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第4話 運命の歯車

 アトリエの窓から柔らかな光が差し込み、木の床とキャンバスを淡く照らしていた。  ダンテ・ディ・サントロは、漆黒の髪を後ろで束ね、琥珀色の瞳を細めながら筆を運んでいる。絵具の匂いと木の香りが満ちる空間に、外の喧騒は遠い。    「――ダンテ、またお前宛の招待状が届いておったぞ」  父の声に振り返れば、赤い封蝋の束が掲げられていた。形式ばった美辞麗句が並ぶ、社交界の符牒のような封筒の数々。  ダンテは眉をわずかに上げただけで、筆を止めようとはしない。  「父上……またですか」 ​ 「ああ、舞踏会に文芸の集いにと引く手あまただ。……皆、お前がいつ公爵の御沙汰(ごさた)を受けるか探っているのだ。だが、それはどうでもいい」  ​父親は苛立ちを抑え込むように、低く、重い声で続けた。 ​ 「問題は、お前がこの期に及んで芸術などという曖昧なものに熱中し、いつ公爵に召されてもいいという“構え”がないことだ。もう二十六だぞ。いつ、公爵の命で最良の相手との婚姻が決まっても、すぐに動ける態勢でいるべきだろう」     ダンテは苦笑し、絵具をのせた筆を静かにキャンバスへ走らせた。  (結局、話はそこに行き着く……)  「それなら、アンドレアがいるではありませんか」  「九歳の子に何を言う」  「では、成人するまで待てばよいでしょう」  「待てるか!」  「絵筆の方が、私にはよほど相性が良いのですよ」  父は大きく息を吐き、諦めたように肩をすくめた。  ダンテの胸には、後ろめたさと反発とが同時に浮かぶ。  彼は知っていた。自分がこの血筋、この家に生まれた瞬間から、人生の選択肢など存在しない。自分は、このフィレンツェ公国のフェデリコ・フィオレンツァーニ公爵という支配者の外交戦略のための、最も高価な「駒」であり、他国の王族や貴族との婚姻という「契約の証」として用意されているのだ。  ​自分の身体も、意志も、未来さえも、すべては公爵によって描かれる壮大な一枚の絵図の構成要素に過ぎない。 ​  (私に許されたのは、駒として命じられるその日まで、ただ“待つ”ことだけか……)   ​ そのあまりに無力で屈辱的な現実に、胸の奥で煮えたぎるような怒りが渦巻いた。彼の芸術への没頭は、もはや単なる趣味ではない。それは、自分の人生が誰にも束縛されない、自由な瞬間を奪い取るための、静かで絶望的な抵抗だった。公爵の絵図にはない、己の意志と情熱だけで創り上げられる世界こそが、彼にとって唯一の真実だった。  心に重く沈む思いを、筆の動きで紛らわせるように色を重ねる。  父が立ち去りかけ、ふと振り返った。  「……一つ言い忘れた。朝の礼拝で、フランチェスコ司祭から――異国の旅人を使用人にどうかと声をかけられてな」  ダンテは思わず手を止め、声を上げる。  「……了承されたのですか?」  「いや。お前の判断に任せたい。明日にでも行ってみよ」  再び部屋に静寂が戻る。  ダンテは机に置かれた招待状の束を見下ろし、わずかに眉を寄せた。  (異国の旅人……司祭の推薦。軽く扱う話ではないな)  父の信頼が重くのしかかる。けれど、それ以上に胸の奥にかすかな好奇心が芽生えていた。  (まずは会ってみるだけ――それでいい)  筆を握り直す。光と影の世界はまだ彼を手放さない。それでも明日が、ただの日常ではないことを予感させていた。  ***  施療院の薄明かりが石壁に柔らかく反射している。藁布団の上で身を起こしたエイドリアンは、昨夜の疲れをまだ微かに引きずりつつ、目の前の木製テーブルに置かれた朝餉のパンとスープに手を伸ばした。  (掃除と洗濯を手伝っただけで、こんなに疲れるなんて……情けない)  未来では掃除も洗濯も、ボタンひとつで機械がすべてやってくれる。それに比べ、この十六世紀では洗濯板のような道具もなく、足で踏んだり石で叩いたりして汚れを落とさねばならなかったのだ。  