1 / 1

第1話 羊と蜂蜜の丘

丘を越えたところで、オルヴァンが馬を止めた。 なだらかな緑の斜面が幾重にも重なり、遠くまで続いている。 石垣で区切られた牧草地には白い羊が散らばり、その向こうには赤茶色の屋根が二十軒ほど集まっていた。 風が吹くたび、草の波が丘を渡る。 「アデ。すごく綺麗です」 隣で馬を止めたアデマールは、景色より先に夫を見た。 白い襟付きシャツに旅用のズボン。 左腕には白い長手袋が伸び、指先だけが覗いている。 風に髪を揺らしながら丘を眺める横顔は、旅に出てから何度も見てきた。 それでも、こんなふうに嬉しそうに目を細められると、毎回見入ってしまう。 「気に入った?」 「はい。あっち、一面に花が咲いています」 「行ってみる?」 「行きたいです」 オルヴァンが笑った。 アデマールも笑い、黒い革手袋をつけた手で手綱を引いた。 村へ下りる道から少し外れると、黄色や薄紫の小さな花が斜面いっぱいに咲いていた。二人は馬を降り、手綱を引きながらゆっくり歩く。 足元では蜂が忙しそうに花から花へ移り、遠くでは羊飼いの笛が鳴っている。 「蜂が多いですね」 「蜂蜜が名物かもな」 「食べたいです」 「即答」 「アデも食べるでしょう?」 「食べる」 「ほら」 「何が、ほら、なんだよ」 オルヴァンが楽しそうに肩を寄せてきた。 アデマールはその肩を抱き、頬へ口づける。 「ん」 「何?」 「もう一回」 「村に着く前から甘えん坊だな」 「夫に甘えて何が悪いんですか」 「何も悪くない」 今度は唇へキスした。 短く触れて離れるつもりだったのに、オルヴァンの指が黒いシャツの袖を掴む。 アデマールはもう一度唇を重ねた。 さっきより少し長い。 離れると、オルヴァンが満足そうに笑った。 「蜂蜜、楽しみですね」 「結局そっちか」 「アデも楽しみでしょう?」 「オルがそんな顔するなら楽しみ」 「またそういうことを言う」 「本当だし」 歩き出す。 今度はアデマールから手を差し出した。 オルヴァンは当たり前のように握る。 花の中を抜け、二人は手をつないだまま村へ下りていった。 **** 村へ入って最初に見つけた食堂では、本当に蜂蜜が出た。 焼きたての丸パンを半分に割り、濃い羊乳のチーズを挟み、その上から黄金色の蜂蜜を垂らす。 オルヴァンは一口食べた瞬間、目を丸くした。 「アデ」 「うん」 「これ、すごくおいしいです」 「顔見れば分かる」 アデマールもかじる。 焼けたパンの香ばしさ。塩気のあるチーズ。そこへ蜂蜜の甘さが重なる。 「うまいな」 「でしょう?」 なぜかオルヴァンが得意そうだった。 「お前が作ったみたいな顔するなよ」 「僕が先に蜂へ気づきました」 「蜂を見ただけだろ」 「蜂蜜につながりました」 「すごいすごい」 「雑です」 オルヴァンが少しむっとしたので、アデマールは自分の皿から蜂蜜の多いところを切り分けた。 「ほら」 「いいんですか?」 「好きだろ」 「好きです」 オルヴァンが嬉しそうに食べる。 アデマールはその顔を見て笑った。 「もう一つ頼む?」 「お願いします」 「俺の分は?」 「半分あげます」 「優しい」 「夫ですから」 そこで食堂の外から、激しい鈴の音がした。 一頭の羊が広場へ飛び込んでくる。 「柵を閉めろ!」 男の怒鳴り声が響いた。 羊は広場の端で別の男に捕まり、ようやく止まった。腹の大きな母羊だった。 店の主人が窓の外を見て眉をひそめる。 「またかい」 オルヴァンがパンを置いた。 「また?」 「三日前から羊が消えてるんだよ。今朝ので八頭目さ」 すぐに、日に焼けた五十前後の男が食堂へ入ってきた。 「マルテ、水」 厨房から別の男が水差しを持って出てくる。 