘の軽率な行動で多大なご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
父親の低く硬い声が、佐伯一家の足元に落ちる。
「あ……いえ、もうそのことは」
予想外の重苦しい出迎えに一瞬だけ身体を強張らせ、雪も慌てて小さくお辞儀を返す。佐伯家の三人はなかなか頭を上げようとしなかった。
「どうぞ、お顔を上げてください」
見かねた校長が穏やかな声で促し、ようやく少しずつ姿勢を正す。
顔を上げた結菜の目は、赤く潤んでいた。
「遠野君、ごめんなさい。ゆなのせいで……」
結菜の頬は削げて、顔色も腕も青白い。
夏休みの間、ずっと思い悩んでいたであろうことが慮れる。
「本当に、そのことはもう」
雪は短く応じ、それから結菜の両親へと真っ直ぐに向き直って丁寧な角度で頭を下げる。
「わざわざ、ありがとうございます」
結菜の両親は面食らったように、目を見開いていた。
ちなみにこの数日後、雪を執拗に追い回し、川に落ちる原因を作った他校の三人組も、それぞれ青ざめた顔の親に伴われて謝罪に訪れることになる。
三人は沿線上の大学一年生だった。雪の担当弁護士と相手方の親たちとの間で、すでに事務的な示談は成立していたが、わざわざ直接の謝罪の場が設けられたのは、加害者である三人に対する教育的指導の意味合いもあってのことだった。
事件が警察沙汰となったことで三人は大学から停学処分を受けており、雪が許す・許さないを問わず、今後の大学内での協議次第では、退学も含めたより重たい判断が下される見通しだという。
*
二学期初日は、始業式とホームルームだけで午前中のうちに終わる。
春希と雪は連れ立って教室を出て、中庭へ向かった。
揺れる楠の木漏れ日の下、灰色のベンチに一人分の隙間を空けて腰を下ろす。
「俺の方から話すけど、良い?」
「うん」
春希は木肌のささくれに手をつき、雪の方へ身体を向けて座り直す。
雪もまた、両膝を春希の方へと向けた。
「今月末に、進路希望調査があるだろ?」
「うん」
「俺は、理系クラスにする」
「そっか」
「それで、大学の建築学科を目指す」
「おお!」
雪の瞳が、ぱっと花開いた。
「志望校も、いくつか候補を決めた。今の学力じゃ全然足りないから、冬から塾に通わせてもらえないか親に相談する。でも水泳は辞めないし、事務所のバイトも続けたいと思ってる」
「すごいね、忙しくなるね!」
報告の一つひとつに、雪は何度も頷く。春希はくすぐったさに首をすくめた。
「忙しくなるのは、雪もだろ」
「……なる、ように頑張らないとだね」
雪は白く丸い頬を、指先で所在なげに掻いた。
「次は、雪の話を聞きたい」
春希が促すと、雪は「はい」と両手両足をきちんと揃え、背筋を真っ直ぐに伸ばす。
「僕は、事務所に――オフィス・シノミヤに、入ることにしました。英語と国語はちゃんと勉強しておきたいから、二年生からは文系クラスを選択するけど……大学には進学しません」
「うん。そうか」
電話越しに夏美から聞かされた時は、足元の床が抜け落ちるほどの驚きだった。
改めて本人の口から聞いても、まだ少し腹の底がざわめく。
「あ、でも他の人には内緒にしてね。『カイキン日』っていうのがあるんだって」
雪は人差し指を、杏の実のような形をした唇にそっと当ててみせた。
「わかった」
春希は深く、頷いた。
「あー……どんな仕事をするのかって、決まってるのか?」
春希の問いに、雪は「え〜」と両手を頬に当て、恥ずかしそうに身を縮めた。
雪が社長の篠宮から聞かされている予定は、春希の想像よりもずっと堅実なものだった。
当面の間はメディアには一切出ず、数ヶ月かけて基礎的なレッスンを行い、適性を見るのだという。篠宮の見立てでは、スチールモデルをこなしつつ、映像系の俳優を視野に入れているらしい。
そして何より、高校に在学している間は仕事を詰め込まず、学業を優先するという方針が固まっていた。
「そうか」
春希は長く息を吐き出し、無意識のうちに強張っていた両肩の力をすとんと抜いた。
「あとね、食生活とか、体づくりに関しても、事務所から細かい指導が入るんだって」
「アスリートみたいだな」
「もうちょっとお肉をつけなさいって、言われちゃった」
雪は両腕を前方へ真っ直ぐに伸ばし、少し不満げに唇を尖らせた。
「春希みたいにするには、プロテイン飲めばいいの?」
「俺は飲んでないぞ」
二人は顔を見合わせて短く笑い合う。
「あの、さ……」
ふと、雪がベンチの隙間を詰めるようにして、春希の方へわずかに顔を近づけてきた。
「お願いがあるんだ」
「ん?」
「2ki_daysは、続けてもいい?」
春希は軽く首を傾げる。
「SNS、厳しくなるんじゃないのか?」
「匿名だもん。これからも気をつける。春希との大事な場所だから」
「……雪が良いなら、別に良いけど」
春希は伊達メガネのブリッジを人差し指で押し上げた。
「うん」
雪の顔に、今日一番の柔らかい笑みが広がった。
その日の午後、しばらく動きを止めていた『2ki_days』のタイムラインに、久しぶりの新しい投稿が流れた。
高く澄んだ初秋の青空。
そこへ向かって、二つの拳が並んで突き出されている写真だ。
添えられた短いキャプションには、こう記されていた。
『新学期 *△』
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