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背中の皺
唇が触れた時、湊は目を閉じなかった。
十月末の高校バスケ県大会。試合を終え、移動着に着替えたあとだった。
会場である体育館に隣接する校舎の非常階段は北向きで薄暗かったけれど、西日の気配は確かにあった。
体育館から、最後の試合の第四クォーター開始直前のブザーが聞こえてきた。
歓声が一度だけ膨らみ、またすぐに遠くなる。
目の前に柏木の顔があった。
唇が触れる直前に見えたのは、閉じた瞼と、眉間に少しだけ寄った皺。いつも自分を困らせる時の顔とは違って、余裕がない。
頬に、柏木の浅い息がかかった。唇は思っていたよりも乾いていて、重なったところだけが遅れて湿った。
湊の両手は身体の横に下りたままだった。
押して、と言われていた。
ほんの少し前、この非常階段の踊り場で、二人は一歩分の距離を空けて立っていた。
今日の試合では何本入ったとか、次はどことあたるとか、そういう話をした。
二人とも自分のチームではガードをしている。
湊は自分から話題を振ることはなかったが、聞かれたことに答えるだけで会話は続いていた。
柏木の右手の人差し指には、白いテーピングが巻かれていた。端のところが薄く黒ずんでいて、試合が終わってから一度も巻き直していないのがわかる。
「俺のこと、好きになりそう?」
競技の話を切ったのは柏木だった。
「わからない」
「じゃあ、俺に好きって言われるのは?」
「……わかんない」
「やっぱり鷹野先生のことが好きなの?」
「それはお前に関係ない」
「それはわからないって言わないんだね」
湊は返事をしなかった。
柏木は、巻いたテープの端を親指で押さえながら、少し考えるように目を伏せてから顔を上げた。
「キスしたら、俺を好きかわかる?」
「そんなの知らない」
「初めて?」
答えるつもりはなかったのに、目を逸らしたことで伝わったらしい。
柏木は一歩近づいた。
けれど、湊が下がらないのを確かめるまでは、顔を寄せなかった。
「したらわかるかもしれないよ」
そんなものなのかな、と思いながら湊は曖昧に頷いた。
「嫌だったら押して」
柏木はそう言ってから、改めて「本当にいい?」と聞いた。
湊は小さく「うん」と返事して少し顎を上げた。
それで始まった。
嫌だったら押して。そう言った柏木の胸はすぐ届くところにある。紺色の移動着のファスナーが揺れて、微かに金属的な音を立てた。
押そうと思えば押せた。けれど、湊は息を止めたまま動かなかった。
柏木の右手は湊の袖口を軽く持っているだけだった。簡単に振り解けそうな程度の力で。左手をどうしているかはわからない。
唇が一度離れて、息の通る隙間ができる。柏木が目を開けて、湊を見た。
「……嫌?」
近い距離のまま聞かれた。湊は首を微かに横に振った。
明確に嫌だとまでは思わなかった。だから、その返事は嘘ではない。
すると柏木がもう一度、今度は少しだけ顔を傾けて触れてきた。一度目よりも長かった。
唇の端が合わずに僅かにずれて、直すみたいにもう一度重なる。上手いわけではないのはキスが初めての湊にもわかった。
柏木が触れ方を探すように唇をついばむ間、湊は待っていた。
何かが変わるのを。
柏木を見つけると気持ちが動く理由や、届いたLINEをすぐには閉じられない理由が、身体の内側から形を持って現れるのを待っていた。
好きだと言われるたび、楽になる感じがした。
鷹野に何度近づいても引かれる線が柏木の前にはない。
しょっちゅう会おうと誘われ、返事をしないでいると翌朝には「怒ったのか」とか「どの質問が嫌だったのか」と続きが届く。
何も差し出していないのに、柏木は欲しがってくれた。悪い気はしなかった。
それを好きというのかもしれない。だったら、キスしてみれば自分の気持ちがわかるのかもしれない、と思ったのは確かだった。