「オドン、先に座れ。朝から何も食ってないだろ」 「羊が戻った。東の柵も外れてる」 「俺が見る。お前は飲め」 「今は――」 「朝もそう言った」 「……半分だけだぞ」 パンまで押しつけられ、オドンは渋々椅子へ座った。 そのやり取りを見て、オルヴァンが笑う。 アデマールが小声で言った。 「似たようなこと言われてるな」 「僕はちゃんと食べています」 「忙しいと忘れる」 「アデは怪我すると隠します」 「今それ言う?」 「言いました」 アデマールはパンを食べた。 負けた。 オドンは水を飲み、ようやく二人へ気づいた。 「騒がせたな」 「羊がいなくなっているんですね」 「ああ。狼ならまだ分かるんだが、妙なんだ」 オドンは窓の外を見る。 「森に近い牧草地から消える。なのに最近は、その狼まで森から逃げてきてる」 オルヴァンの表情が少し変わった。 「狼が?」 「ああ。猟師が言ってた。昨日なんか群れごと西の丘まで出てきたそうだ」 アデマールとオルヴァンが目を合わせる。 オドンは続けた。 「森の近くに何かいるのかもしれん。だが、羊を放ってもおけない」 マルテが低い声で言う。 「だからって一人で森へ入るな。昨日も止めただろ」 「俺たちの羊だぞ」 「分かってる。お前まで帰ってこなくなったらどうする」 オドンの口が閉じた。 窓の外では、戻った母羊が牧草地へ連れていかれている。 オルヴァンはその姿をしばらく見てから立ち上がった。 「森の入口だけ、見てきてもいいですか?」 「旅人が?」 「少し気になるので」 アデマールも最後のパンを口へ入れる。 「俺も行く」 オドンが眉を寄せた。 「危なかったら戻ってこいよ」 「うん」 「本当にだぞ」 「大丈夫」 マルテがオドンの肩を叩く。 「その間に俺たちは柵を直すぞ」 「……ああ」 二人は食堂を出た。 歩きながら、アデマールがオルヴァンを見る。 「気になる?」 「狼が群れごと逃げるなら、普通の獣ではなさそうです」 「じゃあ見るだけ見よう」 「はい」 アデマールが手を差し出す。 オルヴァンが握った。 「森まで?」 「森まで」 「その先は?」 「危なかったら手放す」 「嫌です」 「戦う時は離れて」 「それなら仕方ありません」 アデマールは笑った。 **** 森の入口には、猟師が二人いた。 地面には狼の足跡が残っている。 だが、森の奥へ向かってはいない。 外へ向かっている。 オルヴァンは少し先まで歩き、黒ずんだ草の前でしゃがんだ。 白い手袋から出た指先を近づける。 「アデ」 「うん?」 「悪魔のマナです」 アデマールの顔から笑みが消えた。 「濃い?」 「ここでは薄いです。でも、森の奥から流れてきています」 年長の猟師が息を呑む。 「魔獣か?」 「たぶん」 オルヴァンが立ち上がる。 「狼も、これから逃げているんでしょう」 説明はそれで十分だった。 森の奥から、低い鳴き声が響いた。 猟師二人が武器へ手を伸ばす。 アデマールは黒い革手袋をつけたまま、魔法収納から大太刀を取り出した。 オルヴァンの手にも細身のレイピアが現れる。 「俺たちが見てくる」 「二人で?」 「二人の方が早い」 オルヴァンも頷く。 「村では羊を森から離してください。狼は西へ逃げていますから、そちら側へ寄せるのがいいと思います」 猟師は二人の武器を見て、少し迷ってから頷いた。 「分かった。気をつけろ」 「はい」 二人は森へ入った。 **** それほど奥まで行く必要はなかった。 太い木の幹が大きく抉られている。 踏み潰された低木。 黒ずんだ草。 そして、巨体が枝を押し分けて姿を現した。 牛より一回り大きい四足の魔獣だった。 