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第五章 第5話

 目が覚めると、見慣れた天井が目に入った。白い天井に、丸い照明――――明日葉の部屋だった。亜笠は重い頭をゆっくりと起こした。  昨日のことを思い出す。居酒屋で明日葉に別れを告げられたこと、自棄になって酒を飲んだこと、そして、そのまま意識を失ってしまったこと。  辺りを見ると、サイドテーブルにネクタイとベルトが綺麗に畳まれて置かれていた。どうやら明日葉が介抱してくれたらしい。  重い頭を振って、亜笠はベッドから起き上がった。台所を覗くと明日葉がエプロンをつけて立っていた。 「あ、起きた」  いつも通りの、柔和な声だった。 「……護さん」  明日葉は持っていた皿をローテーブルに置くと、亜笠の傍に寄ってきた。顔をまじまじと覗き込まれる。 「頭痛い?」 「少し重いだけです」 「本当に下戸なんだな、ジョッキ一杯で倒れるってどんだけだよ」  悪戯っぽく笑う明日葉に、亜笠は照れて目を反らした。 「朝ごはん食べれそう?」  気持ち悪くないか、と首を傾げる明日葉はいつもと変わらない。  テーブルには目玉焼きとベーコン、トーストとコーヒーが並んでいた。  思わず亜笠は黙り込んだ。自分は――――悪い夢でも見ていたのだろうか。  わかっている。昨日の出来事は夢なんかではない。居酒屋で「付き合えない」とはっきり言われたことも覚えている。  だが、明日葉の態度があまりにもいつも通りだった。  いつも通り過ぎて、亜笠は少し不安になった。 「冷めるから早く食べよ」 「……はい」  二人は向かい合って朝食を食べた。会話もいつもと変わらなかった。 「着替えどうする?」 「護さんの借りてもいいですか」 「いいけど、シャツはともかく、スラックスの丈合うかな」 「大丈夫でしょう。ちょっと短いと思いますけど」 「ムカつく! ちょっと足が長いからって!」  軽口をたたくのも変わらない。  亜笠がシャワーを浴びている間に、明日葉が食器を片付けてくれた。明日葉の衣類を借りて身支度を整える。やっぱりスラックスの丈は少しばかり短かった。くすりと笑うと、ネクタイを締めていた明日葉が「もう二度と貸してやんない」と顔を背けた。  一緒に家を出て、会社までの15分を歩いていく。 「そう言えば今月末にエンタイビオの発注来るって江南さん言ってた」  明日葉がぼそっと言った。  エンタイビオは潰瘍性大腸炎やクローン病に使われる薬だ。1瓶約28万の冷所保管必須の高額医薬品。在庫はたしか5~6本あったはず。 「青梅病院ですか」 「うん、たぶん急配になるかな」 「病院側も棚卸で在庫絞ってますからね」 「在庫残らないといいなぁ……」  いつもの調子で、明日葉がため息をついた。  何も変わらない朝だった。  別れ話だけが、最初から存在しなかったかのようだ。  職場に着いてからも二人は黙々と作業した。お互いに入荷処理とピッキングとを割り振って進めていく。時折声をかけ合いながら。  仕事は円滑だった。だからこそ亜笠は不安だった。  明日葉が、あまりにもいつも通り過ぎることに。  明日葉は思っていることがすぐに表に出る。楽しければ八重歯を見せて笑うし、怒ればすぐ怒鳴る、恥ずかしい時は床に転がる、嫌な時は眉根が寄る。クルクル変わる表情を見るのが亜笠は好きだった。  でも、今日の明日葉は――――  表情は変わる。大量の輸液の急配が来た時も叫んでいたし、麻薬製剤の注文が来たのに大柴の姿が見えなかった時も泣きそうになりながら彼のことを探していた。 「何? どしたの、人の顔じっと見て」  明日葉がそう言って微笑む。  亜笠に向ける表情だけが、怖いくらい穏やかだった。  手を伸ばせば届く距離にいる。なのに、どこか遠く感じる。 「いえ、何でもありません」  亜笠も微笑んで返した。  無理に聞かないと言った手前、自分には何も出来なかった。  終業後、亜笠は明日葉に声をかけた。  昨日の話でなくてもいい。