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番外編3 英雄夫夫、今日は何もしない

朝一番にアデマールを捕まえたのは、屋根職人のグレゴールだった。 正確には、屋敷から工具箱を抱えて出てきたところを捕まえた。 「何する気だ」 グレゴールが門の前で腕を組むと、アデマールは黒いシャツの袖を捲りながら答えた。 「倉の扉。ちょっと引っかかるから」 「昨日、北の橋を見てただろ」 「午前だけ」 「その前の日は水路」 「少しだけ」 「その前は?」 アデマールは答えなかった。 「今日は休め」 「いや、扉だけ」 「休め」 「すぐ終わるって」 「お前がやると、ついでについでが増える」 背後からオルヴァンが出てきた。 白いシャツ姿で、まだ少し眠そうな顔をしている。 「何の話です?」 「こいつを休ませろ」 「なるほど」 オルヴァンはアデマールを見る。 「今日は何もしない日にしましょう」 「オルまで?」 「いいですね、それ」 「よくない」 「いいです」 オルヴァンは工具箱を取り上げた。 アデマールは抵抗しない。 それを見て、グレゴールは少しだけ笑った。 魔獣王を倒した男の手から工具箱を取り上げられる人間はそう多くないだろうが、この村には案外いる。 「じゃあ、今日は働くなよ」 「分かった」 「絶対だぞ」 「分かったって」 グレゴールは満足して村道へ戻った。 屋敷の中からオルヴァンの声がする。 「アデ、朝ごはんにしましょう」 「卵ある?」 「ありますよ」 「やった」 少し前なら、領主が救国の英雄だというだけで背筋が伸びた。 今でも尊敬しているし、この辺境領を治めているのがあの二人だということを、グレゴールは誇らしく思っている。 けれど、朝飯の卵で喜ぶ領主を知ってしまうと、怖がるのは難しかった。 **** パン屋の息子ユアンが屋敷へ行ったのは、その一時間ほど後だった。 焼きたての丸パンを二つ抱えている。 母親から、 「今日は領主様たち休むらしいから、持ってってやりな」 と言われたのだ。 休むなら自分たちで飯くらい作るだろうと思ったが、言っても無駄なので来た。 門は開いていた。 庭を覗くと、長椅子にアデマールが横になっている。 頭はオルヴァンの腿の上。 オルヴァンは本を読みながら、空いた手で黒い髪をゆっくり撫でていた。 「あ。何してるの?」 アデマールが目だけ開ける。 「何もしてない」 「ほんとに?」 「頑張って何もしてない」 意味が分からない。 ユアンがパンを見せる。 「母ちゃんから」 「やった」 アデマールが起きようとすると、オルヴァンの手が額へ乗った。 「起きなくていいですよ。僕が受け取ります」 「でもパン」 「逃げません」 オルヴァンが立とうとした途端、アデマールが腰へ腕を回した。 「どこ行くの」 「パンを受け取るだけです」 「すぐ戻る?」 「戻りますよ」 「絶対?」 「三歩先です」 ユアンはパンを持ったまま二人を見る。 オルヴァンが困ったように笑った。 「すみません、ここまで持ってきていただけますか?」 「いいよ」 パンを渡すと、オルヴァンは籠へ入れた。 アデマールはまだ腰に抱きついたままだ。 「アデさん、甘えん坊なの?」 「今日はそうみたいですね」 「今日は?」 「普段も」 アデマールが起き上がる。 「オルまで言う?」 「本当でしょう」 「じゃあオルも甘えて」 「今ですか?」 「うん」 オルヴァンは少し考えてから本を脇へ置き、アデマールの肩へ身体を寄せた。 「これでいいですか?」 「もっと」 「欲張りですね」 そう言いながら腕を回す。 アデマールが満足そうに抱き返した。 ユアンはもう驚かなかった。 「じゃあ僕、帰る」 「ありがとな」 「お母さんにもお礼を言ってください」 「うん」 門へ戻る途中で一度だけ振り返る。 二人はまだくっついていた。 アデマールが何か囁き、オルヴァンが笑って、その頬へ軽く口づける。 ユアンは前を向いた。 いつものやつだ。 **** 昼の食堂は混んでいた。 畑仕事の者、職人、買い物帰りの者。 その中に、アデマールとオルヴァンも普通に座っている。 今日は休みだから、昼も作らないことにしたらしい。 年配の女たちは、少し離れた卓から二人を眺めていた。 「今日は休みなんだって?」 「朝から追い返されたらしいよ」 「誰に?」 「グレゴール」 「よくやるねえ」 アデマールは大皿の肉を食べ、オルヴァンはスープを飲んでいる。