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第一章 第6話

 午後の入荷登録はスムーズに進んだ。途中からピッキングが終わった亜笠も参加してくれ、明日葉は久々に倉庫の通路の床をすべて拝むことが出来た。  今のところ緊急の配達も入っていない。この調子ならこれから明日のピッキング分の伝票が来るまで、返品在庫の捜索をすることが出来る――――と、詰所に向かおうと振り返ったところ、会田が泣きそうな顔で紙の束を抱えて立っていた。  明日葉は咄嗟に目をつぶった。今の、見なかったことに出来ないかな、と思った。そっと目を開けた。 「明日葉さぁん……!」  駄目だった。明日葉は覚悟を決めて声をかけた。だいたい予想はついた。 「ファーマみらいからの受注分ですか……?」 「そうです! さっき阿部先生から連絡が来て、今日は受注システム不調でFAXで注文書送るからって!」  阿部と言うのはファーマみらい薬局の管理者である40代の男性薬剤師だ。  極端に言えば、天才となんとかは紙一重の人だ。  周辺の薬局でも有名人で、彼が管理薬剤師に就任して以降、ファーマみらいは約3年間処方ミス0という恐るべき記録を更新し続けている。  ただし、チート級に仕事は出来るが、とんでもない変人。それが阿部という男だった。  明日葉は頭を抱えた。 「またいつものですか……」 「またいつものです!」  と、入荷処理がひと段落ついた亜笠が顔を出す。 「いつものって何ですか?」  会話を聞いていたらしい。会田がFAXで来た注文書を亜笠に差し出した。 「阿部先生ってとっても変わってる方で……いつもこんな風に漢字の当て字を使って薬品名を手書きしてくるんです……!」  亜笠と一緒に明日葉も注文書を覗き込む。 『腐尾氏夷賀十 100錠1箱』 「…………」 「…………」 「私と尾花さんでは解読できないんです……!」  黙り込む二人に、半泣きで会田が言った。ちなみに尾花は会田と同じくオペレーターをしている女性だ。 「こんな不効率極まりないことが許されていいんですか」 「あそこ青梅病院の門前だからこっちは何にも言えないの」  ド正論を述べる亜笠に、明日葉も半泣きで言った。 「ちなみにこれは何て読むんですか?」 「フォシーガ錠10ミリ、100錠1箱」 「……こっちの『円零直五十』は?」 「エンレスト錠50ミリ」  即答した明日葉に、亜笠の顔が露骨に歪んだ。ドン引きされていた。美形が台無しだと思ったが、明日葉は何も言わなかった。 「何でわかるんですか……?」 「慣れるとこうなるよ」  慣れでどうにかなる問題ですか?という至極真っ当な亜笠の問いに、明日葉は死んだ目を向けることで答えた。  半泣きの会田から紙の束を受け取る。20枚近くある……と明日葉は死んだ目をさらに濁らせた。力なく口を開く。 「おれが手入力するんで、会田さんはオペ戻ってください……」 「ありがとう~明日葉さぁん!」  泣き止んだ会田の背中を見送る。明日葉は注文書を持って詰所へと戻った。  ノートパソコンの前に座って受注システムを開く。後からついてきた亜笠も隣の席に座った。 「明日葉さん、僕も――――」  亜笠の言葉をさえぎる。 「大丈夫、おれがやる。あと少しで明日の1便目の伝票来るから、その前に納品書の整理をお願いします」  何か言いたげな亜笠をあえて無視して、明日葉は一枚一枚手書きされたそれを入力していった。いずれ阿部語録をつくろう、と明日葉は決意した。  まったく大柴と言い阿部と言い、なぜ薬剤師にはまともな人間がいないのだろう、と明日葉は全国の薬剤師さんに大変失礼なことを考えた。  しかも今回の難読阿部注文書は、3年間付き合いのある明日葉ですらわからない語録が使われていた。 『弟遊引聖闘士氷川三百』  意味不明すぎる。いやだいたい全部意味不明だけども。何だこれ。何だ聖闘士氷川って、誰だよ。何で薬品名に聖闘士が出てくんだよ。  時計を見る。時刻は16時前。混雑時ではないので出てくれるだろう。仕方なくファーマみらいに電話する。 「阿部先生御手隙でしょうか」  事務員はすぐに変わってくれた。 『何~、明日葉』  さわやかで明るいバカデカボイス、相変わらず元気そうだ。 「何じゃないですよ、何ですかこの聖闘士星矢みたいなやつ」 『え~? わかんない?』 さすがに相手は管理薬剤師先生なのでブチギレるわけにはいかない。 「教えてください。でないと受注できません」 『なんとなくでいいから言ってみて』 「…………」 『明日葉ならわかる。なんとなくでいいから』 「…………デュピクセント皮下注300ミリペン」 『正解~! さすが明日葉!』  阿部は電話越しにカラカラと笑った。明日葉は礼だけ言って電話を切った。  正解したくなかった。自分もすっかり阿部語録に染まり始めた。明日葉は涙の滲んだ目をパソコンの画面に向け、『デュピクセント皮下注300mgペン 1本』と入力した。  隣で会話を聞いていた亜笠が、やっぱり顔を歪めていた。ドン引き、するかそりゃあ。自分だってわかりたくなかった。  難読阿部注文書を解読し、受注システムへの入力が終わる。伝票を吐き出すプリンターの前で明日葉は膝を抱えて床に座っていた。家に帰りたかった。ベッドに寝たかった。何ならここで寝たかった。  亜笠は明日1便目の受注分をピッキングしている。大柴は自席で麻薬帳簿を開きながらゆらゆらと舟を漕いでいる。いいなぁ、と明日葉は上司の職務専念義務違反を怒るどころか羨ましがった。