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第9話 夜明け前の青

 エイドリアンは羊毛の掛け布に体を沈め、温もりに包まれながらも、頭の中は昼の出来事でいっぱいだった。  (落ち着け。彼はただ、異国人に興味を抱いているだけだ。僕自身を好きなわけじゃない……)  そう理性が言い聞かせる。しかし、胸の奥の鼓動はなおも熱を帯び、静まる気配を見せない。  これまでの恋愛を思い返す。女性とも男性とも付き合ったことはある。けれど、どれも長くは続かなかった。    過去の繋がりは、すべて効率と互恵の上で成り立っていた。  ――いつか消えることを前提とした、薄く儚い慰めにすぎない。  淡く終わった想い、気づかれぬまま散った感情、胸の奥に沈めた憧れ。未来という加速する時間の中で、それらは使い捨ての感情データのように、容易に上書きされていった。  今思えば、ほんの小さな波に過ぎなかったのだろう。  だが、ダンテの視線や言葉は違う。ひとつひとつが胸に熱い鉄を押し当てられたように刻まれ、消えることなく残り続けている。あの真剣な瞳に、自分という存在を鮮烈に、二度と複製できない絵画のように映してくれる感覚――過去に経験したどの恋愛とも似ているようで、決して同じではない。  (……いや、過去の恋愛と比較したところでなんになる?)  ダンテはいつか家のため、国のために政略結婚を強いられるだろう。  そして自分には、未来へ帰還しなければならないという絶対の義務がある。  エイドリアンは瞼を伏せ、胸の奥で芽生え始めた熱を必死に押し込めた。  この感情には名前を与えてはいけない。  与えてしまえば――帰る場所も、理性の鎖も、すべてが千切れてしまう。  (……ダンテ・ディ・サントロ……)  名を心の中で呼んだ瞬間、胸が痛んだ。  その痛みが、まだ“恋”ではないことを祈るように、エイドリアンは掛け布に顔をうずめる。  けれど、夜の静けさに耳を澄ませば、  彼の名前を呼ぶように、鼓動だけはどうしようもなく高鳴り続けていた。    ***    翌日、モデルの件で「エイドリアンを借りたい」とダンテからルチアーナに伝えられていたため、エイドリアンは再び彼のいるアトリエへと足を運んでいた。  秋晴れの、柔らかな日差しが差し込むアトリエで、エイドリアンは深呼吸をひとつし、ダンテの前に立った。  「では、最初のポーズを……」  ダンテの声は穏やかだが、どこか熱がこもっていた。エイドリアンは肩の力を抜き、指示に従う。  椅子に腰かけ、背筋を伸ばす。手の置き方、視線の角度、呼吸の間隔まで意識しながら、初めてのモデル体験に戸惑いつつも身を任せる。  ダンテはエイドリアンの輪郭や肩のラインを目で追い、木炭で慎重に下描きを進める。その視線は緻密に観察する芸術家のそれでありながら、微かに熱を帯びているのが伝わった。  エイドリアンは心の中で、自分が単に「芸術的に面白い被写体」として見られているのだろうと言い聞かせる。だが、胸の奥は妙にざわつき、肌のすぐ下で鼓動が跳ねる。  「少しだけ右手を上げて、もう少し顔をこちらに向けて」  ダンテの声に、エイドリアンは慎重に動きを合わせる。指示のたびに、木炭の先が身体の近くを行き来する。ほんの一瞬でも触れるかのような距離に、思わず肩が強ばった。  それでも、ダンテは何も言わず、ただ静かに観察し続ける。その真剣な視線に、エイドリアンは胸の奥が熱くなるのを感じた。  (ダメだ……平常心を保たなければ……)  だが、視線が交わるたび、思わず頬が熱くなるのを止められなかった。    キャンバスに向かっていたダンテが、指先を動かしながら、静かに口を開いた。  「君の母上は、トスカーナの出だと言っていたな。……君の祖国では、国籍や身分に関わらず、自由に結婚できるものなのか?」  異国の制度や価値観を思い描こうとするその瞳には、純粋な好奇心が滲んでいた。  (十六世紀半ばの日本は、ちょうど戦国の世。ここルネサンスのフィレンツェと同じく、身分の高い者には自由な恋愛など許されない)  エイドリアンは少し考え、静かに答えた。  「……いえ。僕の国でも、身分の高い人たちは戦略結婚がほとんどです。ただ、僕の父と母は庶民でしたから……好きあって一緒になったと聞いています。もっとも、僕がまだ幼い頃に別れてしまいましたが」  「……そうか」  ダンテは小さく頷き、目を細める。その声音には、どこか労わるような響きがあった。  「……しかし、君は庶民とはいえ、豪商の子息だったのだろう? 東洋の裕福な家の生まれにしては――剣の構えも、馬の扱いも知らなかったのはなぜなんだ? 東洋の若者は皆、飾り棚の置物のように暮らしているのか?」  ダンテは木炭を滑らせながら、ちらりと視線を上げる。その瞳には、対象を見極めようとする画家の鋭さと、相手をからかうような悪戯めいた光が混じっていた。  エイドリアンは思わず目を逸らす。  ここへ来たばかりの頃、何もできず右往左往していた自分の姿が脳裏に浮かび、羞恥がこみ上げる。  