けれど唇が重なっている間に湊の中に現れた答えは、柏木についてのものではなかった。
——先生じゃない。
ただそれだけだった。
柏木の唇が離れた。袖口を掴んでいた指もほどけた。
離れた場所だけが急に冷えて、湊は唇をきつく結んだ。
目を逸らし、踊り場の手すりに視線を逃す。鉄製の手すりはベージュのペンキが錆で浮いて、ところどころ剥がれていた。
「わかった?」
柏木の呼吸が少し乱れているのが聞こえた。
「……何が」
「俺のこと好きか」
聞かれることはわかっていたはずなのに、言葉にされると逃げる場所を探してしまった。
「やっぱりわかんない」
体育館でボールが床を叩く音が続いている。
速いドリブルの音が数回、シューズの鳴る音、それから短い笛。
他校の試合は湊たちがここにいる間にも進んでいた。
「ねえ本当に?」
「何が」
「わからない顔じゃないよ、それ」
湊は反射的に顔を上げた。
柏木は笑っていなかった。
隠したいものを正面から見られている感じがして、また視線を外した。
「ごめん」
とりあえず謝って自分が悪いことにすれば、この話を終わらせられる気がした。
すると柏木の息が短く漏れた。
「誰に謝ってんの?」
「え」
「俺に? 先生に?」
湊の喉が閉じた。
返事ができなかったこと自体が答えになってしまった気がした。
「今、鷹野先生のこと考えてたでしょ」
「……関係ないだろ」
「俺にはある」
柏木が一歩下がった。
たった一歩なのに、さっきまでよりずっと遠くなった。
「俺は、お前が俺を好きか知りたかったんだけど」
「だから、わかんないって」
「お前は結局、先生を好きか確かめたんだな」
「そんなつもりじゃ」
「つもりの話じゃない」
似た言葉を前にも聞いた。
九月にあった大会で、柏木にその日のプレーについて聞かれていた時だった。
トイレ近くの階段前で、自分からは話題を広げずに聞かれたことにだけ答えていると、柏木と同じ学校の選手が二人通りかかった。
「柏木、お前また湊と話してんの?」
一人が柏木の肩に腕を回しながら面白がるように湊を見た。
「こいつ、お前のことずっと見てるから」
「見てるのは試合だよ」
柏木は回された腕を外しながら言った。それから、湊の方を一度見た。
「でも湊は、鷹野先生しか見てないけど」
冗談にして話を逸らすつもりだったのかもしれない。
けれど二人は、今度は食いつくような目を湊に向けた。
「何それ。先生のこと好きなの?」
「彼女いないの? 男はありってこと?」
「……うるさい」
「へえ、じゃあ柏木はどうなん?」
無視して離れようとすると、一人があからさまに道を塞いだ。後ろは壁だった。
「柏木と先生ならどっちがいい?」
湊は柏木を見た。二人とは違い、笑ってはいなかった。
でも、悪ノリする二人を止めなかった。
「先生となら手、繋げる?」
「答えない」
「キスは?」
「答えないって言ってる」
湊をそこから連れ出したのは事務局から戻ってくる途中の主将だった。
「湊、アップ始まるぞ」
試合後に主将から事情を聞いた鷹野は、柏木の学校の顧問を通して柏木たちを呼び出した。湊は少し離れた場所で、リュックを掴んだまま聞いていた。
「ただ話してただけです」
柏木たちの一人が言った。
「湊が嫌がってたのはわかってただろ。通路も塞いだと聞いた」
「そんなつもりは……」
鷹野は声を荒げずに言った。
「つもりは聞いていない」
その夜、柏木から謝罪が来た。
湊の連絡先は、囲まれる前に聞かれて断りきれず教えたものだった。
次も大会で顔を合わせるのに、拒んだ相手として覚えられる方が面倒だと思ったからだ。
柏木は、鷹野の名前を出したこと、自分も答えを知りたいと思って黙っていたこと、仲間を止めなかったことを一つずつ書いた。
もういい、と湊は返しながら、最終的には「もう近づかない」という着地になるのかと思っていた。
けれど柏木は、「あいつらと一緒には、お前のところに行かない」と返事をよこした。
