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第二章 第10話

 トイレにこもった明日葉は頭を抱えていた。  先日のデートのハイライトが脳内を駆け巡る。誘いを断ろうとすると彼はめちゃくちゃに怒っていた。デートは王道中の王道のオンパレードだった。挙句の果てにスイートルーム。  なのに自分は仕事を優先させた。明日葉が携帯を奪い返そうとした時の、彼の必死な眼差しが蘇る。あの言葉の続き。 『今日だけは――――』  ――――僕のことを優先してほしい、だったのだ。  明日葉はようやく、亜笠が何をしたかったのかを理解した。 (意外に乙女チックというか、ロマンチストというか……)  要するに誕生日に二人っきりで楽しくロマンチックに過ごしたいの! ということか。  っていうか、 (言えよぉおおお! ちゃんと! 誕生日だから一緒にいたいんだって! そうしたらおれだって、少しは――――)  と、そこまで考えて、我に返った。 (言っても……別に、変わんないか。たぶんおれ、同じこと言ってる)  友達と楽しく過ごせばいいと思うし、平日に休みとって行けよ、とも思う。  察しのいい亜笠のことだ。おそらく自己申告しても、自分が何も変わらないと見抜いていたんだろう。  胸の中に靄が広がる。こんなことで悩みたくないから一人でいるのに。 (あーあ……死ぬまで独り身覚悟してるのになぁ……)  本当に彼といると調子が狂う。明日葉は苦笑した。  携帯を取り出して、あの日泊まる予定だったホテルのサイトを探す。  数分後、明日葉の絶叫がトイレにこだました。  歓迎会は夜の9時にはお開きになった。しこたま酔った社員たちをタクシーに詰め込んで見送る。明日葉の姿はそこにはなかった。喫煙所で江南と話していたかと思いきや、トイレから出てこなくなってしまった。しかも明日葉の叫び声らしきものも聞こえた。  具合でも悪いのだろうか、と心配する亜笠に櫟が言った。 「大丈夫、あいつ胃の調子悪いとよく吐き戻すから」 「それは大丈夫とは言わないですよね」 「まあまあ、ちょっと外で待ってようよ。ここにいると邪魔になっちゃうし」  愛染と連れ立って店の外に出る。やはり喫煙所にも彼の姿はなかった。 「櫟さん」 「ん、何?」 「さっきの話のことは、明日葉さんには……」 「言わないよ。当たり前でしょ」  それに言われたってあいつは気が付かないよ、ポンコツだから。櫟はカラカラと笑った。 「ありがとうございます」 「――――本当に好きなんだな、明日葉のこと」  愛染が言った。亜笠はすぐに頷いた。 「あのさ……よろしく頼む。あいつ、すぐ無茶するから」  意外だった。てっきり良く思われていないのかと思っていたが。  亜笠は微笑んだ。 「わかりました。しっかりご飯食べさせます」  大丈夫です、と言うと、愛染がニッと口角を上げた。 「あ、ごめん! 待たせた?」  トイレからやっと出てきた明日葉が合流し、この話題はそれぞれの胸の内にしまわれることになった。  当の本人は櫟に体調を聞かれ、呑気に「ダメだった、全部吐いた」と話していた。亜笠はやっぱりこの人全然大丈夫じゃないなと思った。  酔いの軽い櫟と、途中までは電車の愛染が連れ立って歩き始めたので、明日葉は一緒に駅へ歩き出した。隣を歩く亜笠は駅まで自分たちを見送りに来てくれるらしかった。  愛染と櫟の背中を見ながら、明日葉は迷っていた。  明日葉はトイレであの日のホテルの宿泊代を見た。見た瞬間思わず絶叫した。胃の内容物を全部吐き出すくらいにはびっくりした。  なんと一泊――――22万円。一泊で。一泊で! (いやこれは払わないとまずいだろ……)  何せ一泊22万を自分は滞在時間30分で出てしまった。しかも、亜笠も一緒に。一泊どころか30分、22万円。 (払おう――――全額)  そのくらいしか償いが思いつかなかった。  明日葉は意を決して亜笠に話しかけた。 「あのさ、ホテル代のことだけど……やっぱりおれが払うよ」  全額、と言うと亜笠は一瞬目を見開いた。すぐにいつもの無表情に戻る。 「いいです、そもそも僕が勝手に取ったホテルですし」 「だってお前一泊22万って」  先に行こうとする亜笠の腕を取る、と、乱暴に振り払われた。 