せめて帰り際に、少しだけでも話がしたかった。 「護さん、今日は一緒に――――」 「ごめん」  明日葉が、穏やかに、だが有無を言わせないくらいきっぱりと、言った。 「今日は棚卸の準備したいから、先に帰って」 「でも」 「無理はしない。1時間以内には帰るから」  じゃあ僕も、と言い出せる空気ではなかった。 「……わかりました」  亜笠はそう言って、ひとり会社を後にした。  翌日も、翌々日も――――  明日葉はそう言って会社に残った。断り方は柔らかく、だがはっきりとしていた。疲れた様子で微笑まれれば、亜笠にはそれ以上粘ることが出来なかった。  会社を出て、電気のついた詰所を振り返る。  明日葉は仕事中も変わらずに声をかけてくれる。荷受けも、ピッキングも、急配も、返品処理も、何一つ変わらない日々が過ぎていった。  たったひとつ、プライベートを共有することを除いては。  そうして、あっという間に平日が過ぎていった。  金曜の夜、亜笠は意を決して明日葉に声をかけた。 「護さん」 「何?」 「今日は――――一緒に、帰りたいです」 「…………わかった」  胸を撫で下ろしたのも束の間、明日葉の次の言葉に亜笠は胸の奥が冷えた。 「駅まで送るよ」  毎週末、明日葉の家に行っていた。それが当たり前だった。  なのに―――― 「護さん……」 「……言っただろ」  明日葉が寂しげに微笑んだ。 「もう、来ないでって」  境界線だけが静かに引かれていった。  そこまで頑なになる理由が知りたかった。  だが、自分で言った。『無理には聞かない』と。明日葉が自分から話してくれるのを、亜笠は待つしかなかった。「話してください」と聞けば約束を破ることになる。  どんどん広がる距離を目の前にして、亜笠は途方に暮れた。  今までの明日葉がどれだけ自分に甘かったのかを思い知った。明日葉は、一度拒絶すると決めれば――――こんなにもはっきりと態度に示すのだ。相手に有無を言わせずに。 「月曜はキイトルーダの発注入るから、おれが作業してる時に急配来たらよろしくね」 「抗がん剤ですね、わかりました」  駅までの道を歩きながら、そう言って笑う明日葉に、亜笠は頷いた。  明日葉は、不誠実な人間ではない。  いつかきっと話してくれる。亜笠はそう思うことにした。  それが今の自分に出来る、唯一のことだと信じて。  この時は――――そう信じていた。  月曜日の朝。明日葉はげっそりした顔で会社のロッカーを開けた。時刻は7時30分。いつもより早い時間帯だった。 (全然眠れなかった……)  金曜から、あれこれ考えてほとんど寝付けていなかった。昼は昼で考え事をしながら部屋の掃除やら洗濯やらをしていたらあっという間に土日が過ぎてしまった。おかげで部屋はピカピカになった。カーテンまで洗濯してしまった。  明日葉は積極的に家事をするタイプではない。むしろ、ひとりきりの時なんかは何週間か掃除しなくても平気な部類だ。が、何かしていないと――――すぐに亜笠の思い詰めた顔が頭に浮かんでしまい、手を動かさずにはおれなかった。  おかげで考え事をしていても、ちっとも前に進まなかった。 (雨宮のこと、ほんとにどうしよう……)  結局、結論が出ないまま今週を迎えてしまった。棚卸まであと2週間を切ったというのに、なぜ今更別れた元彼のことで悩まなくてはならないのか。  明日葉は途方に暮れていた。  とりあえず着替えてハンディスキャナーを腰にセットする。作業用手袋を嵌めているとトラックの運転手が詰所の窓口から顔を出した。  荷受けの対応をしているうちに、事務所に亜笠が入っていくのが見えた。  検品を済ませて荷物を運ぶ。ひと段落して詰所に戻ると、亜笠と大柴が出勤してきた。 「おはよ」  いつも通り微笑んで挨拶をする。亜笠もいつもの無表情で応じた。 「おはようございます」  大柴がひらひらと両手を振った。 「おはようございます~」 「おはようございます、大柴さん」  さて今日もがんばるか、と明日葉が意気込んだその時だった。  