黒褐色の体毛の間から硬い鱗が覗き、額から捩れた二本の角が伸びている。 口元から落ちた黒い涎が草を萎らせた。 「これですね」 「分かりやすいな」 魔獣が吠える。 空気が震えた。 アデマールが大太刀を肩へ担ぐ。 「オル」 「はい」 それだけだった。 魔獣が突進する。 アデマールは真正面から受けた。 二本の角が大太刀の腹へぶつかり、轟音が森へ響く。 足元の土が抉れた。 それでもアデマールはほとんど下がらない。 「重っ」 口元だけ笑う。 魔獣がさらに押し込もうとする。 その横を白い影が抜けた。 オルヴァンのレイピアが魔獣の後脚を浅く裂く。 魔獣が振り向いた。 オルヴァンはすでに離れている。 怒った魔獣がそのまま追う。 数歩。 オルヴァンが横へ跳んだ。 同時に足元から蔓が伸び、魔獣の前脚へ絡みつく。 ほんの一瞬、巨体が傾いた。 その進路上には、もうアデマールがいた。 「そこ」 大太刀が振り下ろされる。 一撃だった。 魔獣の巨体が地面へ叩きつけられ、折れた角が土へ突き刺さる。 森が静かになった。 アデマールは魔獣の様子を確かめ、大太刀を下ろす。 「終わり」 「はい」 オルヴァンがレイピアを収める。 アデマールがすぐ近づいた。 「怪我は?」 「ありません」 「ほんと?」 「本当です。アデは?」 「俺も平気」 二人とも無事だと分かると、張り詰めていた空気があっさりほどけた。 オルヴァンが笑う。 「格好よかったです」 「また惚れた?」 「はい。何度でも」 アデマールの顔が一気に緩む。 「俺も。オル、すごかった」 「いつもの補助です」 「俺が欲しいところに、ちゃんといてくれる」 「夫ですから」 アデマールが何か言おうとした時だった。 森の奥から、弱い鳴き声が聞こえた。 二人とも振り向く。 「羊?」 「行きましょう」 **** 魔獣が潜んでいた岩場の裏に、浅い窪地があった。 その奥で四頭の羊が身を寄せ合っている。 一頭は後脚を痛め、もう一頭は脇腹に傷があった。残る二頭も怯えている。 「生きています」 オルヴァンが急いで近づく。 アデマールは暴れそうになった一頭の首へ腕を回し、ゆっくり押さえた。 「大丈夫。もう終わったからな」 オルヴァンが傷を確かめる。 「少し治します」 淡い光が羊の身体を包む。 痛めていた脚へも魔法を重ねると、荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていった。 「歩けそう?」 「少し休めば。ただ、この子は無理をさせたくありません」 アデマールが周囲を見る。 木々の切れ間に小さな草地がある。 「じゃあ、あそこで休ませよう」 四頭を草地へ移す。 しばらくすると、一頭が草を食み始めた。 もう一頭も続く。 オルヴァンがようやく肩の力を抜いた。 「よかった」 その横顔を見た瞬間、アデマールの胸の奥が熱くなった。 魔獣を前にしていた時より、羊が草を食べただけでこんなに嬉しそうな顔をする。 昔からそうだった。 強くて、賢くて、それなのに目の前の小さな命まで放っておけない。 「オル」 「はい?」 オルヴァンが振り返る。 「好き」 「急ですね」 「今また惚れた」 「僕が先に言ったのに」 「じゃあ同じ」 アデマールは笑って、オルヴァンの腰を抱いた。 最初のキスは短かった。 けれど離れた時、オルヴァンが嬉しそうに目を細めた。 それを見たら、もう一度触れたくなった。 今度は言葉より先に身体が動いた。 アデマールが深く口づける。 オルヴァンは驚くどころか、すぐ首へ腕を回して応えた。 白いシャツ越しに身体が重なる。 唇が離れる。 「アデ」 声が少し甘い。 アデマールが頬へ触れる。 「ごめん。