《お前一人でもしつこい》
《嫌?》
《しつこい》
《嫌ならやめる。しつこいだけなら、まだやめない》
その後は毎日のように連絡が来た。
最初は質問だったが、徐々に中身が変わった。今日の試合で味方がミスしてもその顔を見ずにすぐ戻ったこと。ベンチへ下がる時にコートに入る選手の肩を必ず一度叩くこと。
湊が無意識にしていることを、柏木は何度も見つけた。
味方がミスしたあとの振る舞いは鷹野も見ていた。ただし見方が違った。
以前、鷹野は練習を止めて、「味方がミスしたあと顔を見ないのはいいが、声も掛けずに戻るな。お前だけ切り替えてどうする」と言ったことがある。
湊が自分でも見ないふりをしていた足りなさを、鷹野はプレーの中から拾った。湊はその場では返事をしただけだったが、次の練習から味方の名前を呼ぶようになった。
湊は柏木に、俺の何が気に入ったんだ、と聞いたことがある。すると柏木は、何個言えば好きだって信じてくれる? と返してきた。
信じられないわけではなかった。
むしろ、信じられてしまうから困った。鷹野からは一度も向けられなかった種類の言葉だったから。
「……本当にごめん」
柏木の声で、湊は非常階段の踊り場へ引き戻された。
「あの時のこと」
「それはもういいって言った」
「よくない。それに、謝ったからって、お前に何してもいいとは思ってない」
柏木は体育館の方を見た。もうすぐ最後の試合も終わる。
「俺、キスする前に聞いた」
「うん」
「お前も、いいって言った」
「わかってる」
「じゃあ、されたみたいな顔するなよ」
責める声ではなかった。責められた方がまだ返しやすかった。
湊は唇を舐めかけて、やめた。さっきの感触を消そうとしたみたいに見られたくなかった。
「俺、断ってない」
「うん」
「柏木を使うつもりもなかった」
「……うん」
「だから……」
続きは見つからなかった。
嘘は言っていない。好きかわからないことも、キスを嫌だと思わなかったことも、全部その時点では本当だった。
それでも柏木は傷ついているように見えた。
嘘を言っていないのに、どうしてそうなるのか湊は整理できなかった。
「次、湊からLINEくれるなら」
柏木が言った。
「先生に何か言われた日じゃなくて、俺に会いたい日にして」
胸の内側を、狙って押されたみたいだった。
「……気づいてたの?」
「お前、わかりやすくはないけど、同じこと何回もするから」
柏木は少しだけ笑った。
でも、今まで見た笑い方とは違った。そこで会話を切るみたいな笑い方だった。
「そっち、集合何時?」
「……四時二十分」
「もう行った方がいいよ」
スマホを見るとあと十分もなかった。
柏木は階段を下り、校舎に続く扉へ手を掛けた。
「柏木」
呼び止めると、彼は振り返った。
「その指、痛い?」
柏木は右手を見て、浮いたテープの端を親指で押さえた。
「もう平気」
言うべきことは他にあったはずだった。
でも、謝れば自分が楽になるだけかもしれない。引き止める言葉は、もっと違う。
数秒待ってから柏木は扉を開けた。
錆びついた音で扉が閉まると、湊はひとりだけ踊り場に残された。
西日が雲に隠れて、北向きの非常階段は水の底みたいに薄暗くなった。
湊は集合時刻の五分前になってから、ようやく扉を開けた。
試合会場へ戻る廊下は非常階段より温度が高く、案外身体が冷えていたことを遅れて自覚した。
徐々に人の流れが増していく中、唇を指でそっと押さえた。
触った感じはいつもと変わらない。それでも、柏木に触れられた場所だけを正確に選んで押さえられることが嫌で、すぐに手を離した。
チームの集合場所には、すでに他の部員が揃っていた。
鷹野は壁際にまとめた荷物の前で名簿と目の前の部員を見比べている。
湊が近づくと、名簿へ落としていた視線を上げた。
「湊、最後だぞ」
「すいません」
鷹野は名簿の湊の名前に印をつけた。
