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怪しいメールに誘われて
始まりは、知らないメールアドレスから送られてきた、一通のメールだった。
「……『橘 真斗様への特別なご案内』……?」
どこから知ったのか俺の名前が書かれた本文には、胡散臭い言葉がつらつらと連ねられていた。いつも周りに馬鹿にされていませんか、見返してやりたいと思いませんか。このアプリを使えば、誰もが貴方の思い通りに動きます。
まじまじとスマホの画面を見る。
「表には出せない、貴方の欲望を思いのままに」
決まり文句のようなその一文の下には、URL。どうやらアプリのダウンロードページに進むらしい。
……ウイルスかもしれない。詐欺かもしれない。それでも。それでも、もしかしたら──本物かもしれないと、馬鹿げたことを信じ込む自分の声が頭の中で響いた。
だって、こんなの。まさにそういう──催眠アプリモノの、導入みたいで。現実にも有り得るかもしれないと、そう思ってしまったのだ。
インストールしてアプリを開いてみると、簡単なタイトルが表示され──「催眠をかける」「解除する」というボタンがふたつだけ。試しに「催眠をかける」方をタップしてみると、いかにもな紫色の毒々しい渦が画面に表示され、慌てて左上にあった、前画面に戻るらしい矢印を押した。
これならば。今までの人生、ろくなものではなかったが。これがあれば。全てを、変えられる気がした。
いつも自分を馬鹿にする弟にも、一矢報いることができるかもしれないと。醜い欲が、どろりと産まれるのがわかった。「誰もが従順になります。貴方に反抗的な弟さえも──」という文が、それを煽った。どこから家族構成や俺の名前、メールアドレスを知ったのかはわからない。けれど。神様がくれたチャンスだと、馬鹿馬鹿しくもそう思えてしまったのだ。
ひとつ下の弟──真尋は。自分とは何もかもが違った。顔立ちも整っていて、背が高くて。いわゆる陽キャというやつだった。思春期に入ってからは、自分のような兄がいることが酷く気に障ったらしく、顔を合わせる度に眉をひそめ、あからさまに嫌な顔をして避けられた。今では優秀なプログラマーとして大企業に就職して、実家から通勤している。
……28歳にもなって、実家の自室に引きこもっている俺とは、なにもかもが違う。数年働いた分の貯金を家に入れているとはいえ──今は無職で、親から疎ましい目で見られている俺とは、何もかも。
平日の昼。弟は、今日──仕事が休みらしい。階下へ降りてきた俺を見ると、リビングのソファでスマホをいじっていた彼は顔をしかめた。そんなに嫌なら、一人暮らしでもすればよかっただろうに。……いや、今はそんなことはいい。
……この。このアプリさえあれば、変わるかもしれない。決定的に、何かが。
いつもは、鉢合わせしないように避けてばかりだった。視界にも入らないように、すぐに自室へ引っ込んでいた。けれど。けれど、今日は違う。
弟の座るソファへと向かう。足が竦んだけれど、必死に自分を奮い立たせた。
前に立って、真尋、と震える声で名前を呼ぶ。怪訝そうな顔が、向けられた。スマホを持つ手が汗で滑りそうになった。アプリは、起動した。「催眠をかける」というボタンも押した。後は。後は──この渦を、見せるだけ。
父も母も、仕事に出かけていて夜まで帰ってこない。やるなら、今しかない。
「さ……さ、」
「……は? なに、キモイんだけど……」
言葉がすんなり出てこなくて、何度もつっかえてしまう。嫌悪をあらわにした声が、胸に刺さる。けれど。意を決して──スマホの画面を、向けた。向けて、しまった。
「……さ、催眠、くらゃえ……!」
「……は──」
最悪だ。めちゃくちゃ噛んだ。けれど、弟の視線が、スマホの画面に吸い込まれて。そうしてしばらく見つめていたかと思うと──かくん、と。生意気な弟の頭が、まるで糸の切れた操り人形のように落ちた。
「……は、うそ、……え? ……ほんとに……?」
困惑の声をあげても、弟はうんともすんとも言わない。ただ、下を向いているだけ。段々と、不安になってきた。
「……おい、真尋……?」
肩を軽く揺さぶって、ソファに座ったままの弟に呼びかけてみる。すると、緩慢に顔が上がった。いつも強気な、俺を睨んでいた目が──どこか、夢でも見ているようにこちらを見つめている。……いや、見つめている、のだろうか。焦点が合っていない、ような気がする。けれど──その双眸には、いつも浮かんでいる嫌悪の色はない。どこまでも、空っぽな。まるで、人形のようで。ごくり、と唾を飲んだ。
これは。このアプリは──本物だと。そう、確信を抱いた。
そう、そうか。ならばこの生意気な弟は、俺の思い通りになる。「誰もが従順になります」というメールの文面が、思い起こされた。なら。
命令。命令……えーっと。ええと……。……ええと……!
