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第1話 プロローグ
幼い日の記憶は、常に光と静寂の中にあった。
敬虔なカトリック教徒である母に手を引かれ、エイドリアンはフィレンツェの石畳を歩いていた。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。
見上げるほどの壮麗なドーム、壁面を埋め尽くすフレスコ画、そして降り注ぐステンドグラスの光彩。その圧倒的な美しさに、幼いエイドリアンはただ言葉を失っていた。
「……綺麗ね、エイドリアン」
そう微笑んだ母の横顔は、聖女のように美しく、けれどひどく寂しげだった。
イタリア人の母と、日本人の父。二人の間に横たわる溝は、当時すでに修復不可能なほど深まっていたのだろう。日本という異国の水に馴染めず、夫とも反りが合わなかった母は、エイドリアンが八歳の時に離婚を選んだ。
事実上、どちらにも親権はあった。母はエイドリアンを故郷イタリアへ連れ帰ることを切望したが、彼は日本の学校に残ることを選んだ。
結果、母は一人で帰国した。父と自分を残して。
かつては愛し合い、その結晶として自分がここにいるはずなのに。
最愛の父と母が、自分という所有権を巡って罵り合う姿は、エイドリアンの心をやすりで削り取るように消耗させた。
その時、彼は悟ったのだ。
愛など、いつでも安易に|上書き《オーバーライト》できる感情データに過ぎない、と。
「……愛してる、エイドリアン」
「僕もだよ。愛してる」
甘い囁きが、夜の帳に溶けていく。
エイドリアンは知り合って間もない男の肩を抱き、慣れた手つきで髪を撫でた。相手が女の時もあるが、そこに大した違いはない。
今どき珍しいことでもないし、彼にとっては食事のメニューを選ぶ程度の差でしかない。
互いに孤独を埋め、快楽という利害が一致しただけの関係。
使い捨ての恋人を抱き寄せながら、エイドリアンはふと、あの日の大聖堂のステンドグラスを思い出していた。
美しく、冷たく、手の届かない光。
今の彼には、この空虚な温もりこそがふさわしいのだ。
そんなふうに信じて疑わなかった。
少なくとも、16世紀の空に投げ出されるまでは――。
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