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6.衝突
キースが王立陸軍士官学校へ戻ってきたのは、日曜の夕方だった。寮の部屋に荷物を置くと、旅装も解かずに隣室の扉を叩いた。校内でおとなしく過ごすと決めたアルフレッドは、自室にいるはずだった。
すぐにでも話したいことがあった。彼の「二番目の記憶」について。
しかし、しばらく待っても応答はなかった。二度、三度。繰り返しノックするうちに、キースの頭のなかで嫌な想像が膨らんでいく。バクバクと、危機の予感に心臓が破裂しそうになる。
「アル……!」
名前を叫んだところで、ようやく扉が開いた。安堵して全身の力が抜けそうになって、しかし顔を覗かせた人物を見て、キースの心臓は凍り付いた。
「ウォーターズ教官……?」
ウォーターズは「しっ」と唇に人差し指をあて、キースを部屋に招き入れた。
アルフレッドはベッドに横たわり、目をつむっていた。安らかな表情で、まるで眠っているようだったが――キースの全身から血の気が引く。
「一体なにを……まさか勝手にアルフレッドの記憶を……!?」
ウォーターズは「ホーリーランド公」とたしなめるように名前を呼んだ。その落ち着き払った態度に、かえって怒りが湧いてくる。
「われわれが勝手に決めることではないと言っただろう!」
「……あの」
そのとき、眠っていたはずのアルフレッドが口を利いた。ぼんやりと夢見るような口調で、「俺です」と言う。
ゆるりと白く薄い瞼が持ち上がり、紅い瞳がキースを見上げた。
「俺が決めました」
唖然とするキースの隣で、ウォーターズは「ふう」とため息をついた。
「お帰りになられたタイミングが悪かったですね。目が覚めてしまったようだ。もう一度、前処置からやり直さなければ」
「……どこまで聞いた?」
キースはウォーターズの言葉を無視して、横たわるアルフレッドのそばに膝をついた。アルフレッドは、ゆっくりと身体を起こしながら苦い笑みを浮かべる。
「あなたと教官が、こっそりと俺の過去の記憶を消す相談をしていたというところまで、ですかね」
意地の悪い言い方をすると思った。
「どうしてそういう方法があると俺に教えてくれなかったんですか? 一番簡単なやり方なのに」
けれど、上目遣いに尋ねたまなざしは、傷ついているというよりも拗ねている。
「……」
キースは答えることができなかった。「きみの大切にしている記憶が、厳密にはきみの記憶ではないかもしれないと、伝えるのがためらわれた」とは。
彼のアイデンティティの核となっている記憶は、過去に存在したアップルビーの記憶であって、彼のものではない。そう伝えて、アルフレッドが傷つくのを見たくなかった。
――本当に、それだけだろうか。
アルフレッドは、キースの想いを理解しているように微笑んだ。
「過去の記憶を消すのってね。けっこう危ないらしいんです。特に、俺はもう成熟してしまってますから……今の、この俺の記憶まで一緒に消えてしまう可能性がないわけじゃないそうで」
あと、かなり痛いみたいです。アルフレッドは軽い調子で付け足して、明るく笑った。
「でも、そうすることであなたのそばに居続けられるのなら……」
そう思って決めました。
アルフレッドの紅い瞳に、強い光が宿った。迷いのない、まっすぐな思慕の情。
その光のまばゆさに眩惑され、キースは暗い思考の迷路に落ちていく。
なにを言っているのだろうか。アルフレッドが自分を慕っているのは、過去の記憶があるためだ。自分のそばにいるために、過去の記憶を消してしまったら――そばにいる理由がなくなってしまうではないか。
いや、それでいいのかもしれない。今は「あなたのそばにいるため」という理由からであっても、記憶を消して、結果として執着から解き放たれて、彼自身の人生を歩むことができるようになるのなら。
そこまで考えて――嫌だ、と思った。
忘れないでほしい。彼の過去の記憶に棲まう、正義感が強く、ちょっぴり夢見がちで、心優しい……愛すべきキース・ホーリーランドを。その自分に「キスしたい」と告げた、彼の恋心を。
それこそが、アルフレッドに過去の記憶を消すという方法が存在することを、伝えられなかった理由だったのかもしれない。
けれど、こんなのは……ただのエゴだ。
アルフレッドは黙ったままのキースにちょっと微笑んだあと、場の雰囲気を変えようとしてウォーターズに話しかけた。
「先生も、俺の記憶を消す前に、思い残すことはありませんか?」
ウォーターズは突然水を向けられて、目をぱちくりさせている。
「ほら。俺がバディを変えてもらうときに持ち出した話。あなたがこの士官学校をクビにさせられずに済む情報を持っていますって。……本当に聞かなくてもいいんですか?」
「……」
ウォーターズは気まずそうに、黙ったまま唇に愛想笑いを浮かべた。触れられたくない話だったのだろう。
そういえば、バディを交換してもらうために、ウォーターズに対して「後々誰かを脅すための情報を持っていることを匂わせた」とアルフレッドは言っていた。ウォーターズは、このままだと誰かに地位を追いやられてしまいそうなのか?