……俺はアホだ。意気揚々と催眠をかけたものの──命令の内容をなにも考えてなかった。ぼんやりとした弟の視線が、何故か急かしているように思える。そんなはずないのに、被害妄想もいいところだ。焦りを覚えながら、長い間を置いて、ようやくひとつ絞り出した。
「……ええと、ええと……お手……」
手のひらを上に向けて差し出せば──ぽん、と犬の前足に見立てたように、拳が置かれた。
……本当に、効いている。あの弟が絶対にするわけないことをした。妙な高揚感を覚える。
──それじゃあ、と。欲が、溢れてきた。もっと。更に踏み込んだ内容でも、例えどんなものでも弟は従うのだから。
すう、と息を吸ってから。真尋の目を見て、口を開いた。
「……昔みたいに、頭、撫でさせて」
数秒の間。そうして、弟は従順に頭を差し出してきた。休日だからセットもされていない、明るい茶の柔らかな髪に指を通す。
「……懐かしいな……」
ぽつり、呟く。あの頃は。昔は。よくこうして、頭を撫でた。毛の流れに沿って撫でてやると、まるで猫みたいに目を細めて、きゃらきゃらと笑って。その反応が可愛くて、何度も何度も撫でた。向こうがねだってきたこともある。
いくつ歳を重ねても、嫌悪を向けられても変わらない。いつまでも、俺の可愛い、大好きで大切な弟。
……ああ。酷く、懐かしくて。あの日々が、愛おしくなって。そして。
──酷く、虚しくなった。戻れないあの頃に、今更思いを馳せても。もう、どうしようもないのに。
「……ごめん、ごめんな。こんな、無理やり。頭撫でて……」
……解除、しないと。こんな酷いこと。相手の意思を無視するようなことを、してはいけない。……俺は、最低な人間だ。毎晩苛む自己嫌悪が、急速に膨れ上がっていくのがわかった。吐き気がする。撫でていた手を離した。自分が汚らわしい存在に思えて。俺は、何を。愛おしい弟に、何をしようとした?
優秀で、努力を怠らずに立派に働いている、しっかりとした弟に、何を。こんな、催眠なんかで無理やり頭を撫でて。……兄でいる資格も、最早無い気がした。
もう一度ごめんなと掠れた声で謝ると──弟の目から、突然大粒の涙がぼたぼたと溢れた。
「えっ」
声が裏返る。どうして。なんで、なんで泣いている? 命令はしていない。動悸が速くなって、焦燥を覚えた。
「う、うそ、なんで? え? 催眠の副作用……!?」
どうしよう、どうしようと狼狽えていると──ゆらり、と弟が立ち上がる。自分よりも大きな体格の彼が、俺を見下ろして。流れる涙をそのままに、数秒経った。なに、なんだ、これ。催眠が変な風にかかってしまったのか? すぐに解除しないといけない。いや、もしかして勝手に解除された? 怒ってる、のか?