しかし、そのすべてが、エイドリアンには新鮮で、どこか心を躍らせるものでもあった。手にしたパンの素朴な香り、湯気の立つスープの温かさ、石造りの冷たい空気と藁の匂い――これらの感覚が、未来の整然とした機械文明では味わえない、生きている実感を彼に与えていた。  (……千年近くも前の世界が、こんなにも生々しく、鼓動している……)  初めての感覚に戸惑いながらも、エイドリアンの胸の奥に、微かだが確かな好奇心が芽生えていた。それは、彼が未来で失っていた「人間らしさ」の感覚だった。  「――エイドリアンさん、失礼します」  司祭の静かな声がドアの向こうから響き、エイドリアンは顔を上げた。  慌てて口の中のパンを飲み込み、そっとドアを開ける。  「エイドリアンさん、少々お時間をいただけますか。今、あなたに興味をお持ちの方がお見えになっております」  その一言に、エイドリアンは思わず息を呑んだ。  確かに働き口を探していたとはいえ、まさか昨日の話がもう動き出すとは思っていなかった。  胸の奥で、驚きと期待が入り混じり、体がわずかに緊張する。  (今日……もう? 本当に、僕のような者に……)  司祭が軽く頭を下げ、示すように手を動かす。促されるまま、ゆっくりと視線を上げると、礼儀正しく、気品ある紳士が静かに歩み寄ってきた。  「エイドリアンさん、こちらはカルロ・ディ・サントロ伯爵のご令息、ダンテ様です」  漆黒の髪を後ろで束ね、落ち着いた茶色の瞳を持つ青年が一歩進み出る。真っ直ぐな立ち姿、上質な衣服に包まれた気品は、貴族の名にふさわしかった。  エイドリアンの胸の奥で、緊張と微かな好奇心が入り混じる。  「ダンテ様、こちらはエイドリアン・ミズノさんです」  「お目にかかれて光栄です。エイドリアン・ミズノと申します」  エイドリアンは思わずいつもの習慣で右手を差し出した。握手を求めるつもりだった。  だが、ダンテは豆鉄砲を食らったように言葉を失い、ただ見つめている。  そこでようやく、エイドリアンは自分の行動がまずかったことに気づいた。  (……しまった。目下の者から握手を求めるなんて、無礼だったのだろうか……)  エイドリアンは顔を赤らめ、慌てて手を引っ込める。  ――だが、ダンテが言葉を失った理由は、無礼を責めるためではなかった。  その眼差しは、まるで稀代の傑作を発見した芸術家のように、エイドリアンをまっすぐ見据えている。  均整の取れた顔立ちに、柔らかな麻色の髪。瞳は夜空に溶けたサファイアのようで、異国の装いと相まって、全体の印象を鮮烈にしていた。  エイドリアンには理由はわからない。ただ、彼の静かな驚きが伝わってくるようで、胸の奥がちくりと熱くなる。  「エイドリアンさんは遥か異国の地より参られました。こちらの作法にはまだ不慣れなのです。大目に見ていただけますかな」  司祭が気遣うように取りなすと、エイドリアンはさらに頭を下げた。  「も、申し訳ありません。大変失礼いたしました……」   「あ……あ、いや、すまない。驚いてしまっただけだ」  そう言って、今度はダンテの方からそっと右手を差し出した。  「……改めて。ダンテ・ディ・サントロだ。お目にかかれて光栄だよ」  エイドリアンは戸惑いつつも、その手を握り返す。温かな掌が重なった瞬間、胸の鼓動がひときわ強く響いた。  「……よろしければ、もう少し詳しく伺いたい。こちらでお話できるだろうか」  司祭が一瞬驚きつつも「それでは、私は外で待っております」と微笑んで部屋を後にすると、戸口が静かに閉じられた。残されたのは、ダンテとエイドリアン、ふたりきり。    ​途端に、密室の空気の密度が変わったように感じられた。司祭の落ち着いた存在が消えたことで、部屋の静けさはかえって際立ち、心臓の鼓動がやけに耳に響く。  ダンテは藁布団の端に軽く座り、落ち着いた視線で彼を見つめる。それは、もはや求職者を見る目ではなかった。  