ぼんやり考えて、キースは気づく。
「……冗談です。ホーリーランド公も怒ってくださいよ。もう二度と、だれかを脅すような真似はしないと言っただろうって」
「きみは悪い冗談を言う」
アルフレッドはキースの諌める言葉にかえって嬉しそうな顔をした。その無垢な表情に、胸がきゅっと痛む。記憶を消してしまったら、二度と見れなくなるかもしれない表情。
しかし、今は感傷に浸っている場合ではない。点と点を結ぶ、おぼろげな線が見えかかっていた。
キースはウォーターズに向き直った。
「先生。その情報と言うのは……」
彼の学校での立場を危うくしているのは――蟲を士官学校から排除しろと主張する、アイザック・ワイアット公爵にほかならないのでは?
けれど、ウォーターズはその情報を利用しようとはしない――アイザックを排除したくない?
ウォーターズは時間を気にするように腕時計に目をやって、早口で答えた。
「教えていただく必要はありません。……あなたの出生に関することでしょう」
「え?」
キースが訊き返すと、ウォーターズは苛々と「時間がありません」と言った。
「早く処置を終えてしまわないと……」
「時間? このあと、なにかあるんですか?」
アルフレッドが尋ねる。それを制して「わたしの、なんだって?」と重ねて訊くと、ウォーターズはなにかに憑かれたように、部屋のなかをうろうろと歩きだした。プレッシャーが限界に達したようだった。ガリガリと親指の爪を噛みながら、つぶやく。
「くそ、間に合わない……わたしは誰も傷つけたくなかっただけなのに……蟲も、ホーリーランド公も、マイルズ卿も……誰も……」
「……どういうことだ?」
そのとき突然、学校の鐘が鳴った。
カンカンカンカンと短く速く打ち鳴らされるけたたましい音に遮られて、ウォーターズの声が聞こえなくなる。
講義の開始や起床時間を告げる、のどかな響きとはまったく違う。これは、緊急事態を告げる音だ。過去、校内での非常事態訓練が行われたときにだけ聞いたことがある。
しかし日曜の、もう日も落ちかけた時刻だ。訓練であるはずがない。
ウォーターズが呆然と天を仰いでなにごとかをつぶやいた。「間に合わなかった」と、その口の動きは読めた。
アルフレッドが自身の耳に手をやる。鐘の音の向こうでかすかに聞こえる、同胞の羽音を聞こうとしているようだった。
彼はキースと目を合わせると、首を横に振った。
「みんな一斉に話していて騒がしいですが……どうやら訓練ではなさそうです。ただ、妙なのが……次第に蟲たちの声が揃ってきています。これは、まるで……シュプレヒコール?」
キースは伯父に聞かされた話を思い出した――「士官学校内に、蟲と人間との対立を煽ろうとする隣国の工作員がもぐりこんでいる」。
「とにかく、このままでは埒が明かない。校内の様子が一望できる場所へ行こう」
キースの言葉に、アルフレッドはうなずいた。彼はぐるりと室内を見回すと、私服姿のため外していた剣を迷いなく取り上げ、その柄 を握りしめた。
*
校舎三階から出られる、広大なバルコニー。高い鉄柵に近づくと、その隙間から王立陸軍士官学校の表に位置する広場がよく見えた。
その広場に、蟲たちがぞろぞろと集まってきている。彼らの白い頭髪が夕陽に照らされて紅 に光る。
蟲たちは声を揃えて「我々は奴隷ではない」「人間よりも優れた種である」「支配をやめろ」「抑圧をやめろ」と唱えている――その主張は、一部を除いてキースにも正しいと思えた。しかし。
緊急事態を悟った人間の学生たちも、また、広場に出てくる。より集まって、ひとつの群衆となった蟲たちに気圧されて、人間たちも一塊となる。
次第に熱を帯びてくる蟲たちのシュプレヒコールに反発して、人間からも野次が飛びだす。
「おまえたちを生み出したのは俺たちじゃないか!」
「黙って俺たちに使われていればいいんだ!」
「不満ならファームに帰れ!」
事態は一触即発に見えた。キースはアルフレッドと顔を見合わせる。アルフレッドはもどかしそうに眉根を寄せた。キースはうなずく。
「止めなければ……」
けれど、前回と同じく考えもなしに騒ぎへ飛び込んでいったら……アルフレッドをさらなる危険に晒してしまうかもしれない。
そのとき背後で、バルコニーへ出る扉の開く音がした。
振り向くと、深紅の腕章が目に飛び込んでくる。監督生たちである。彼らは事態の発生を予期していたかのように、日曜にも関わらず揃って制服を身に着けていた。
監督生たちは一列に並び、殿 を歩いていたマイルズを出迎える。
マイルズの隣には、ウォーターズがいた。キースは混乱する。
なぜ、ふたりが一緒に?