「いいですってば」 「何怒ってるんだよ」 「別に、怒ってません」  明日葉は亜笠が苛立っている原因を考えた。やはり一つしか思い浮かばない。 「だってお前、誕――――」 「僕は明日葉さんにお金を払って欲しいわけじゃありません」  明日葉の言葉をさえぎるように言って、亜笠が目を伏せた。 「義務的に払われても――――嬉しくありません」 「なっ……! だってお前、22万だぞ!? それを、おれが途中で」  22万円、明日葉にとっては義務的に払われたって嬉しい金額だ。もしかしてこの男、思い出はお金に換算できないとかそう言うタイプか? と思ったら、案の定亜笠は言った。 「別に良かったんです」  亜笠は握った拳を自分の胸にあてた。まるでそこに大切な何かがあるかのように。 「スイートルームに泊まれなくても、一緒にお風呂に入れなくても」  亜笠は真剣に話していた。 「仕事で抜け出して一緒に走ったことも、全然、それで良かったんです。僕はそれでも嬉しかった」  デート、楽しかったです。そう言われて明日葉は言葉に詰まった。 「――――どうしてそこまでしてくれるんだよ。おれ、お前に何もしてないだろ」  亜笠の身に過ぎた好意が、明日葉には少し怖かった。  普通の人間ならば、こんな美形男子に言い寄られ22万のスイートルームまで用意されれば、喜んでその胸に抱かれるのだろうが――――生憎、自分は『普通』ではなかった。 「どうして明日葉さんはそうなんですか」 「どうして、って」 「自分がしたことにまるで価値がないみたいな言い方をして……だって、デートに来てくれたじゃないですか。買い物もフレンチも遊園地も、全部僕に付き合ってくれたじゃないですか」 「いやそれはお前が脅すからだよ……」  呆れたように言ったが、無視された。おい。 「じゃあどうしてデート中に一度もタバコを吸いに行かなかったんですか」 「それ、は――――」  違う。ただ単に、吸う気が起きなかっただけ。あの人込みではぐれたら困ると思っただけ。いや、それも違う。  どうして、自分は――――  たどり着きそうになる答えを、明日葉はかぶりを振って打ち消した。  そうこうしている内に駅に到着する。  改札が近づくにつれ、明日葉の中では困惑よりもイライラの方が勝っていった。どうして恋人でもない、ただの後輩の一言動でここまで自分が悩まなければならないのか。 (せっかく――――さっきは、打ち解けられたと思ったのに)  喫煙所での会話を思い出す。  亜笠が先ほどからずっと黙っていることも気に食わなかった。言いたいことがあるなら言えばいいのに、と、そう思った。気まずかった。  だから改札口でみんなの足が止まってから、つい、明日葉は言ってしまった。 「あーっ! もう!」  愛染と櫟がこちらを振り返る。喧嘩か?という愛染の言葉は明日葉の耳には届かなかった。  隣に立っていた亜笠も、目を見開いて明日葉を見た。 「いい加減にしろよ! 勝手にデートに誘って勝手に満足して勝手に怒って! 何なんだよもう!」 「――――何ですか、それ」  一瞬の沈黙の後、亜笠も負けじと口を開いた。 「明日葉さんこそどうしてそう自分の気持ちに対して強情なんですか! わからず屋!」 「わからず屋はどっちだよ! 22万払うって言ってるだろ!? どうして人の好意を無下にするんだよ!」 「何にもわかっていないのはあなたの方でしょう!? 超弩級の鈍感! 自己肯定感激低男!」 「お前最後のは普通に悪口だろ! なんだよ散々好きだの何だの言っといて! どうせ――――」  信じない、と思った。信じられないと。それは亜笠にだけ向けたものではなかった。  信じたくない。信じたら――――また、自分は。  明日葉は櫟と愛染が呆然とこちらを見ていることも忘れて、叫んだ。 「今はそうでも、どうせ変わるよ! お前も――――おれも!」 「変わりません!」 「はぁ!?」  それまでヒートアップしていた亜笠が、突然冷静な口調になって、言った。 「何なら今ここで誓いましょうか」 「えっ!?」  突然の変貌に明日葉の脳が処理落ちした。  呆気にとられる明日葉の目の前で、亜笠が大きく息を吸って、自分の両手を口の端にあてた。  明日葉はその時亜笠の口を塞がなかったことを激しく後悔した。 「僕はこの癖毛頭の明日葉護さんのことが世界で一番大好きです未来永劫愛し抜くことを誓います!!!」 