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第二章 第4話

 メリーゴーランドを降りても明日葉は帰れるとは最早思っていなかった。  辺りが薄暗くなり始め、夕日に空が染まってくる頃――――亜笠が指を差した。 「最後にあれに乗りましょう」  まあ、やっぱりなと思った。彼が指差した先は――――コスモクロック21。  抵抗もむなしく、明日葉は観覧車に詰め込まれた。亜笠の力は思いの外強かった。 「ようやく二人きりですね」 「犯人みたいなセリフですね」  亜笠の言葉に即答する。亜笠は少し頬を染めて言った。 「だって観覧車の頂上でキスって、夢じゃないですか」 「夢じゃないよ! むしろ夢壊すだろ、周りの子供たちの! 家族で行った遊園地で男同士のキス見たらトラウマだよ!」 「何ですか、ゲイ差別ですか?」 「差別じゃなくてTPO!」 「キスくらいわかりませんよ」 「わかるよ! こんなガラス張りでどこをどう見ても丸見えだよ!」 「明日葉さんこそ日本語おかしいですよ」  肩で息をしながら、明日葉は諦めたように口を開いた。ここに来てから気が付いたことを、思い切って聞いてみる。 「…………お前ってロマンチストなの?」 「何ですか、いきなり」 「だってこれ、王道のデートコースじゃん。買い物、フレンチ、遊園地に、夜は夜景の見えるレストランで食事?」  王道中の王道だ。明日葉は頬杖をついて亜笠を見た。亜笠は別段気分を悪くした様子もなく、いつもの無表情で答えた。 「いけませんか」 「いけないことはないけど、おれは苦手だよ」  明日葉の言葉に亜笠の身体が揺れた。 「昼も味よくわかんなかったし、胃も痛くなるし。人ごみ嫌いだから、こういうとこもほとんど来たことないし。楽しみ方よくわかんない」  っていうか全然楽しくない、と喉まで出かかった台詞を飲み込んだ。亜笠が眉を寄せて黙り込んだからだ。 「…………」  やば、怒ったか? 黙り込む亜笠は無表情で感情が読めない。でも怒ったわけではなさそうだった。 「――――明日葉さんは、こういうデートは初めてですか」  しばらくの沈黙の後に、亜笠が口を開いた。質問に、明日葉は記憶の扉を開く。 「んー……そうだね。遊園地は初めてかも」 「恋愛経験、ないかと思ってました」 「お前なぁ……失礼にもほどがあるだろ。恋愛経験くらいあるわ」  まあ、人に言えるようなものではないけど、と明日葉は心の中だけで付け加えた。 「でも観覧車は僕が初めてですね」  そう言って亜笠は微笑んだ。  明日葉はその笑顔を直視できなかった。仕方なく窓の外を眺める。  真っ赤に染まった夕日がビルの間に沈んでいく。対して海側の空には、青い暗闇がじわじわと迫っていた。赤と青のグラデーション。ここからだとすべてが一望できた。  今日一日張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。  この景色は綺麗かも、と明日葉は思った。  亜笠が明日葉の頬にそっと手を寄せてきた。自分より少し低い体温を感じる。 もうすぐ頂上に到着する頃だった。明日葉は外を眺めていた目を亜笠に向けた。 「なに?」  聞くと、亜笠が少しためらった後、口を開いた。 「キスしていいですか」  何もこの密室なんだから、勝手にすればいいものを。告白された時もそうだったが、この男は相手の同意というものをひどく大切にしているようだった。  かすかに震える手。切実な眼差しに、つい明日葉の警戒が緩む。 「――――いいよ」  それだけ言うと、亜笠は唇を重ねてきた。優しく、そっと。数秒触れ合った後に離れていく。  明日葉は目を丸くした。本当にしてしまった。自分で返事した癖に変に驚いてしまった。  見ると、亜笠は照れたように微笑んでいた。  その笑顔に明日葉の胸がズキリと痛んだ。  ――――この男は本当に自分のことが好きらしい、ということを実感してしまって、明日葉は後ろめたかった。  窓の外には、夜の暗闇が迫っていた。  明日葉は少し気まずく思いながら、観覧車を降りた。亜笠も続けて降りてくる――――と、隣の観覧車から降りてきた女の子に思いっきり指を差された。 「あーっ! ママ、あのお兄ちゃんたちだよ、チューしてたの!」  子供のバカデカボイスが辺り一面に響いた。明日葉は硬直した。亜笠は平然としていた。  隣にいた母親が急いで女児の口を塞いだ。 「しっ! 