「申し訳ありません。僕の言葉はお聞き苦しくありませんか」  エイドリアンの問いかけに、ダンテは小さく口元を緩める。  「確かに、かなり訛っているな……。だが、意味は十分に伝わる。心配はいらない」  そう言うと、彼は隣を示すように片手を軽く差し出した。促す仕草は威圧とは程遠く、むしろ来客をもてなすような温かささえ宿している。  エイドリアンは胸の奥に広がる緊張を押さえ込みながら、ゆっくりと腰を下ろした。    近い。  ほんの腕一本ほどの距離に、彼の深い森の奥を覗くような茶色の瞳がある。真っ直ぐに向けられた視線に、エイドリアンは喉を鳴らすのもはばかられた。  「エイドリアン、と言ったな」  「は、はい」  「この町には、どのような経緯で?」  ダンテの声は柔らかい。それでいて、単に身元を確かめるためだけではない、熱のようなものが潜んでいた。言葉の向こうに、その人物を理解したいという切実な欲求が滲み出ているかのようだ。    (……未来から来たなどと言えるはずもない。だが、すべてを偽れば、いずれ綻びが出るだろう)  エイドリアンは深く息をつき、言葉を慎重に選びながら、嘘と真実を織り交ぜて答えることにした。    東洋人の父とトスカーナ出身の母を持ち、亡父の遺産を手に母を訪ねる旅の途中で山賊に遭った――。  用意した偽りの身の上話は、実にありふれた、それゆえに疑われにくいものだったはずだ。  ダンテは眉間に皺を深く刻んだまま、神妙な面持ちで頷いた。  エイドリアンは手元に視線を落としたまま、ゆっくりと言葉を続ける。    「フィレンツェに辿り着いた頃には、着の身着のままで……母の行方も掴めず、途方に暮れていたところを、司祭様にお助けいただいたのです」    沈黙が落ちる。  窓辺から差し込む光が、ダンテの横顔を縁取っていた。強さと繊細さを同時に宿した輪郭に、エイドリアンは思わず息を呑んでしまう。  「……そうか。それは、災難だったな……」  低く洩れた声には、驚きと同情が複雑に絡み合っていた。  しばし沈黙したのち、ダンテはためらいがちに口を開く。   「失礼だが、歳を聞いてもいいだろうか」  「はい。僕は二十五になります」  「二十五……!? 私と一つしか違わないのか? 十代にしか見えない」  驚きを隠せないダンテに、エイドリアンは苦笑を浮かべた。  「よく言われます。きっと幼く見えるのは、東洋の血のせいでしょう」  「いや、気を悪くしないでくれ。……君は、その……とても印象的だ」  「……ありがとう、ございます」  真っ直ぐに向けられる視線に、エイドリアンは居心地の悪さを覚えながらも、自分を拒まず受け入れてくれることに、どこか安堵していた。  少しの沈黙ののち、ダンテは言葉を選ぶように口を開いた。  「……実は、使用人が一人、故郷に帰ってしまってね。今、新しい働き手を探している。もし君さえよければ――私のもとで働いてはくれないだろうか」  エイドリアンは思わず目を見開く。あまりに都合のよい展開に、胸の奥で戸惑いが渦を巻いた。  「……本当に、僕でいいのですか?」  その問いに、ダンテはふわりと微笑み、確かめるように言葉を添える。  「ああ。君がいいんだ。君でなければ、意味がない」  その眼差しには、仕事上の打算を超えた関心と、純粋な好奇心が宿っていた。心の奥まで見透かされそうな気配に、エイドリアンは息をのむ。  やがて彼は小さく頷き、静かに答えた。  「……はい。喜んでお受けいたします」  ダンテの笑みが、柔らかい光のように部屋を満たした。  「そうか、ありがたい。では、すぐに手続きを整えよう。今日からでも来てもらえると助かる」  その日、エイドリアンは伯爵家の邸宅へと導かれていった。  胸の奥に芽吹いたのは、不安よりも――静かな期待と、初めて覚える安堵の感情だった。

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