しばらくは静かな昼食だった。 「あのさ」 アデマールが急に口を開いた。 「はい?」 「俺の方がオルのこと好きだと思う」 年配の女たちの手が止まった。 一人が小さく言う。 「始まった」 オルヴァンが目を瞬く。 「急に何です?」 「さっき思った」 「何を見て?」 「オル」 「僕もアデを見ていますけど」 「でも俺の方が好き」 オルヴァンの眉が少し上がった。 「それは聞き捨てなりませんね」 「だろ?」 「僕の方が好きですよ」 「いや、俺」 「僕です」 「絶対俺」 「根拠は?」 アデマールは真剣に考えた。 「毎朝起きた瞬間、最初にオル見る」 「僕は寝る直前までアデを見ています」 「俺も見る」 「なら同じでしょう」 「俺、オルが寝た後も見る」 「僕だってアデが先に寝たら見ます」 「どのくらい?」 「知りません」 「じゃあ俺の勝ち」 「どうしてです!」 食堂のあちこちから笑いを堪える音がした。 若い男が隣の卓へ囁く。 「どっち応援する?」 「知らん。どっちも同じだろ」 老婆がパンをちぎりながら言った。 「今日は引き分けに銀貨一枚」 「賭けるなよ」 店主が厨房から止める。 二人は構わず続けている。 「僕はアデの好きな食べ物も全部知っています」 「俺もオルの好きなもの知ってる」 「昨日、僕が何を食べたかったか分かります?」 「焼いた魚」 「……正解です」 「ほら」 「では一昨日は?」 「甘いパン」 「正解です」 「俺の勝ち」 「僕だってアデの全部分かります!」 「じゃあ俺が今何したい?」 「僕にキスしたい」 アデマールが止まった。 「正解」 すぐやった。 卓越しに身を乗り出し、オルヴァンの頬へ軽く口づける。 食堂の誰も騒がない。 老婆が茶を飲む。 「はいはい」 オルヴァンも負けじとアデマールの頬へ返した。 「僕もしました」 「じゃあ同じくらい?」 「……それなら、まあ」 「引き分け?」 「今日はそれでいいです」 「今日は?」 「次は勝ちます」 「俺も」 二人は何事もなかったように食事へ戻った。 老婆が隣へ言う。 「平和だねえ」 「魔獣王を倒した人らの喧嘩がこれだからね」 二人の領主がこんなことで張り合えるくらい、この土地は静かだ。 そう思うと、悪くなかった。 むしろ少し誇らしかった。 **** 午後。 若い農夫のマルセルは、荷車をぬかるみにはめていた。 昨夜の雨で道の端が柔らかくなっていたらしい。 積荷は麦袋で、馬だけでは引き切れない。 「せーの!」 三人で押したが動かない。 もう一度やっても駄目だった。 「村から板持ってくるか」 そう話している時、道の向こうからアデマールとオルヴァンが歩いてきた。 今日は何もしない日だと聞いている。 だからマルセルは頼むつもりはなかった。 「あれ、どうした?」 「ちょっと嵌まっただけ」 「押す?」 「今日は休みだろ」 「これくらい仕事じゃない」 「いやでも」 アデマールはもう荷車の後ろへ回っている。 マルセルたちは仕方なく横へどいた。 「じゃあ一回だけな」 「うん」 アデマールが荷台へ両手を掛けた。 「馬、ゆっくり前」 御者が手綱を引く。 アデマールが押した。 深い泥へ沈んでいた荷車が、一瞬浮いたように見えた。 車輪がぬかるみから抜け、そのまま固い道へ戻る。 マルセルは口を開けた。 何度見てもおかしい。 「……やっぱりすごいな」 「何が?」 本人は分かっていない。 オルヴァンが荷台へ近づき、雨で湿った麦袋へ触れた。 「外側だけですね」 柔らかな風が積荷を撫で、湿った布が少しずつ乾いていく。 やっぱり、とんでもない人たちなのだとマルセルは改めて思う。 国を救い、世界を救った。 その気になれば、自分たちには想像もつかないことができる。 その二人が自分たちと同じ村道を歩き、この土地の領主として暮らしている。 それはやはり誇らしかった。 「助かったよ、アデさん。オルさんも」 「うん」 アデマールはすぐオルヴァンを見る。 「オル、見てた?」 「見ていましたよ」 「格好よかった?」 「はい。とても」 「ほんと?」 「本当です」 「もう一回言って」 「格好よかったです」 「やった」 マルセルは笑った。 そして思う。 やっぱり、いつものアデさんでもある。 **** 夕方になると、畑や工房から戻る人々が村道を歩き始める。 老夫婦が手をつないでいた。 少し前まで、そんなことを人前でする二人ではなかった。 