唇を見られた気がして一瞬だけ俯いたが、鷹野の視線はもう別の部員へ移っていた。自分の前に、他の部員と同じように一本の線が引かれただけだった。
その扱いが正しいことはわかっている。
わかっているのに、柏木の「されたみたいな顔するなよ」が耳の奥に戻ってきた。
湊は床に置いていたリュックを背負い、鷹野から一番遠い列の最後尾に並んだ。
学校へ戻るバスの中で、湊は窓側の席に座った。
日が落ちて幹線道路沿いの店の看板が灯り、埃っぽい窓に映る車内と重なる。
窓の外を見ているつもりでも、自分の顔の方が濃く見えた。
前方ではチームメイトが今日の試合の話をしていた。
誰のスリーが入ったとか、審判の笛が遅かったとか、次はどことあたるとか。話題が変わるたびに笑い声が起きる。
湊は膝の上のスマホを裏返した。
柏木からの新しい通知はなかった。来ると鬱陶しいと思うのに、来ないと何度も確かめてしまう。
画面を開き、昨晩のやり取りを読み返した。
《明日、少し話せる?》
《たぶん》
《本当? 今日、返事早いな》
《たまたま》
昨日の練習後、湊は鷹野と二人きりになった。
進路調査票を出していないことが、担任から鷹野に伝わって呼び止められただけだった。志望校の欄を空白にしたまま、とっくに提出期限を過ぎていた。
鷹野は、職員室へ持っていく前に一度話しに来いと言った。
話す内容は進路のことだけでよかった。
それなのに湊は、空欄が埋まっていない用紙を持ったまま言ってしまった。
「卒業したら俺、先生に——」
「湊、今は進路の話をしている」
「じゃあ、いつなら聞いてくれるんですか」
「そもそも、それは俺がお前に答える話じゃない」
教師として正しい位置へ戻す言葉だった。
だからこそ、湊は何も返せなかった。
その夜、柏木のLINEにいつもより早く返事をしていた。自分でも、その二つを繋げて考えてはいなかった。
バスが赤信号で止まった。
少し遅れて身体が前へ傾く。膝の上でスマホが滑ったので、端を指で押さえた。
通路の先、最前列に鷹野が見えた。
座っていても肩の位置が高い。隣の主将と話しながら、手元の紙を何度か捲っていた。
湊は無意識に自分の唇へ指を上げかけたが、途中で気づき、その手を下ろした。
ファーストキスは誰だった、といつか軽く聞かれることがあるかもしれない。答えは柏木だ。鷹野ではない。
鷹野とキスをする約束なんてしていない。
勝手にファーストキスの席を残して、勝手に他には渡さないつもりでいただけだ。もうその席はなくなった。
操を立てていた、という言葉が浮かんだ。自分でも似合わないと思う。そもそも立てる相手が了承していない。
でも、他に近い言葉を知らなかった。誰かとすることがあるなら鷹野なのだと、確認もせずに決めていた。
柏木としたからといって、鷹野とできなくなったわけではない。そんなことはわかっているのに「最初ではない」という一つの事実が、もう戻せないものとして残ってしまった。
信号が青になり、バスが動き出した。
鷹野の背中が、座席の揺れに合わせて僅かに動く。
湊は窓の外に目を戻した。ガラスに映る自分が嫌になって目を閉じた。
学校へ着いた頃には、完全に暗くなっていた。
体育館脇にバスが停まると、部員たちは荷物を運び始めた。
湊はリュックを背負い、六個入りのボールバッグを肩に掛けた。砂利を踏むたび、バッグの中でボール同士がぶつかって鈍い音を立てる。
体育館の中は、入口の照明と緑の誘導灯だけが点いていた。鷹野が分電盤を操作すると、天井の照明が列ごとに点いた。最初はぼんやりと白く、徐々に明るさが揃っていく。
「荷物置いたら解散。忘れ物するなよ。明日は練習休み」
鷹野の声が静かな体育館に広く響くと、帰り支度をする音が続いた。
湊は用具庫の棚の前にリュックとボールバッグを下ろした。肩が急に軽くなる。掛け紐が当たっていた場所には、まだ重さの感触だけが残っている気がした。
更衣室のロッカーの扉を閉める音、バッグのファスナーを引く音がまばらになり、やがて一人ずつ鷹野に挨拶をして出ていった。
