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第6話 使用人初日
柔らかな布団の温もりに包まれながら、エイドリアンはゆっくりとまぶたを開いた。初めての夜のせいか、深い眠りとはいかなかったが、心地よい疲労が体の芯に残っている。
身を起こすと、机の引き出しにしまっていた通信デバイスをそっと取り出し、履歴を確かめる。しかし、クロノス機関本部からの連絡は――やはり途絶えたままだった。小さく息を吐き、エイドリアンは無言で端末を引き出しに戻す。
その後、部屋に用意されていた給仕服に手を伸ばす。まだ見慣れない衣服に戸惑いを覚えながらも、丁寧に袖を通し、身なりを整えていく。鏡に映った自分の姿を見つめ、わずかに背筋を伸ばした。
(大丈夫だ、エイドリアン。ここには暖かい寝床がある。食事にも困らない。――最高の環境じゃないか)
心の奥にはびこる不安を押し込めるように、自らを励ます。
小さな緊張を胸に抱えつつ、ルチアーナに導かれたエイドリアンは、中庭の水場の傍らに立つと、思わず息をのんだ。
石組みの井戸と、そこに連なる貯水槽。鉄の滑車に通された縄がきしむたび、冷たい水面が陽光を弾く。
――文献でしか見たことのない光景だ。
桶を両手で抱え、ルチアーナの見よう見まねで井戸へと下ろす。重みで縄が軋み、水の底から上がってきた冷気が肌を撫でた。
彼女は軽やかに桶を引き上げながら、「ほら、溢らさないように」と微笑む。
エイドリアンは慎重にその桶を抱え上げ、石畳の廊下をゆっくりと運んだ。水が縁からこぼれ、足もとに光る輪を描く。その一滴一滴が、この時代の息づかいそのもののように思えた。
水汲みを終えると、次は屋敷内の基礎的な掃除に取りかかることになった。
「今日は屋敷の構造と動線に慣れてもらうことが目的です。高価な家具や調度品には手を触れず、埃払いから始めましょう」
ルチアーナの指示に従い、エイドリアンは廊下の床をほうきで丁寧に掃き、広間の椅子やテーブルの埃を柔らかな布で拭いた。
石の床を踏むたび、かすかな靴音が静かな室内に響く。窓から差し込む朝の光、遠くで馬のいななきがかすかに重なる――すべてが新鮮で、彼の手先はまだぎこちなかったが、心は少しずつ落ち着いていくのを感じた。
次に、簡単な配膳の補助を任された。食堂に運ばれた皿をテーブルへ置き、椅子を整える。食器は重厚で、一つ一つの扱いに緊張が走る。
「慎重に、慌てずに」とルチアーナの声が背中に届き、エイドリアンは深く頷く。
午後には、中庭での軽作業が待っていた。落ち葉を掃き集め、庭の小道を整える。手に馴染まぬ道具に戸惑いながらも、広い屋敷の空気と庭の緑に触れるうち、彼は少しずつ自分がこの場所に溶け込んでいく感覚を覚えた。
「あなたが、エイドリアン?」
庭の手入れをしていたエイドリアンが、澄んだ鈴の音のような声に振り向くと、まだあどけなさを残しながらも利発そうな少年が、人懐っこい笑顔を浮かべてエイドリアンを見上げていた。
「……はい。あの、あなたは……」
戸惑い気味に言葉を探すエイドリアンの横で、控えていたルチアーナが柔らかく口を添える。
「旦那様のご子息、アンドレア様でいらっしゃいます」
エイドリアンはすぐさま、手に持っていた熊手を脇の地面に置き、ルチアーナに教わった通り――少し誇張された異国の礼作法で、片膝をついて深く頭を垂れた。
「突然の御前に失礼いたしました。東洋の国から参りました、エイドリアンと申します。アンドレア様、この身は今日より、一家の忠実なる下僕としてお仕えいたします」
その儀礼的な姿勢に、アンドレアは一瞬目を丸くしたが、すぐに得意げに胸を張り、ぱっと笑顔を弾けさせた。
「うん! これからよろしくね!」
「……ダンテ様に弟君がいらしたのですね」
思わずもれたエイドリアンの声に、アンドレアは満足そうに頷いた。
「ねえ、エイドリアンは東洋のどこから来たの?」
「僕は……日本――ジパングという名の、遥か東の国から来ました」
「ジパング? ぜんぜん知らないや! どんな国なの? どれくらい遠い? みんなそんな目の色をしているの?」
矢継ぎ早に問いかけるアンドレアに、ルチアーナが慌てて口をはさんだ。
「若坊ちゃま、今はエイドリアンさんにこちらでのお仕事を覚えていただいている最中です」
「えー? ちょっとくらい、いいじゃないか」
子犬のような瞳で見上げられ、ルチアーナは小さくため息をつく。
「……まったく。仕方ありませんね。では、少しだけお相手をお願いできますか、エイドリアンさん」
「はい。喜んで」
アンドレアは嬉しそうに手を打ち鳴らした。