若い夫が妻の籠を持つ。 「重いだろ」 「昨日まで持ってくれなかったじゃない」 「まあ、今日から」 二人で笑っている。 別の道では、男同士の若い恋人が肩を寄せて歩く。以前ならもう少し人目を気にしたかもしれないが、今は普通だった。 子どもが母親へ抱きつく。 「母ちゃん大好き」 「はいはい。私もだよ」 父親が横から言う。 「俺は?」 「父ちゃんも」 「ついでか?」 三人で笑った。 井戸端では女たちが話している。 「最近この村、やたら仲いいよね」 「前から悪くはなかったけど」 「領主様たちのせいじゃない?」 「ああ」 誰かが妙に納得した。 毎朝、手をつなぐ。 嬉しければ抱き合う。 好きだと言い、相手を人前で褒め、夫だから好きだからと照れもせず口にする。 そんな二人を毎日見ているうちに、村人たちまで少しずつ遠慮しなくなった。 ありがとう。好きだよ。助かった。会えて嬉しい。帰ってきてよかった。 そういう言葉を、以前より自然に口へ出すようになった。 もちろん、喧嘩はする。 腹も立つし、忙しければ愛想が悪い日もある。 それでも最後には、大事にしていることを伝えればいい。 そんな空気が、この村には少しずつ根づいていた。 「毎日あれ見せられてりゃね」 「そうだねえ」 遠くをアデマールとオルヴァンが歩いている。 今度はオルヴァンの方からアデマールの腕へ抱きついていた。 二人とも楽しそうだった。 **** 夜。 今日は何もしない日だったはずなのに、結局、荷車を一台助けた。 それ以外は、本当にほとんど何もしなかった。 簡単な夕食を食べ、大きな風呂へ入り、二人で寝室へ戻る。 オルヴァンは濡れた髪を拭きながら寝台へ腰掛けた。 アデマールも隣へ座り、しばらく何も言わずに夫を見ていた。 「何です?」 「今日、楽しかった」 「僕もです」 「何もしないの、いいな」 「アデは途中で荷車を押しましたけどね」 「あれは仕事じゃない」 「そういうことにしておきます」 オルヴァンが笑う。 アデマールは少し考えてから両腕を広げた。 「オル」 「はい?」 「甘えたい」 オルヴァンの表情が柔らかくなる。 「どうぞ」 アデマールはすぐ身体を寄せ、オルヴァンの肩へ額をつけて腰へ腕を回した。 「今日ずっとくっついてたでしょう」 「まだ足りない」 「本当に甘えん坊ですね」 「オル、いっぱい触って」 「はい」 オルヴァンは頬から髪、首筋、背中へとゆっくり手を滑らせた。 アデマールは気持ちよさそうに息を吐く。 「好き」 「僕もです」 「俺の方が」 「昼の続きですか?」 「だって俺の方が好き」 「また言う」 「本当だもん」 「では僕も負けません」 アデマールが顔を上げた。 「オルも甘えてよ」 「いいんですか?」 「もちろん」 今度はオルヴァンが身体を寄せ、アデマールの胸へ頬をつける。腕がすぐ背中へ回った。 「アデ」 「ん?」 「もっと抱いてください」 「これくらい?」 「もっと」 「オルも欲張り」 「アデに言われたくありません」 笑いながら、アデマールは抱く腕を強めた。 オルヴァンが顔を上げる。 二人の距離は近い。 「僕の方が好きです」 「まだ言う?」 「アデが始めたんでしょう」 「じゃあ証明する」 「どうやって?」 アデマールはオルヴァンの頬へ一度、反対側へもう一度、額と鼻先へ順番に口づけ、最後に唇を重ねた。 「いっぱいキスする」 「それなら僕もできます」 今度はオルヴァンから口づける。 一度は短く、もう一度は少し長く。 アデマールが笑う。 「負けない」 「僕もです」 また唇が重なる。 最初は軽い競争の続きだった。 けれど唇が離れた時、目が合った。 アデマールの腕がオルヴァンの腰を強く抱き寄せ、オルヴァンの指も黒い部屋着を掴む。 もう一度重なった口づけは、それまでより深かった。 オルヴァンはすぐに応え、首へ腕を回して身体を寄せる。 唇が離れても、互いの息が触れる距離から動かなかった。 「オル」 「はい」 「やっぱり、俺の方が好き」 「……まだ言うんですか」 オルヴァンは笑っていた。 頬は赤く、目は潤んでいる。 「なら僕も、もっと証明します」 オルヴァンから勢いよく口づけ、アデマールの背中へ腕を回す。 続けて首筋へ唇を寄せると、アデマールの息が揺れた。 「オル」 「何です?」 「煽ってる?」 「負けたくないので」 「かわいい」 「今かわいいって言うのはずるいです」 「格好いい」 「それならいいです」 「好き」 「僕も」 笑い声は、次の口づけで途切れた。 