相当疲れていた。何せ徹夜2日目……返品在庫が見つからなければ、3日目も……とそこまで考えたところで排紙が止まった。  伝票を手に詰所を出る。台車に折りコンを乗せて倉庫をぐるぐると回った。折りコンの中が医薬品で隙間なく埋められていく。伝票順に、出しやすいように、箱が潰れないように。 「明日葉さん、こっち終わりました」  亜笠から声がかかる。が、明日葉は集中しすぎていて一度目で反応が出来なかった。 (箱――――潰れないように……シロップ剤は下に、あとは漢方も一緒に入れたいから――――)  亜笠がつかつかと寄ってくる。明日葉はまだ気が付かない。 「明日葉さん」 「えっ?」  肩を掴まれてやっと気付いた。眉間に皺を深く刻んだ亜笠に問いかける。 「あ、亜笠さん……? 何、どした?」 「大丈夫ですか」  一瞬何を言われたのか理解できなかった。 「何回か呼びかけても反応がなかったので」 「え、あ、ごめん! おれ集中しちゃうと結構周り見えなくって……」 「疲れてるんでしょう」 「いや大丈夫、平気平気」 「明日葉さん……」 「あ! っていうかもう定時じゃん!」 「こっちは全部終わってます」 「ありがとう! 今日はもう上がっていいよ」  と、詰所を見るとすでに大柴の姿はなかった。あいつ早すぎじゃない?っていうか部下にお疲れ様の一言があっても良くない? 明日葉の額に青筋が浮かんだ。 「明日葉さんも、帰りましょう」 「あー……まだファーマみらいの分が終わってないし……」 「僕もやります」 「棚卸の返品在庫も見つかってないし……」 「僕も探します」 「二日目の新人を残業させたらおれが事務長に怒られるから……」 「僕が事務長に事情を説明します」 「…………」  どうしよう、この新人。自分が帰らなければ梃でも動かなそうだ。  明日葉は肩の力を抜いた。 「――――わかった。今日は帰るよ」 「今日『は』ってことは昨日は帰らなかったんですね、やっぱり」  明日葉の肩がビクッと上がった。  そそくさと帰り支度をしていると、隣で同様に着替える亜笠が口を開いた。 「明日葉さんのご自宅ってどちらなんですか?」 「会社のもっと西の方、歩いて15分くらいかな」 「自宅が近いといいですね」 「うん、めっちゃ便利だよ。1時間あれば行ってシャワー浴びて帰ってこれるし」 「へぇ……」  低い声に、あっ、やばいまた墓穴を掘ってしまったと明日葉は焦った。話題を反らさなければ。 「亜笠さんは? どこ住み?」 「立川です」 「あ、便利でいいね。駅から近いの?」 「徒歩10分です。1LDKの2名入居可の物件です」 「へぇ~」  ってことは何か? 彼女と同棲でもしてるのか? だが明日葉はそれ以上聞かなかった。それを聞けば恋愛関係の話題になりがちだからだ。  自分には触れられたくないものが多すぎる。だから相手にも特段触れなかった。  詰所を施錠し、事務所へ上がる。タイムカードを押していると後ろから声がかかった。江南だった。 「明日葉、今日は早いな」 「あ、お疲れ様です」 「昨日はありがとな。今日は定時で帰れるのか?」  よかったな、と江南。明日葉は力なく笑って、亜笠と共にその場を後にした。 一緒に夜道を歩いていて、ふと気が付いた。亜笠の眉の皺が消えてた。 今なら話せるかも、と歩きながら明日葉は亜笠に問いかけた。 「亜笠さんていくつなの?」 「来月で25になります」 「25かぁ、若いのにしっかりしてるな」  自分が25の時とは大違い、と明日葉は少し暗い気持ちになった。亜笠が言った。 「明日葉さんは?」 「おれ?先月で30になったとこ」  亜笠の足がピタリと止まった。明日葉が首を傾げる。 「30?」 「うん。老けて見えた?」 「逆です。同い年か、それ以下かと」 「あはは、もう三十路のおっさんだよ」  お世辞がうまいなぁと明日葉は笑った。 「しかしそれだけ若くて優秀なら、MR時代もすごかったでしょ?」 「それは――――まあ」  否定しないのかい、と思いつつも明日葉は笑った。 「来てもらって本当に助かってる、ありがとう。逆に全然教えられなくてごめん」  昼のお弁当もおいしかった、と洗った弁当箱を返した。 「また明日も持ってきます」 「え、いいよ。面倒だろ」 「ついでなんで」 「料理好きなの?」 「好きな人のために作るのが好きなんです」  あ、ってことはやっぱり彼女と同棲してるのね。今時の料理男子はすごいな。お弁当まで毎朝つくるのか。  ふと見ると、亜笠の顔がなんとなく赤いような気がした。恋人か、いいね。単純にそう思った。自分にはもうすっかり縁遠いことになってしまった。  駅の改札口で亜笠と別れる。 「また明日ね」  明日葉は手を振った。 「――――はい、また明日」  同じく手を振って、亜笠が言った。その背中を見送る。 (――――さて、と)  自宅へ速足で帰る。シャワーを浴びて、新しい下着を履いて――――Yシャツとスラックスを身に着ける。毛布が投げ出されたベッドを見る。誘惑に負けそうになるが、なんとか堪えた。通勤用のバックパックを再び背負い、部屋を出る。  薄暗い夜道を、てくてくと会社へ向かって歩いた。  ふと初日の朝を思い出す。 『明日葉さんは童貞ですよね。処女ですか?』 『付き合っている人はいますか?』  ――――あれ、どうして聞いてきたんだろう。  そんなことを考えている内に、真っ暗になった会社に到着した。

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