そうして呆然と見上げる俺を──がばり、と力強く包むように抱きしめた。
「…………へ?」
アプリの解除ボタンを押すことも叶わない姿勢のまま──呆けた声を漏らした。
***
自分よりも小さな兄を強く強く抱きしめながら、真尋は、ああ、と息をついた。
……ああ。そうか。そうだったわ。コイツは、そんな度胸もないヘタレで。人の嫌がることはしたくない奴で。
だから。だから、高校のクラスの中で爪弾きになっていた奴を、一緒になっていじめるよう強要されたときも、断って。結局──次のいじめの標的になって。そんな兄がいることが、思春期の自分には酷く恥ずかしいことに思えて。だから、突き放すようになって。嫌悪を向けて。それでも。……それでも、この家から──兄がいるこの家から、出られなかった。
兄は大学を出て、社会に出て。そこでブラック企業に入り、心を病んでしまって。仕事を辞めて、引きこもり始めた。
骨が軋むほど、強く抱き締める。ぐえ、と兄から漏れた間抜けな声に、また涙が零れた。
ただの思いつきだった。この兄を、馬鹿にしてやろうと思って。どんなみっともない姿を見せてくれるだろうかと、そう思って。
──催眠アプリなんていう、嘘のアプリを作り上げた。この陰キャの兄ならば、そういうものがどうせ好きだろうと思ったから。プログラミングは簡単だった。まさか本当に洗脳や催眠をできるものを作るわけでもない。簡易的なUIに、ただのそれらしい渦を表示させればいいだけ。まずは弟である自分に対して使ってくるだろうという確信があった。生意気な自分を屈服させたいだろうから。
溺れる者が藁に掴まるように、ありもしない非現実的なものに手を出して。浅ましい欲望を口にしたら、そこでネタバラシをして散々馬鹿にしてやるつもりだった。録音もしていると。そうして絶望する、愚かな兄を弄んでやるのだと。弱みを手にして、遊んでやるのだと。
それで、さてどんな醜い欲をぶつけてくるのかと期待をしてみれば。蓋を開けてみれば──「頭を撫でさせて」だと。数秒、固まった。慌てて催眠にかかったフリを続けたけれど。昔と変わらない、優しい手つきと声で、頭を撫でて。そんな些細な願いをした後さえも自己嫌悪に苛まれて。コイツは。この人は、本当に。
録音アプリが虚しく起動し続けている。記録していた。とうとう漏れた、俺のみっともない嗚咽を。この人の、優しい願いを。
俺は。俺、は。こんな人を、更に傷つけようとしてた、のか。軽い気持ちで。反吐が出そうだった。真に醜いのは、俺の方だった。この兄の優しさすらも、忘れていたのか。
けれど。それ以上に──抑えきれない庇護欲が、湧き上がってくるのがわかった。
……ああ、わかった。この兄は。どこまでも優しいこの人は──俺が守ってやらないとダメだ。今までの償いにも、こんな狂言に陥れようとした償いにもならないけれど。馬鹿げたアプリにもころっと騙されてしまうのだから。もう二度と、この人を他人の悪意で壊させない。絶対に。
泣いて、泣いて、ひとしきり泣いて。腕の中で狼狽する兄が恐る恐る背を撫でる、その温かさに、また込み上げてきた目の奥の熱を堪えて。強く抱きすくめたまま、口を開いた。
「バカ兄貴」
「へ、」
「家から出るぞ」
「えっ……え?」
「父さんたちからも邪魔者扱いされてんだろ。俺が養う。会社から近い賃貸に住むから、アンタは家で俺の帰りだけ待ってろ」
「え、まひろ、え? あれ? 催眠……?」
「んなもんあるわけねーだろ馬鹿が。拒否権あると思うなよ」
「……え……?」
「それしか言えねーのか」
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