かわいすぎた」 「謝るくらいなら、もう一回してください」 また唇が重なる。 オルヴァンの指が黒いシャツを掴み、身体を引き寄せる。 アデマールの腕も腰を強く抱いた。 何度か口づけるうちに、ただ嬉しかっただけの熱が、もっと近くにいたい欲へ変わっていく。 オルヴァンが唇を離し、額を寄せた。 「アデ……もっと」 「うん」 今度はオルヴァンから口づけた。 アデマールがその身体を抱き上げる。 オルヴァンの脚が腰へ絡み、首へ回した腕が離れない。 「オル」 「離れたくないです」 「俺も」 アデマールは羊から少し離れた木陰へ歩いた。 オルヴァンは抱かれたまま、何度も頬や唇へ口づける。 木陰へ入ると、アデマールは夫を下ろした。 けれど、二人の距離は離れなかった。 オルヴァンの指が黒いシャツの留め具を緩める。 アデマールも白い襟元へ触れ、そこから覗く肌へ唇を寄せた。 「アデ」 「ん?」 「好きです」 「俺も」 肩から背中へ掌が滑り、互いの身体をもっと近くへ引き寄せる。 オルヴァンがもう一度脚を絡める。 アデマールの名前を呼ぶ。 何度触れても足りなかった。 森を渡る風と、少し離れた場所で草を食む羊の鈴だけが聞こえていた。 二人はそのまま、しばらく身体を重ねた。 **** 太陽が西へ傾いていた。 オルヴァンは白いシャツの留め具を一つずつ直し、髪を手櫛で整えていた。 アデマールも黒いシャツを着直し、草のついたズボンを払う。 オルヴァンが胸元を見る。 「……これで大丈夫ですか?」 アデマールが眺める。 「一個ずれてる」 「どこです?」 「ここ」 留め具を直してやる。 オルヴァンが少し頬を赤くした。 「アデのせいです」 「俺だけ?」 「僕もです」 素直だった。 アデマールが笑う。 「かわいい」 「今はいいですから」 「何が?」 「顔を見ないでください」 「無理」 オルヴァンは諦めて白い長手袋を整えた。 その横で一頭の羊がじっと二人を見ている。 オルヴァンも気づいた。 「……見てました?」 「たぶん」 「ずっと?」 「さあ」 オルヴァンが両手で顔を覆った。 アデマールは笑いを堪えきれなかった。 「羊だぞ」 「分かっています!」 「誰にも言わないって」 「当たり前です!」 羊が小さく鳴いた。 オルヴァンはさらに赤くなった。 それでも少しすると、二人とも笑った。 帰る支度を始める。 二頭は自力で歩けた。 脚を痛めていた一頭をアデマールが抱え、もう一頭を即席の担架へ乗せる。 「持てます?」 「羊一頭くらい余裕」 「担架もありますよ」 「じゃあそっちは一緒に持とう」 「はい」 四頭を連れ、二人は村へ戻った。 **** 村へ着いた頃には日が沈みかけていた。 牧草地には羊が集められ、森側の柵は二重に補強されている。村人たちは松明と道具まで用意していた。 オドンが二人を見つけて走ってくる。 「帰ったか!」 その声が途中で変わった。 「……羊!」 四頭を見つけ、さらに速度を上げる。 アデマールが抱いている羊を見た瞬間、オドンの顔が崩れた。 「ミナ!」 アデマールが慎重に地面へ下ろす。 「脚を痛めてた。オルが治したけど、今日は休ませてやって」 「分かった。分かった……」 オドンが膝をつき、羊の額へ手を置く。 「この子、腹に子がいるんだ」 手が少し震えていた。 「帰ってきたか。よかったなあ」 ミナが小さく鳴く。 遅れて来たマルテが、オドンの肩へ手を置いた。 それから二人へ向き直る。 「魔獣は?」 「倒したよ」 「二人で?」 アデマールが頷く。 「うん」 オルヴァンが森を見る。 「原因はそれだと思います。狼も魔獣から逃げていました。明るくなってから、猟師の方と森を確認してください」 「ああ。