湊はバッグからボールを出していた。
しゃがみながら、一つずつ両手で持って指で表面を強く押す。少し空気が減っているものを右側へ、問題のないものを左側へ置いた。
今やる必要はなかった。それでも、何かの途中にいれば帰らずに済む。
「湊、それ明後日でいいぞ」
背後から鷹野に言われた。
「減ってるのあるかもしれないんで」
「次の練習前に見るから早く帰れ」
「今、分けるだけなんで」
鷹野は何も返さなかった。
湊が五つ目のボールを押している間に、更衣室から出てきた最後の部員が「お先です」と出て行った。通用口の扉が閉まり、体育館の中から他の声が消えた。
鷹野は開け放した用具庫の入口に立っていた。湊の方を見ている。
「何かあったか」
ボールを押す指に力が入った。
目を開けたまま柏木のキスを受け入れた湊は今、鷹野の顔を見ることができなかった。
「別に」
「試合のことか」
「違います」
「どこか痛めたか」
「大丈夫です」
短く答えるほど、隠している形になる。
鷹野はそれ以上聞かずに用具庫の中へ入ってきて、棚からはみ出していたマーカーの籠を押し込んだ。それから扉の金具に鍵を差し込み、回るかどうかを確かめていた。
湊は、分けたボールのうち空気が入っているものをラックに入れた。
今度は今日使わなかったボールまでチェックし始める。自分でも意味がないとわかっていた。
「もう閉めるぞ」
「はい」
返事をしたのに足は動かなかった。
鷹野は鍵を持ったまま、用具庫の奥へ身体を向けた。消灯前の確認だろう、窓の施錠を一つずつ見ている。
黒いジャージの背中が照明の下にあった。
湊はボールから手を離し立ち上がった。
一歩進んだ。
足音が鳴ったのに、鷹野は振り返らずにいる。
もう一歩、距離を詰める。
手を伸ばせば届く距離。
明後日も練習がある。
帰れともう一度促されたら、そのまま素直に帰った方が絶対にいい。
それでも湊は、手を伸ばして鷹野のジャージの裾を掴んでいた。布が指の中で細く皺になった。
「湊」
名前を呼ばれた瞬間、湊は更に一歩踏み出してその背中に額を押しつけた。両腕を腰へ回す。思っていたよりも厚い。腹の前で自分の手首を掴んで腕を繋いだ。
鷹野の体温が、布越しに額と胸に伝わってくる。洗剤と、体育館の床に近い乾いた匂いがした。柏木の制汗剤の匂いとは違う。それを区別した自分が嫌だった。
「……何してる」
鷹野の声が、背中を通して低く響いた。
鷹野の腕は身体の横に下りたままだった。
抱き返されないことに、安心した。
抱き返されないことが、同じくらい苦しかった。
「少しだけ」
額を押しつけたまま言った。
「少しだけ、このままでいてください」
「何があった」
「……キスされました」
鷹野の呼吸が一度止まった。
背中が大きいから、呼吸の変化も広く伝わる。
止まったのはほんの短い間で、すぐにゆっくりと息が吐かれた。
「無理にされた?」
「違います」
「嫌だったか」
「……違います」
湊は腹の前で掴んでいた自分の手首に力を入れた。
「断ってないです。……嫌だったら押してって言われて、でも、押さなかったので」
「そうか」
それだけだった。
相手は誰だとも、どうしてそうなったとも聞かれない。
「先生は、聞かないんですか」
「嫌だったかは聞いた」
「それ以外です」
「俺が聞いていいことじゃない」
柏木は、湊が答えなくても質問をやめなかった。
でも鷹野は聞かない。聞かないことで守られているはずなのに、今はそれが拒まれているみたいに感じた。
「俺に何をしてほしい」
鷹野が聞いた。
「……わかりません」
「わからないまま抱きついたのか」
「はい」
鷹野は小さく息を吐いた。
「お前はいつも、身体が先に動くもんな」
「すいません」
「謝れとは言ってない」
湊は目を閉じた。
鼻先にあるジャージの生地が、呼吸のたびに僅かに動く。
その動きが止まらないことを確かめるみたいに、腕の力を緩められなかった。