詰所の電話が鳴り出した。着替えていた亜笠がすかさず手を止めて取る。 「はい、倉庫です――――……はい、明日葉さんですか?」  明日葉は嫌な予感がして動きを止めた。 「明日葉さん、電話です」 「誰から」 「社長からです」 「いないって言って」 「もう繋がってます」  受話器からぼそぼそと社長の声が漏れていた。明日葉は亜笠の手から受話器を奪った。 「はい、明日葉です」 『いるのはわかってるぞ。どうして出ない』  犯人みたいな台詞だな、と明日葉は思った。さすがに言わなかったが。 「出たくなかったので」  明日葉はド正直に答えた。社長は気を悪くすることなく、本気で不思議そうな声を出した。 『どうしてだ?』 「どうせ在庫金額のこと聞きにかけてきたんでしょう」 『話が早くて助かる』 「毎日メールで送ってるじゃないですか! メール見て下さいよ!」 『メールじゃ臨場感が伝わらん』 「在庫金額に臨場感必要です!?」  報告に臨場感はいらないだろ、と明日葉は心の中でひとりごちた。が、社長はどこ吹く風で続けた。 『で、今いくらだ』 「調べてメールで送りますから! 待っててください!」 『口頭でいい。今から調べろ』 「無茶言わんでください!」  荷受けもピッキングもあるのに、と明日葉は文句を言った。社長相手だが遠慮がなかった。 『わかった。じゃあ5分以内に送ってくれ』 「カップ麺じゃあるまいしそんなにすぐ出来ません」  明日葉は棚卸近くになると毎週のように電話をかけてくるこの社長のことが嫌いだった。いちいち仕事が止まって仕方ない。早く報告してほしいのなら、電話しないで欲しかった。  そこまで言うと社長は『そう言えば』と思い出したように言った。  明日葉は、その真剣な声音にハッとした。もしかして超高額医薬品のタクザイロの件かな、それともエンタイビオかな……とちょっと身構えた。 『亜笠との結婚式はいつになるんだ?』  明日葉はその場でずっこけた。 『俺の祝辞が必要なら早めに言ってくれ。当日いきなりは困るぞ』  はははは、と笑う社長に、明日葉は無言で電話を切った。乱暴に受話器を置く。 「どいつもこいつも……!」  その様子を横で見ていた亜笠の肩が震えていた。 「お前も! 笑い事じゃないから!」  亜笠は口元を押さえて笑っていた。 「社長にあそこまで言えるの、社内でも明日葉くんくらいでしょうね~」  大柴が呑気に呟いた。明日葉は憮然として答えた。 「好きで言ってるんじゃないです」  ようやく笑いを引っ込めた亜笠が、ロッカーに向き直り着替えを再開した。 「社長、明日葉さんに電話するの絶対楽しんでますよね」 「それがわかるから余計に腹立つ!」  朝から地団駄を踏む明日葉に、亜笠が微笑んだ。 「――――元気そうで、良かったです」 「あ……」  心配、してくれていたのか。明日葉は言葉に詰まった。慌てて亜笠から目を反らす。ちょうど窓からトラックが入ってくるのが見えた。  明日葉は荷受けのため亜笠の横を通り抜けた。 「お弁当、作ってきましたから――――一緒に食べましょうね」  通り過ぎるその瞬間、囁かれる。 「うん。ありがと」  明日葉はいつも通り返事をしてから、その場を後にした。  金曜日まではあっという間だった。  月末も近付き、病院や薬局から返品在庫が続々と届いていた。倉庫の棚にはメーカーごとの返送品がずらりと並んでいた。 「明日葉さん、これ返品承認下りてます」 「ありがと。じゃあ物流センター行きにまとめといて」 「はい」  亜笠と声を掛け合いながら、二人で黙々と作業を進めていく。  返品承認が下りた商品を確認し、連絡書を添えてメーカーごとに箱詰めする。箱がいっぱいになるたびにガムテープで封をし、送り状を貼る。  棚卸前特有の慌ただしさではあったが、不思議と焦りはなかった。明日葉は積み上がった箱を見渡した。 (このままなら何とかなるかな)  返品も順調。在庫差異も今のところ確認できている。亜笠もよく動いてくれるし、この調子なら棚卸当日も大きな混乱なく終えられる気がした。 (もちろん、当日の入出庫次第だけど……)  薬剤を最後の一箱へ詰め、連絡書を挟み込む。封をして物流センター行きの棚に置いた。あとは午後の便で回収されるのを待つだけだ。  明日葉は腰を伸ばし、大きく息を吐いた。 「明日葉さ~ん」  詰所の窓口から会田が顔を出していた。 「会田さん、急配ですか?」  近付くと会田が伝票を差し出してくれた。 「エンタイビオの発注来ました。青梅病院です」 「何本出ました?」 「2本です」  会田がちょっと気の毒そうに微笑んだ。明日葉の肩ががっくりと落ちる。 「在庫残数4本かぁ……」 「月末にまとめてくるはずだって、江南さん言ってましたよ」  ファイトです明日葉さん、そう励まされる。会田はすぐに事務所へ帰っていった。  明日葉は倉庫で作業する亜笠に声をかけた。 「亜笠、おれエンタイビオの急配来たから行ってくるね」 「あ、じゃあ僕が行きますよ」  明日葉さん、返品データ確認したいでしょう、と言われて明日葉は唸った。その通りだった。 「ごめん、ありがと。じゃあ任せる」  伝票を差し出すと、亜笠は微笑んで頷いた。  配送車に乗る亜笠を見送って、明日葉は詰所のパソコンに向かった。返品データを黙々と確認していく。  ――――と、そこで返品承認が下りていない医薬品を一点間違えて箱詰めしてしまったことに気が付いた。 (あ、危なかった――――っ! やらかすところだった!)  慌てて倉庫に行き、返品物の封を開く。一点だけ取り出したところで、すぐ後ろから声がした。 「護」 「え――――」  振り返るより早く、背後から腕が回った。 「っ!」  突然抱き締められ、手に持っていた医薬品が床へ転がる。  首だけで振り向くと、雨宮がいつもの飄々とした笑みを浮かべていた。 「雨宮!? お前、何でここに……!」 「タクザイロの件でな。足立と一緒に来た」 「ちょ、人が……っ!」  慌てて辺りを見回す。詰所は大柴もおらず空だった。配送担当も出払っている。 「急配でも入らない限り、しばらくは誰も来ないだろ」  雨宮がにっこりと笑った。 「足立は江南さんと話してるし」  明日葉は胸の前に回った雨宮の腕を掴んだ。引き剥がそうとするが、ビクともしない。 「教育係だろ! いいのかよ、こんなところで油売ってて!」 「教育係が付きっきりじゃ教育にならん」 「今仕事中!」 「少しだけ」 「放せ!」  身体に力を込めるが、予想外に強い力で抱き締められた。放す気は毛頭ないらしい。  肩口へ額を預けるようにして、雨宮が小さく呟いた。 「ずっと会いたかった」  その一言に、明日葉の抵抗が止まった。 「……どうしていなくなった」  掠れた声だった。明日葉は動揺を気取られないよう、出来るだけ淡々と答えた。 「別れたかったから」 「俺は別れたくない」 「……いいから、放せよ」  雨宮は放さなかった。どころか、首筋に顔を埋めてくる。 「やめろってば!」  うなじを唇が這う感触がして、明日葉は渾身の力で腕を振りほどいた。ようやく拘束が外れ、明日葉は転びそうになりながらも雨宮から距離をとった。棚を背に雨宮を睨みつける。  雨宮はその姿を眺めて肩を竦めた。 「お前、変わったな。あんなに素直で可愛かったのに」 「だから、こっちの方が素なんだよ」  一瞬だけ沈黙が落ちる。雨宮は顎に手をあててにやりと笑った。 「まあ、そういうお前も嫌いじゃない」 「は?」  何を言っているんだこいつは。本気で理解できず眉を寄せた、その時だった。 「動画」  明日葉の顔色がサッと変わった。 「一緒に撮っただろ」  雨宮は穏やかな笑みのまま続けた。当時の記憶が蘇り、明日葉はぐっと拳を握った。 「……消せよ」 「彼氏が見たらどう思うだろうな」  雨宮は明日葉の反応を待つように見つめていた。 「勝手にしろ」  短く、だがきっぱりと言うと、雨宮の眉が僅かに動いた。 「へぇ……」  顔に浮かべた笑みは変わらない。 「随分信頼してるんだな」  一歩ずつ近付いてくる相手に、明日葉は棚に沿ってじりじりと後ずさった。 