ふたりはなにやら小声で言い合っている。
「どうかお待ちください! まだ術が完成しておりません。これでは……」
「うるさい! 今朝、父上から早馬があった」
そこで言葉を切ると、マイルズはキースを忌々しげに睨みつけた――伯父はたしかに彼を諫めてくれたようだ。しかし、最悪のタイミングで。
「わたしは父上の信頼を取り戻さねばならない。予定どおり、今夜、決行だ」
ウォーターズはなにか言いたげに口を開いたが、マイルズは無視して彼に背を向ける。
こちらを向いたマイルズの冴え冴えとした碧の瞳が、キースを射抜いた。
コツ、コツ。マイルズのブーツの踵がバルコニーのタイルを叩く。キースは無意識に、じり、と後ずさる。背を鉄柵に押しつけ、しかしその冷たさにハッとする。
もう逃げ場はない。
そのとき、アルフレッドがキースの前に立った。いつか聞いた「あなたをお守りする」という言葉のとおりに。しかし、その広い肩は小さく震えている。剣の柄を握りしめながら、アルフレッドは口を開こうとした。
そこに、なぜかウォーターズが駆け寄る。
「せめて……せめて、わたしの口から」
ウォーターズは、対峙するアルフレッドではなく、隣に立つマイルズをまっすぐに見上げて言った。動揺と怯えから足が折れる。それでも、マイルズの制服のコートの裾に取りすがるようにして、続けた。
「あなたはお父上の信頼を取り戻したいとおっしゃる。ですが、あなたのお父上が……あなたの信頼に足る人物でないとしたら? 今夜、強行しなければならない理由はなくなるのでは?」
敬愛する父を否定され、マイルズは腹の底まで凍るような嫌悪の色を瞳に浮かべて、ウォーターズを見下ろした。
「なんだと?」
ウォーターズはごくりと唾を飲むと、アルフレッドを見やった。まるで「あなたはわたしがなにを言おうとしているのか知っているだろう」と確認するようだった。
アルフレッドは驚きに目を見開いて、しかし彼の言葉を肯定してうなずいた。
そして、ウォーターズはキースを見た。
「実は、ホーリーランド公は、あなたの……」
ウォーターズは続きを言葉にしなかった。しかし、その場にいる誰もが続きを知っていた。
「異母兄」である。
それは、まことしやかに囁かれている噂だった。キースの父親はどこぞの蟲らしいというのと同じくらい、根強く信じられている噂だった。
キース・ホーリーランド公爵は、あなたの腹違いの兄である――アイザック・ワイアット公爵は、実の妹を近親相姦の末に孕ませたのだ。
キースは笑い出したくなった。今さら、重大な秘密であるように、こんなことを言い立てるとは。
アルフレッドがこちらを振り向いて、首を何度も横に振る。信じられないと目を見開いて。その表情の意味を考えるよりも先に、ウォーターズはアルフレッドを指さした。
「真実は、彼が知っています。彼の持った記憶が、それを証明してくれるはずです。本来であれば、そのような記憶は消してしまいたかったのですが、この際……」
アルフレッドが、ウォーターズの言葉を遮ってなにか言おうとした。
「黙れ!」
しかしマイルズの悲痛な叫びで、その場はしんと静まり返った。
「忌々しい……忌々しい蟲どもめ……」
マイルズがそうつぶやきながら、キースを見る。
「わたしは信じない。おまえには半分蟲の血が流れている。おまえなどがわたしの……兄であるはずがない」
そうだろう、と思う。ホーリーランドの家の者は、そのような噂を誰も信じていない。