***
大きなガラス窓に囲まれたアトリエは、明るく静寂な空気に満ちていた。差し込む陽光は、木の床に淡い模様を描き、壁際のキャンバスや制作途中の絵画を柔らかく照らしていた。だが、その光は絵具にとってはあまりに強く、長時間直射は色褪せやひび割れの原因となりかねない。
窓際には、薄手の布がそっと垂らされ、光を和らげる遮光の工夫がなされていた。ダンテは筆を握りながら、光のその微妙な具合を確かめる。アトリエ全体が、光と影の絶妙なバランスの中で、描かれたものたちの息遣いを守っているかのようだった。
外光に揺れる微細な埃すらも、まるで絵の一部であるかのように見えた。静かなアトリエの奥には、創作の時間がしんと息づいている。
ふと、ガラス越しにアンドレアの笑い声が風に運ばれて届いた。窓の外を見下ろせば、中庭で給仕服に身を包んだエイドリアンが、ボール遊びに夢中なアンドレアの遊び相手を務めている。夏の強い陽光の下、汗をかきながらも笑顔を絶やさない。その中を吹き抜けた涼しい風が、秋の気配をほんのりと運んできた。
ダンテがその横顔に自然と視線を奪われた瞬間、エイドリアンがふとこちらに気づき、目が合った。
その瞬間、胸の奥にかすかなざわめきが広がり、思わず息をのんだ。エイドリアンは少し照れくさそうに微笑み、小さく頭を下げると、再びアンドレアへと向き直る。残された鼓動の余韻だけが、静まり返ったアトリエに長く響いていた。
***
燭台の炎がゆらめき、葡萄酒と肉料理の香りが広間を満たしていた。長い一日の終わり、一家が食卓に揃い、穏やかな声が飛び交う。
その席で、アンドレアが椅子から身を乗り出し、無邪気に声を上げた。
「ねぇ聞いて! エイドリアンってすごいんだよ! イングランド語と……えっと、ジパング語? もしゃべれるんだ!」
突然のひと言に、広間の視線が自然と控えに立つエイドリアンへと注がれる。カルロ伯爵は銀の杯を置き、興味深げに口を開いた。
「ほう、それは凄い。では一つ、聞かせてもらえるか」
エイドリアンは一瞬ためらいながらも、静かに前へ出た。背筋を伸ばし、柔らかな炎に照らされながら、澄んだ声で口を開く。
「“Today is a fine day.”」
異国の調べのような響きが広間に落ちると、しばし沈黙が続き――ジュリア夫人が感嘆の声を洩らした。
「まぁ……まるで歌を聴いているようですわ」
ダンテもにこやかに頷き、
「優雅な響きですね」
と続ける。
「意味はね、『今日はいい天気です』なんだって!」
アンドレアが得意げに通訳すると、カルロ伯爵は愉快そうに笑った。
「はは、確かに良い天気だったな」
「ねえ、さっき聞かせてくれた異国の歌も、もう一度歌ってよ!」
アンドレアの無邪気なリクエストに、エイドリアンは思わず固まる。
(……貴族の子供の、おもちゃにされている……)
「あの……皆様に聞かせられるほどのものでは……」
しかしダンテが、グラスを置きながら柔らかく微笑む。
「構わない。私も聞きたい。少し歌ってみせてくれ」
エイドリアンは一瞬、言葉を失う。自分は有名な歌手でもなければ、オペラの舞台に立つ者でもない。まさか、こうして貴族の家族の前で歌うことになるとは思わなかった。
さきほど中庭でアンドレアにせがまれて歌ったのは、日本の童謡『どんぐりころころ』だった。子供がはしゃぐにはぴったりの歌だが――さすがに、ワインを傾ける貴族たちの食卓で「どんぐりころころ〜」とやる勇気はない。エイドリアンは内心で頭を抱え、必死に別の曲を探した。
(……母国の童謡『ふるさと』なら、まだ上品に響くはずだ)
そう自分に言い聞かせ、ひとつ息を整える。
小さく肩を落とし、深く吐息をこぼしてからそっと口を開いた。その歌声は、柔らかくも澄んでいて、夜の食卓に静かに溶けていく。
歌い終えると、食卓は一瞬、深い静寂に包まれた。胸の奥がざわめき、思わず身をすくめる。拍手一つ起こらず、視線も自分に注がれたままだ。
(……え、なにかやらかしてしまったか!?)
内心で冷や汗がじわりと広がる。
その沈黙を破ったのは、ダンテだった。目を細め、口元にわずかな笑みを浮かべて静かに告げる。
「……なんて美しい調べなんだ」
その言葉に、カルロ伯爵もジュリア夫人も、ようやく顔をほころばせる。柔らかな笑みが広がり、皆、ただ言葉を失い、心からその歌声に聴き入っていた。
(……よかった。とんでもないことをしてしまったわけじゃなかった)
張りつめていたものがほどけ、エイドリアンはそっと肩の力を抜いた。
「ねえ、もっと歌ってよ!」アンドレアが嬉しそうに拍手しながら声を上げる。
ダンテは頷き、ジュリア夫人も優しく見守る中、食卓には和やかな笑い声が広がり、ワインの香りを乗せて穏やかな夜が静かに流れていった。
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