「そんなもの見せたって、何も変わらないって?」  その言葉に足が止まる。  亜笠の心配そうな微笑みが、脳裏を過った。 「……そういうことで、人を判断するやつじゃないから」  雨宮は足を止めた明日葉に近づいた。棚を背にする明日葉の両脇に手を付いて、逃げられないよう腕の中に閉じ込める。 「あいつとはもうセックスした?」  明日葉は雨宮の瞳を睨み上げた。 「お前に関係ないだろ」  言ってから、明日葉は失敗したと思った。これではしたと言っているようなものだ。唇を噛んだ明日葉に、雨宮の目の奥が冷たく光った。 「図星か」  顔は笑ったままで、声だけがやけに冷えていた。 「帰れ」 「……お前から誘ったのか?」 「うるさい! 帰れ!」  明日葉は雨宮の胸に両手をついて、その身体を押しのけた。雨宮はあっさりと明日葉を解放した。  床に落ちた医薬品を拾い上げて、包装を確認する。幸い、目に見える傷はついていなかった。 「返品できなくなったらお前に請求するからな!」  明日葉の怒鳴り声に、雨宮は肩を揺らして笑った。 「その時は領収書準備しといてくれ」  雨宮がそう言うと、絶妙なタイミングで足立が事務所から降りてきた。倉庫にいる上司を見るなり、こちらに走ってくる。 「部長! だから何でいなくなっちゃうんですかぁ!」  足立の悲鳴に、明日葉の背にどっと冷や汗が流れた。あと一分でも離れるのが遅ければ……と、明日葉は嫌な想像をした。 「あっ、明日葉さん! こんにちは! 部長がお世話になりました!」  半べそ状態だった足立が、明日葉を認識した途端に笑顔になった。さすが営業マン。礼儀正しく挨拶してくれる。 「ど、どうも……」  明日葉はぎこちなく返した。お前の上司、とんでもないことしてくれたけど……とは思ったが、口にチャックをした。 「部長、次行きますよ!」 「はいはい」 「『はい』は一回です!」 「お前俺の母親かよ」  背中をぐいぐいと押す足立に、雨宮が苦笑した。 「それじゃあ失礼します、明日葉さん!」 「お疲れ様です……」  明日葉はぎこちなく頭を下げる。足立は何も知らない。だからこそいつもの営業スマイルで挨拶してくれる。その無邪気さが眩しかった。明日葉は顔を引き攣らせた。  雨宮が振り返った。視線がかち合う。 「じゃ、またな」  軽い口調だった。まるで来週も仕事で顔を合わせる取引先に向けるような、何気ない挨拶だった。  二人は倉庫を後にした。やがて営業車のエンジン音が響き、河和の駐車場から車が走り去っていく。  明日葉はようやく大きく息を吐く。 「はぁあああ……」  膝から力が抜け、その場に蹲る。明日葉は首筋を押さえた。  ――――まだ唇を寄せられた感触が残っていた。  小刻みに手が震える。 (あいつ……力強すぎなんだよ……)  舌打ちして、膝に手を付いて立ち上がろうとしたその時、倉庫の入口が開いた。 「戻りました」  聞き慣れた声に顔を上げると、急配から戻ってきた亜笠が保冷箱を抱えたまま立っていた。明日葉は何事もなかったかのように立ち上がった。 「おかえり」  亜笠は保冷箱を置くと、明日葉の顔をじっと見つめた。 「今、雨宮さんの営業車とすれ違いましたけど……」  亜笠は少しだけ窓の外を振り返った。 「何かあったんですか」 「何もない」  亜笠の問いかけに、明日葉は不自然なほどはっきりと即答した。 「大丈夫」  そう言って微笑んだ。  亜笠は何も言わなかった。だがその視線は、小刻みに震える明日葉の手に落ちていた。 「……そうですか」 「そんなことより、これ! おれ間違えて未承認の返品送るとこだったよ!」  気が付いてよかった、と明日葉は亜笠に現物を見せながら笑った。  その笑顔とは裏腹に、医薬品を持つ手はまだ小さく震えたままだった。  亜笠は何も言わなかった。  その瞳の奥の決意に、必死で震えを誤魔化す明日葉は気付かなかった。

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