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第19話 魔法

 その日、ヨシュアは指を切った。  ほんの小さな傷だった。  朝食の果物を切っている最中、林檎の皮と一緒に指先を掠めただけだ。 「あ」  ヨシュアが声を漏らす。  白い指に、赤い血が滲んだ。  王子は椅子から立ち上がった。 「どうしたの」 「少し切ってしまいました」 「見せて」 「これくらいなら大丈夫ですよ」 「いいから」  ヨシュアの手を取る。  人差し指の先に、小さな傷がある。  王子は眉を寄せた。 「料理が得意だと言ってなかった?」 「得意ですよ」 「得意な人は、自分の指まで切らない」 「林檎が少々、手強かったもので」 「林檎のせいにするなよ」  卓上には、半分まで皮を剥かれた林檎がある。  反論するように、つやつやと赤く光っていた。 「布を持ってくる」  王子が手を離そうとすると、ヨシュアは笑った。 「本当に大丈夫です。すぐに治りますから」  白い指先に、淡い光がともった。  光は傷を包み、すぐに消える。  血も、傷口もなくなっていた。 「また魔法?」 「はい」  王子は治った指を見つめた。 「痛くない?」 「ええ」 「傷もない」 「ありませんね」 「僕にも、できる?」  何気なく尋ねた。  ヨシュアが黙った。  王子は顔を上げる。  金色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。 「魔法」  もう一度言う。 「僕にも使える?」 「使えますよ」  答えはあまりにも簡単だった。 「どうして今まで教えてくれなかったの?」 「聞かれませんでしたから」 「聞けば教えた?」 「もちろんです」 「でも、僕には魔術の才能がない」  幼い頃、王都で適性を調べられたことがある。  教師に言われたとおり術式を描き、決められた言葉を唱えた。机の上の石を光らせるだけの課題だった。  石は何も変わらなかった。  教師は、第三王子に魔術の才はない、と父へ報告した。 「魔術と魔法は違います」  ヨシュアは林檎を置いた。 「魔術には、術式や道具や、正しい手順が必要です。決められた道を、間違えずに歩かなければなりません」 「魔法は?」 「道など、必要ありません」  ヨシュアは王子の前へ手を差し出した。  掌を上に向ける。 「行きたい場所へ、直接手を伸ばせばよいのです」 「それだけ?」 「それだけです」  王子は疑った。 「そんなに簡単なら、誰でも使える」 「ええ」  ヨシュアは微笑んだ。 「誰にでも使えますよ」      *  朝食のあと、二人は庭へ出た。  教室は、青い花が咲く場所だった。  王子は草の上に座り、ヨシュアと向かい合っている。  二人の間には、小石が一つ置かれていた。 「まず、この石を持ち上げましょう」 「手で?」 「魔法で」 「どうやって」 「持ち上げたいと思ってください」  王子は小石を見た。  黒く、丸い石だった。  持ち上がれ、と念じてみる。  何も起こらない。 「動かない」 「本当に、動くと思っていますか?」 「思ってる」 「いいえ。動くはずがない、と考えています」  ヨシュアは石へ指を向けた。  小石が浮かぶ。  王子の目の高さまで上がり、その場でくるくると回った。 「ずるい」 「ずるくありませんよ」 「ヨシュアには簡単だから」 「テオにも簡単です」 「できてない」 「できないと思っているからです」  小石が地面へ戻る。 「魔術なら、石を持ち上げるための理由を用意します。風を起こす。糸を使う。石を軽くする。けれど、魔法に理由はいりません」 「石は、自分で浮かばない」 「そうですね」 「なら、理由がいるだろ」 「いいえ」  ヨシュアは楽しそうに首を振った。 「石の都合を考える必要はないのです」 「石の都合?」 「石が浮きたいかどうかは、石が決めることではありません」  ヨシュアは小石を拾い、王子の掌へ載せた。 「テオが浮いてほしいと思う。ですから、浮くのです」 「わがままだ」 「魔法とは、そういうものですよ」  王子は掌の石を見た。  指を開く。  石は落ちた。 「もう一度」  草の上へ転がった石を見る。  浮いてほしいと願う。  動かない。 「言葉にしてもよいですよ」  ヨシュアが言った。 「浮かべ」  石は動かなかった。 「お願いするのではありません」 「お願いしてない」 「石が拒んだとき、諦める余地が声に残っています」 「そんなことまでわかるの?」 「ええ」  ヨシュアは王子の背後へ回った。  肩越しに腕を伸ばし、王子の手へ自分の手を重ねる。 「相手に選ばせないでください」  耳元で声がした。 「浮く以外の答えを、世界からなくすのです」  王子は小石を見た。  浮かばなければならない。  そういうものだと思う。  空を魚が泳ぐように。  生垣の兎が跳ねるように。  東の塔に星空があるように。  ここでは、ヨシュアが望んだことが現実になる。  ならば。 「浮かべ」  小石が震えた。  草の葉から、ほんの少し離れる。  王子は息を呑んだ。  驚いた瞬間、小石は落ちた。 「今」 「はい」 「浮いた」 「お見事です」  ヨシュアの声は穏やかだった。  けれど、重なっている手に力が入った。 「もう一度」  王子は小石を見つめた。 「浮かべ」  石が上がる。  今度は、膝の高さまで。  不安定に揺れながら、それでも落ちない。 「できた」 「ええ」 「ヨシュア、できた!」  振り返る。  すぐ後ろに、ヨシュアの顔があった。  金色の瞳が、王子よりも嬉しそうに輝いている。 「素晴らしいです、テオ」  小石が落ちた。  けれど、もう気にならなかった。 「もう一回やる」 「はい」 「次は、もっと高く」 「ええ。どこまででも」  その日、王子は小石を自分の頭より高く浮かせた。

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