たしかに伯父は同腹の妹である母に、過剰な愛情を注いでいたらしい。しかし、それはあくまで兄としての愛情だった。そう信じられるのは、伯父の強い規範意識への信頼もあるし、なにより髪色のせいだ。伯父は金髪。母は金に近い明るい茶髪だったという。そのふたりから、キースのような濃い黒髪の息子が生まれる可能性は低いだろう。
しかし、わずかでも可能性が生まれたことにキースの胸の奥はざわめく。
アルフレッドの「二番目の記憶」。「壁」のなかで死んでいった蟲の、次の蟲。その記憶の箱になにが入っているのか、キースもまだ告げられていない。
「私には幼少期、父上に愛された記憶がほとんどない。父上は幼いころ留守がちだった。ただでさえ多忙であるのに加えて、おまえの後見まで務めていたのだから当然だ。けれど、それはあくまでおまえが早世した妹の子どもだったからで、己の息子だったからではない……」
口では否定しながらも、マイルズは動揺を隠せない。よろよろとした足取りで鉄柵に歩み寄り、そこに両手で取りすがった。
彼は広場でシュプレヒコールをあげている蟲たちと、罵声を浴びせている人間たちを見下ろす。
彼のまなざしは、蟲たちだけを睨んでいた。
「つくづく哀れな連中だ。人間から仕事を、愛を、自尊心を奪ってなお、不満の声をあげている」
「殺せ」と遠くで声がする。広場のどちらの陣営から出てきたものか、わからない。しかし、その言葉の生み出したざわめきが、やがてひとつの総意に達した。「殺せ」と先ほどよりも大きな声がする。複数人の声が重なって、「殺せ、殺してしまえ」と叫ぶ。
マイルズは、はは、と乾いた笑いをこぼした。彼には、その声が蟲たちの声にしか聞こえぬらしい。
「実に野蛮な輩 だ。そんなに今の境遇が不満なら、元いたところに戻してやろう。なあ?」
蟲たちへの憎しみによって落ち着きを取り戻したマイルズは、ウォーターズを見た。促すように、静かに一度、深くうなずく。
それを受けたウォーターズは、目を伏せて指を鳴らした。未だ、今晩の「決行」に納得がいかないように、ためらいがちに。
パチン。パチンパチン。パチンパチンパチン。
それは、なにかの合図のようだった。
近くで、しゃらん、と鋼と鋼のこすれる音がした。
隣のアルフレッドからだった。そちらへ顔を向けると、アルフレッドは剣を抜いていた。
カラン、と鞘を捨てる。
両手で構えて対峙するのは――キースだ。
「な、に……?」
状況が飲み込めず、ただ、疑問が口からこぼれた。
それでも身体に染み付いた動きで、キースは帯同したままとなっていた腰の剣に、ゆっくり腕を伸ばす。ホルダーに手をかけた瞬間だった。
「どうした、アルフレッ……!」
斬りかかられた。咄嗟に鞘から抜かないままの剣で受けた。
ぐらりと頭が揺れたのは、過去の記憶がまた蘇りかけたためか。久方ぶりに受け止めた重い鋼の打撃のせいか。それとも。
「アル……!」
必死に名前を呼ぶが、彼は剣を振るう手を止めない。防戦一方のキースを打ち負かそうと、繰り返し斬りかかる。鞘の装飾に刃がぶつかって、ガツガツという鈍い音がする。
その剣さばきもなにもない、やたらめったらな攻撃は、以前見た彼のものとはまったく違った。
ただ鞘を掴んで、その衝撃を受け流しながら、キースの頭は怒りと混乱でいっぱいになる。
まさか。まさか、伯父が疑ったように、アルフレッドは……アルフレッドこそが隣国と繋がって、自分をたぶらかそうとしていたのか? しかし、それならどうして自分に斬りかかる?