そうする」 オドンは二人を見た。 そこで眉を寄せる。 「お前ら……」 アデマールの黒いシャツには草が残り、髪も少し乱れている。 オルヴァンも整えたつもりらしいが、白い襟元はわずかに曲がり、長手袋の片方が少し下がっていた。 オドンの表情が痛ましげになる。 「相当、大変だったんだな」 アデマールが黙った。 オルヴァンも黙った。 二人で目を合わせる。 オルヴァンの耳が一気に赤くなった。 「……まあ、いろいろ」 アデマールが答える。 オドンは深く頷いた。 「本当にありがとう」 マルテも頭を下げる。 オルヴァンは視線を逸らした。 アデマールは笑いそうになるのを我慢した。 **** その夜、村ではささやかな宴になった。 焼きたてのパン。 羊乳のチーズ。 香草を詰めた肉料理。 根菜の煮込み。 そして蜂蜜酒。 オルヴァンが一口飲む。 「アデ、これおいしいです」 「甘いな」 「好きです」 「知ってる」 オルヴァンが自分の杯を差し出した。 「もう一口飲みます?」 「もらう」 アデマールが同じ杯から飲む。 向かいでは、オドンとマルテが笑っていた。 昼の張り詰めた様子はもうない。 食事が終わる頃、オドンが革袋を持ってきた。 「礼だ。受け取ってくれ」 硬貨の音がする。 アデマールは袋より、後ろの棚を見た。 蜂蜜の瓶が並んでいる。 「あれ一瓶くれない?」 「こんなもんでいいのか?」 「あとチーズ」 オルヴァンがすぐ言う。 「蜂蜜は二瓶がいいです」 「増えたな」 「旅の途中で食べられます」 「絶対すぐなくなるだろ」 「大事に食べます」 オドンが笑った。 「なら蜂蜜二瓶とチーズ二つだ。持ってけ!」 マルテが棚から包みを出す。 「次の町まで残ってるといいけどな」 オルヴァンは嬉しそうに受け取った。 その顔を見て、アデマールは自然に頬へ口づけた。 「よかったな」 「はい。アデも一緒に食べましょう」 「もちろん」 オドンが二人を見る。 「仲のいい夫夫だな」 アデマールはすぐオルヴァンの肩を抱いた。 「俺の自慢の夫だから」 オルヴァンの口元が緩む。 「アデも僕の自慢です」 顔を見合わせる。 一度、軽くキスした。 それだけで済むはずだった。 オルヴァンが少し名残惜しそうに見上げる。 アデマールがもう一度近づく。 二度目は少し長くなった。 マルテが呆れたように笑う。 「続きは宿でやんな」 二人が離れる。 オルヴァンがアデマールを見る。 「宿へ帰ります?」 「帰る?」 「はい」 返事が速い。 マルテが卓を叩いた。 「そういう意味で言ったんじゃない!」 食堂中に笑い声が広がった。 アデマールもオルヴァンも笑った。 **** 翌朝。 二人は蜂蜜とチーズを肩掛けバッグへ入れ、村を出た。 丘の上まで来ると、昨日と同じ風が花畑を揺らしている。 遠くでは羊の群れが動き、小さな鈴の音が風に乗って届いた。 オルヴァンが馬上から振り返る。 「いい村でしたね」 「うん」 「蜂蜜もおいしかったです」 「一番最初にそれ?」 「景色も綺麗でした」 「二番目?」 「アデと一緒だったのが一番です」 アデマールが止まった。 オルヴァンは何でもない顔をしている。 「オル」 「何です?」 「今すぐキスしたい」 「してください」 馬を寄せる。 ほんの短いキスを交わした。 離れると、オルヴァンが笑う。 「次はどちらへ行きます?」 「まだ決めてない」 「では、あっちにしませんか」 オルヴァンが丘の先を指す。 街道が二つに分かれ、その片方には花の咲く草原が続いていた。 アデマールも見る。 「いいな」 「行きましょう」 「うん」 二頭の馬が並んで歩き出す。 花の続く方へ。 急ぐ理由は、どこにもなかった。

ともだちにシェアしよう!