指さしちゃいけません!」  と言って早急にその場を後にする。取り残された明日葉は、周囲の視線を痛いほど感じた。冷や汗が背中を伝う。 「今時カップルのキス見たくらいでギャーギャー騒がないでほしいですね」  お前がとどめを刺すなよ、思ったが、明日葉はもう疲れ切っていてどうでもよかった。  コスモワールドを出る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。桜木町方面に向かう亜笠に声をかける。 「なあ、夜も予約してんの?」  まあ、してるだろうな。返事は案の定イエスだった。 「ホテルのディナーを取りました」 「それってキャンセルできない?」  提案に、亜笠は少しだけ眉を寄せた。 「……出来ますけど」 「今からして大丈夫か? キャンセル料とか」 「馴染みなので、融通は利きます」 「じゃあキャンセルして」  少し不服そうなのを押し切る。明日葉は代替案を提示した。 「別なとこ行こう。やっぱりああいう洒落た店ダメだ。できれば普通の居酒屋とかがいい」 「居酒屋ですか」 「焼き鳥とか」  今度は明日葉が指を差す番だった。  近場にある焼き鳥屋の看板を指し示す明日葉に、亜笠は少しためらった後、首を縦に振った。  混雑する時間帯だというのに、たまたまカウンターが2席空いていた。予約のキャンセルが出たらしく、案内してくれた店員は「ラッキーでしたね」と笑っていた。  二人並んで腰を下ろす。メニューを広げながら、隣に座る亜笠の顔を窺った。相変わらず無表情。 「……ディナーの方がよかった?」 「いえ、別に」 「お前って何が好きなの」  メニューをパラパラとめくりながら聞いた。亜笠が静かに答える。 「好き嫌いは基本ありません。正直言うと、味覚はそれほど繊細じゃないんです。余程のことがない限り、大抵のものは食べられます」 「へー、意外だな。味にはうるさそうなのに。おれもだよ、だいたい何でもおいしく食べれる」 「見ればわかります」 「見た目通りで悪かったな」  通りかかった店員に飲み物とくし盛り合わせを頼んだ。 「ウーロン茶って、別にお酒飲めばいいのに」 「下戸なんです」 「えっ、意外! めちゃくちゃ強そうなのに」 「よく言われます。営業時代は大変でした」 「あー……」  たしかにそれはきついかもしれない。体育会系のノリに、下戸。合わないだろうなと気の毒に思った。 「明日葉さんは飲まないんですか?」 「うん、飲めるんだけどね。胃が」 「ああ、なるほど」 「それに突然急配お願いとか言われることもなきにしもあらずっていうか」 「だから櫟さんに社畜って言われるんですよ」 「うるさいなぁ」  先ほど観覧車の中で気まずかったので、自然に話せていることに少し安心した。飲み物と盛り合わせが運ばれてくる。乾杯もせずに明日葉はジンジャエールに口を付けた。 「お前はああいう洒落た店の方が好きなの?」 「好きと言うか……大抵の人は喜ぶじゃないですか」 「まあ大抵の人は、な。お前みたいのに連れてかれたら喜ぶでしょーよ」 「前の恋人も喜んでました」 「へぇ、そうなんだ」  これだけ美形で尽くすタイプなら恋人の一人や二人いただろう。だが明日葉はそれ以上聞かなかった。 「明日葉さんは違うんですね」 「人多いとこ、基本駄目だし。こういう飲み屋にも滅多に入んないよ。でもどっちかって言われると断然飲み屋の方がいい。だって飯食うために店に入ってんのに、落ち着いて食えないって最悪じゃん」 「ムードも何もないですけど、確かにそうですね」  亜笠が少し笑った。明日葉は焼き鳥をかじりながら言った。 「どうせおれはデリカシーのかけらもない男ですよ。焼き鳥とか、お前が作ってきたお弁当とかおにぎりの方が美味しいもん」 「それ、は――――ありがとうございます」  言葉に詰まった亜笠に首を傾げながら、明日葉は盛り合わせの皿を亜笠に押し付けた。 「ほら、お前も食べなよ。奢ってもらってばっかりだし、ここの支払くらいはおれがするから、好きなの頼んでいいよ」 「…………明日葉さんって」  亜笠の顔が少し赤い。明日葉は慌てた。 「えっ何、まさかそれウーロンハイだったとかじゃないよね!?」 「それ、わかっててやってるんですか?」  少し怒ったような口調で亜笠が言った。何に怒っているのかもわからず、明日葉は首を傾げながら焼き鳥をかじった。

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