「俺、先生以外には、そういうことしないつもりだったんです」
鷹野の背中が、今度こそはっきりと固くなった。
「俺はそんな約束させてない」
「俺が勝手に決めてただけです」
声が震えた。
泣きたいわけではないのに。
ただ、自分の中にしかなかった約束を言葉にしたことで、それがひどく幼稚なものに見えた。
「俺が勝手に、他のやつとはしないって決めてました」
「湊」
「なのに、好きって何かわからなくなって」
柏木の顔が浮かんだ。
湊の小さな行動を何度も見つけて、好きだと言ってくれた顔。キスの続きを求めず、そこで会話を切るみたいに笑った顔。
「あいつに好きって言われるの、嫌じゃなかったんです。大会のたびに探したし、今日だって自分から呼び止めました」
そこまで言うと、抱きついていることが急に卑怯に思えた。キスをした直後に言われたことまで、鷹野のところへ持ってきている。
「あいつに、先生を好きか確かめるためにしたんだろって言われました」
鷹野はすぐには答えず、数秒黙った。
「……お前はどう思った」
「そんなつもりじゃなかったです」
「それで」
「……違うって、ちゃんと言い切れませんでした」
「なら、それをそいつに言え」
「……でも」
「そいつと話せ」
「……先生」
「俺に話して終わらせるな」
「……はい」
自分が何をしなければならないかが形になっていく。
柏木に謝ること。
謝って自分だけ楽にならないこと。
次のLINEを送るなら、鷹野に何か言われた日ではなく、自分が柏木に会いたいと思った時にすること。——今は、そのどれもできそうになかった。
鷹野の手が動いた。
抱き返されるのかと思った。けれど、その手は湊の腕に掛かり、腹の前で繋いだ手首と手の甲を包むように持ち、外そうとした。湊は反射的に力を入れた。
鷹野は無理にほどかず、そのまま待った。
数秒経つと、湊の方が先に力を抜いた。鷹野は、力の抜けた湊の腕をゆっくり下ろした。
湊の手が離れると、ジャージの背中にいくつも細い皺が残った。触れていた体温がなくなり、用具庫の空気が急に広くなる。
鷹野が振り返った。
湊は顔を上げられなかった。
床に落ちる二人の影は、もう重なっていなかった。
「……すいませんでした」
「だから、俺に謝るな」
さっきより静かな声だった。
「お前は俺を裏切ってない」
胸の奥に冷たいものが落ちた。
わかっていた。
正しい言葉だと思う。
それでも、一番聞きたくなかった言葉だった。
「……それが嫌なんです」
「何が」
「裏切ってないって言われるのが」
言ってから、ようやく鷹野を見上げた。
鷹野は目を逸らさなかった。怒っているようにも、困っているようにも見えない顔をしている。
部活の時と同じだ。でも、さっき背中越しに止まった呼吸を、湊は知っている。
「先生は」
喉が狭くなった。
今からバカなことを聞く。
バカだという自覚があって、それでも聞く。
「俺が誰とキスしても、平気ですか」
「俺がどう思うかを、お前が誰を選ぶかの材料にするな」
「それはわかってます」
「わかってないから聞いたんだろ」
「平気かどうかだけ聞いてます」
体育館のどこかで、点けたままの照明が低く唸っている。
「先生」
「俺に」
鷹野が一度言葉を切った。右手に持った鍵が、僅かに鳴った。
「答えさせるな」
回答を拒まれた。
湊は、平気だとは言われなかったことだけを拾った。
それだけで、さっきより少し息がしやすくなった自分に気づいた。
その安堵が、自分にだけ都合のいいものであったとしても。
柏木を傷つけたことは消えない。最初のキスの相手も変わらない。鷹野との間に、約束ができたわけでもない。
鷹野は湊の横を通り、用具庫の照明を消した。
暗くなる直前に見たジャージの背中には、もう皺は残っていなかった。
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