それに、なにやら様子がおかしい。こちらの声も届いていないようだし、普段の彼とは違う仮面のような無表情をしている。
周囲に立つ人間たちは黙ったまま、こちらを見ている。突然の事態にあっけに取られているというよりも、ただ眺めている。
まるで、舞台のうえで繰り広げられる劇を観ているようだ。
自身も役者のひとりになったかのように、芝居がかったしぐさでマイルズが両手を広げる。
「アルフレッド、やめろ! 乱心したか?」
そうしてマイルズは、横目でちらりと広場の群衆に目をやる。どうやら、何人かこの騒ぎに気付いたようだ。こちらを指さしている者がいる――よそ見をしたせいで受け止めた刃を払い損ね、キースの鞘が嫌な音を立てた。
このままでは勝ち目がない。それでもキースは、鞘から剣を抜くことが怖かった。
マイルズが小さな声で「そろそろだな」とつぶやく。そうして、また舞台俳優のような朗々たる発声で言った。
「アルフレッド、動くな! さもなくば無理にでも止めることになる!」
その台詞を合図として、二人の監督生が剣を抜き、前に出た。
アルフレッドの脇から、彼を追い詰めるようにじりじりと近づいていく。いくらアルフレッドが剣の達人であっても、二対一では敵わないはずだ。
しかし、アルフレッドの視線は揺らがない。キースの一挙手一投足を無機質な瞳で観察し続けている。わずかな隙を突くために。周囲の声など耳に入っていないようだ。それはまるで、操り人形のようで――。
ああ、このバルコニーは舞台なのだ。
唐突に、キースは悟った。
ここは舞台。自分たちは演者。観客は広場にいる人間たち。筋書きはこうだ。
同胞に煽られた反逆の蟲が、相棒であった貴族に刃を向ける。剣を抜くことのできない臆病者の貴族は、あわや殺されかける。そこに現れる主役 は、ワイアット公マイルズ卿。蟲の襲撃から貴族を救い、王立陸軍士官学校が反逆者たちの手に落ちるのを防いだ。果たして、学校から蟲は駆逐され、マイルズ卿は父親の覚えもめでたく……。
このままでは、アルフレッドは正当防衛の名のもとに殺されてしまう。反逆者の汚名を着せられて。
そんなことは、させない。今度こそ、彼を死なせない。
奥歯を噛みしめて、キースは剣を抜いた。噛みしめているはずなのに、歯はガチガチと鳴った。
アルフレッドの瞳がこちらを見る。紅い瞳。凪いだその奥に、ほんのわずかに救いを求める色が滲んだ。
まだ、アルフレッド自身はそこにいる。自分を信じて、待っている。
それがわかると、すっと息が楽になった。身体の奥から力が湧いてくる。
「今、迎えに行くよ」
キースは小さく囁いた。それから、広場の群衆にも聞こえるように大きな声で言った。
「この場は、わたしに任せてくれ!」
ゆっくりと鞘から剣を抜く。
マイルズが「は、」と嘲笑うような吐息を漏らす。それはどこか悔しげだった。
台本が書き変えられてしまった。
剣を抜くことのできぬはずの貴族が、剣を抜いて、かつての相棒と対峙する。
キースが剣を構えたのを見て、アルフレッドも剣を構えなおした。
見たことがある、と思った。落ち着き払った、けれど少しいたずらっぽい、この微笑みを――本来の彼に戻りかけているのか?
今度のアルフレッドは、舞うように剣を振るった。鮮やかで鋭い太刀筋。それを受けながら、キースは思った。あの剣技の訓練のときと同じ太刀筋だ。そして、そのときにはわからなかったけれど――。
まるでふたりでダンスを踊っているように、打ち合い、切り結び、払って、また打ち合う。続けていくうちに、しかし、アルフレッドの剣先がぶれてきた。
直接、剣を交えてようやくわかった。
やはり、アルフレッドはあの人の生まれ変わりではない。
自分が一度も勝てなかった、あの人とは違う――!
その瞬間、キンと高い音がして、アルフレッドの剣がバルコニーの上を回転しながら滑った。
勝負が決まった。
けれどキースは剣を握ったまま、視線を逸らさない。アルフレッドは空になった己の手をだらんと下げ、膝をついた。はあはあと喘ぐ息の音だけが耳に届く。
いつの間にか、広場の騒乱はおさまっている。皆、固唾を飲んでふたりの勝負の行く末を見守っていたらしい。
我に返ったマイルズが「くそ」と悪態をついて、剣を抜いたまま棒立ちになっている監督生たちに怒声を浴びせた。
「おまえたち、さっさとやれ! こうなったら、あいつらのどちらでもいい。早く!」
しかし監督生たちはためらって、おどおどしながら動かない。
キースは背後の騒ぎを無視して、ゆっくりとアルフレッドに歩み寄った。
ぼんやりと霞のかかった紅い瞳が、こちらを見上げる。どこへ行くべきか知らない迷子の子どもの、眉根がきゅっと寄った。
キースは剣を鞘に戻して、アルフレッドに手を差し出した。歌うように、思い出深い言葉を口にする。
「『心は永遠にあなたのそばに』」
その途端、霧が晴れるようにアルフレッドの瞳に光が戻ってくる。ウォーターズが悲痛な声で「催眠が解けてしまう」と叫んだ。
アルフレッドの表情に確信を深めて、キースはつぶやいた。
「……やはり、知っているんだな」
キースは、マイルズとウォーターズを振り返った。すっかり怯え、たじろぎ、この場から逃げ出そうとしている二人を。
そして、にっこりと微笑みかけた。
「彼の知っている真実は、あなたがたの想像ほど、おぞましくはありませんが……取引をしませんか?」
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