「うわぁああああああやめてぇええええええ!!!」  周囲の視線がザッと2人に集中した。  明日葉は亜笠の口を押さえようと手を伸ばした。が、亜笠は巧みにその手を躱した。亜笠は亜笠で躊躇いなく明日葉の顔面を掌で押さえ込んだ。好きな人に対する態度じゃなかった。  もがく明日葉の視界を端に、猛スピードで改札に向かって駆け抜けていく櫟と愛染の姿が映った。  あいつらおれを置き去りにしやがった……と明日葉は絶望した。  明日葉は半泣きになりながら亜笠に抗議した。 「もうやめろよバカぁあああ! 落ち着けってば!」 「僕は落ち着いてます」 「なお悪いし! っていうかみんなもいないし! 櫟の裏切り者、愛染さんの薄情者ぉ!」  見ると、すでに櫟も愛染も姿を消していた。改札を越えてホームに行ったようだ。素早すぎる。 「僕だけがいればいいじゃないですか」 「いや全然良くないよ! むしろお前だけいることが状況を悪化させてるよ!」 「二人っきりですね」 「手を繋ごうとするな!」 「恋人が手を繋がなくてどうするんですか」 「そもそもが恋人じゃない! こっちは出会って三日で告白されて勝手に恋人関係強要されてるだけなんですけどぉ!」 「ちゃんと告白はしました。あと明日葉さんは返事はしなかったけど無抵抗でした」  ふてくされる亜笠に明日葉は叫んだ。 「呆然としてる間にお前が宣言したからだよ! したくても出来なかったんだよ抵抗がぁああああ!」 「まんざらでもなかったくせに!」 「お前おれのこと嫌いだよな、絶対嫌いだよなぁ!」 「好きです大好きです僕の気持ちを全部社内メールに書いて一斉送信したいくらい愛してます」 「脅すくらい憎んでるだろ絶対!」  叫びながら、ああどうしておれはこんなことしているのだろうと途方に暮れた。  本当だったら今頃家に帰ってお風呂入って布団の中にいるはずなのに、駅構内で男と痴話喧嘩――――じゃなかった危ない!――――押し問答。  ひとしきり揉めた後、明日葉は疲労で地面に四つん這いになっていた。ゼエハアと肩で息をする。 「――――っていうか、そもそも何の話だっけ……」  ホテル代だっけ? なんかもうどうでもよくなってきたな、と明日葉はため息をついた。  顔を上げて亜笠を見る、と、彼はつんと横を向いていた。 「ホテル代なんかいりません」  その代わり、と前置きして、亜笠が言った。 「――――プレゼント、ください」 「え?」  唐突なお願いに面食らう。たしかに誕生日と言えばプレゼントだが――――その発想はなかった。ホテル代にばかりに気を取られていた。 「あ、じゃあ用意するよ」  何か欲しいのある? 明日葉の言葉に、亜笠が悪戯っぽく微笑んだ。 「あります」 「何」 「今すぐ欲しいです」 「い、今すぐ?」  首を傾げる明日葉に、亜笠は同じく首を傾けた。 「はい」 「って言われても、おれ今は持ち合わせないよ」  財布の中身を思い出す。飲み会代を払ったばかりで一万円も残っていない。  主だった店も閉店しているし、コンビニで何か買うにしても、誕生日プレゼントとしてはあまりにもお粗末すぎる。  そんな明日葉に、亜笠は自分の唇を指差して、言った。 「キスしてください」 「…………今?」  明日葉は周囲を見回した。遅い時間とは言え、駅構内にはまだかなり人通りがある。さっきの亜笠の渾身の叫びで、人の目もこちらに集中していた。  亜笠はきっぱりと言った。 「今、すぐ、ここで」 「…………お前、これがやりたかったの?」  明日葉の問いに、亜笠は晴れやかに笑った。 「あの時の続き、お願いします」  あの時――――明日葉が携帯を奪うためにキスをした時のことだ。  仕事で抜け出して走ったことも良い思い出だ、と言っていたわりに、根に持っているらしい。 「お前さぁ……一回恋人の意味、ちゃんと調べてきたら?」  明日葉は青い顔をして一歩前に出た。  呆れながら亜笠の肩に手を置いた。目を閉じる亜笠を前に、祈るような気持ちで息を吸い込む。 悔しいが、櫟と愛染は逃げて正解だったようだ。  とりあえず来年は――――プレゼントくらい用意しよう。  デートプランも立てた方がいいのかもしれないが、大型連休中の遊園地は何が何でもご免だ、と、そう思った。

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