もっと触れたい。もっと近くで相手を感じたい。 そんな欲が、二人とも隠せなくなっていた。 アデマールがオルヴァンを抱き上げる。 オルヴァンの脚がすぐ腰へ絡んだ。 「アデ」 「ん?」 「もっと欲しいです」 「俺も」 アデマールはそのまま寝台へ運んだ。 下ろそうとしても、オルヴァンは首へ回した腕をほどかず、身体を密着させたままだ。 「オル、離れないと」 「嫌です」 「俺も嫌だけど」 「ならこのまま」 「うん」 二人は抱き合ったまま寝台へ沈み、また唇を重ねた。 オルヴァンの指が黒い部屋着を緩め、アデマールも白い服へ手を掛ける。 互いの掌が肩から背中、腰へと肌を求めるように滑り、やがて手を重ねて指を絡めた。 オルヴァンが息を震わせながら笑う。 「僕の方が好きです」 「今それ言う?」 「言います」 「じゃあ俺も負けない」 「どうぞ」 オルヴァンは答えるだけでなく、自分からアデマールを強く引き寄せた。 言葉より身体の方が速かった。 何度触れても足りず、何度名前を呼んでもまだ欲しい。 「アデ」 「オル」 「好きです」 「俺も」 「もっと」 「うん」 オルヴァンがさらに脚を絡め、アデマールも離すまいと強く抱く。 そのまま二人は、互いを求める熱の中で身体を重ねた。 **** 夜はずいぶん深くなっていた。 オルヴァンは毛布に包まり、アデマールの胸へ収まっている。 白い髪は少し乱れ、額にはまだ薄く汗が残っていた。 アデマールが髪を払い、頬を撫でる。 オルヴァンが気持ちよさそうに目を細めた。 「アデ」 「ん?」 「僕の方が好きです」 「まだやる?」 「はい」 「じゃあ俺の方」 「僕です」 「俺」 「僕」 アデマールが笑った。 「……決着つかないな」 「つかなくていいでしょう」 オルヴァンが頬へ口づける。 アデマールも返した。 「じゃあ同じくらい?」 「たぶん」 「たぶん?」 「明日は僕の方が多いかもしれません」 「じゃあ俺、もっと頑張る」 「何をです?」 「好きになる」 「もう十分でしょう」 「まだいける」 「僕もです」 二人で笑う。 オルヴァンが胸へ頬を戻した。 「今日、何もしませんでしたね」 「荷車押した」 「やっぱり覚えているじゃないですか」 「でも楽しかった」 「はい」 「明日も休む?」 「それは村の皆さんに怒られそうですね」 「じゃあ明日は少し働く」 「少しですよ」 「うん」 アデマールが髪へ口づけた。 「おやすみ、オル」 「おやすみなさい、アデ」 オルヴァンはそのまま腕の中で眠った。 **** 翌朝。 ユアンはまたパン屋から屋敷へ来ていた。 今度の用事は、 「昨日のパンを入れた皿、返してもらってきな」 と母親に言われたからだ。 庭へ回る。 アデマールとオルヴァンは朝食中だった。 卓にはパン、卵、果物、チーズ。 いつもの朝。 アデマールが果物を一切れ持ち上げる。 「オル、あーん」 「自分で食べられます」 「知ってる」 「では何で?」 「食べさせたい」 オルヴァンは少し笑い、素直に口を開けた。 今度はオルヴァンがパンをちぎる。 「アデも」 「うん」 アデマールも嬉しそうに食べる。 ユアンは皿を抱えたまま二人を見た。 「またやってる」 「何が?」 「何ですか?」 「別に」 空いた皿を受け取る。 「母ちゃんが、今日は働いていいって」 「ほんと?」 「でも昼までだって」 「倉の扉直す」 「グレゴールさん呼べって」 「俺も手伝う」 「領主様なのに?」 「領主だから?」 「知らない」 オルヴァンが笑う。 「僕も薬草のところへ行きます」 「昼、一緒に食べよ」 「はい」 ユアンは皿を抱えて門を出た。 村道を歩く。 前から、昨日見かけた老夫婦が手をつないで歩いてくる。 向こうでは若い恋人同士が笑い、父親に肩車された子どもが母親へ大きく手を振っていた。 井戸のそばでは、昨日喧嘩したらしい男が相手へ言う。 「悪かったよ」 「俺もだ」 ユアンには、それがいつから増えたのかは分からない。 ただ、この村ではもう、世界を救った英雄夫夫が庭でいちゃいちゃしていることも、領主が村人に仕事の仕方を教えられることも、好きな人へ好きだと言うことも、誰かが帰ればおかえりと言うことも、全部が普通だった。 そして、それがこの村の自慢だった。

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