「そ、それは……! 東洋とは道具も勝手も違ったので、戸惑ってしまっただけです。慣れない環境だったからで――」  「ふっ。よくそんな状態で海を渡ってこられたものだ。このフィレンツェまで辿り着いたのは、まさに奇跡だな」  「……放っておいてください!」  語気を強めたエイドリアンの頬が、悔しさと照れで朱に染まる。  その反応を見て、ダンテは満足げに唇の端をわずかに吊り上げた。  「分かった。不器用なのは認めよう。だが、それもまた――君の数少ない欠点のひとつにすぎない」  木炭を走らせる音が再び静寂の中に戻る。  ダンテの視線は、エイドリアンの瞳から、緊張に固くなった顎のラインへ、そして首筋へとゆっくりと移っていった。  「だが、この屋敷に来てから――火の起こし方も、薪の組み方も覚えただろう? 私のために、君は見違えるほど成長している。その健気さが、私の創作意欲を刺激する」  ​戸惑いながらも顔を上げると、ダンテの瞳は先ほどの意地の悪い光ではなく、純粋な熱意と温かさを湛えていた。    「……僕、ここへ来てから毎日楽しいんです。薪割りもそうですけど、料理も文化も習慣も、初めて見るものばかりで……世界はこんなに胸を躍らせるものだったんだなって」  ダンテは手を止め、一筋の光を見る囚人のように、エイドリアンを見つめ、やがて視線をキャンバスへと戻した。  「そうか。君がそんな風に見てくれるなら、この鬱屈したフィレンツェの空の下にも、まだ価値があるということだ」  「君は、私がとっくに見慣れて、諦めていたもの全てを、新しく、自由な光で照らしてくれる。私こそ、君に感謝しなければならない」  その言葉は、ダンテの「駒」としての宿命を、エイドリアンの胸に鋭く突きつけた。  エイドリアンは、ダンテのささやかな仕草の奥に、フェデリコ公爵の権力が及ぶ、フィレンツェという都市に根付いた複雑な身分社会を垣間見る気がした。彼が「鬱屈した空」と表現した世界は、彼自身の意志を許さない、巨大な檻に他ならない。  いつか彼が、公爵に決められた相手との政略結婚を強いられるとき。  ――そのとき、どうか彼を本当に理解し、心から愛してくれる令嬢でありますように。  エイドリアンはそう祈らずにはいられなかった。    それは、彼が未来へ帰るという「時の壁」の向こうに、ダンテの幸福を託し、「彼を独占したい」という自らの本心を永遠に封じ込めるための、絶望的な自己犠牲だった。 ​ もし自分が、この時代のただの人間であったなら、迷わず彼の「自由な光」になろうと、この身を捧げただろう。未来からの異邦人であるエイドリアンには、その選択肢さえ許されていなかった。     そうして一時間ほど過ぎた頃、ふと、ダンテが筆を置き、木炭を軽く振り落として息をついた。  「よし……ひとまずここまでだ。少し休憩を入れよう」  エイドリアンはホッと息を吐き、肩の力を抜いて椅子から立ち上がる。伸びをすると、固まっていた筋肉がゆるむのがわかった。  「はぁ……思った以上に緊張しますね、座っているだけなのに」  ダンテは微かに笑みを浮かべ、こちらを見やり短く言った。  「……少し待っていてくれ」  そう告げて部屋を出ていく。  残されたエイドリアンは、静まり返ったアトリエでひとつ深く息を吐いた。  窓の外に視線を向ければ、空はゆるやかに茜へと染まり、傾きかけた陽が長い影を落としている。    やがて戻ってきたダンテの手には、小さな銀の皿と琥珀色の飲み物の入ったグラスがあった。皿には蜂蜜で艶やかにコーティングされたアーモンド菓子が数本並び、甘い香りが漂っている。  「口にして、少し緊張をほぐすといい」  差し出される仕草は自然そのものだが、その一瞬にさえ、エイドリアンの心臓は跳ねた。  「……ありがとうございます」  受け取る手がわずかに震える。ひと口かじれば、香ばしい甘さが広がり、強張っていた心がほどけていく。  その優しさに、思わず笑みが零れそうになり、慌てて唇を結んだ。  (……いけない。こんなことで心を揺らしては)  「美味しいです」  努めて平静を装い告げると、ダンテは満足げに目を細め、机の端に肘をついて、アーモンド菓子を頬張るエイドリアンを静かに見ていた。  「……君の瞳の色は、不思議だな」  ふいに、低く柔らかな声が耳を撫でた。  「普段は曇り空のようなのに、光が差すと澄んだ青空に見えて……今は、夜明け前の空のように見える」  真っ直ぐな視線を受け止めた瞬間、何かが壊れてしまいそうな強さを感じた。  「……気づけば、ずっと見ていたくなってしまう」  その一言が胸に刺さり、呼吸が浅くなる。  ほんの一瞬――“このまま帰れなくてもいい”と思ってしまった自分に気づく。  それが何より、恐ろしかった。  (出会ったのが十六世紀のフィレンツェでなければ……)  思わず肩が震えた。胸の奥がざわつくのに、頭は必死にそれを否定する。  「……そんなふうに言われたのは、初めてです」  ひりつく喉から、ようやく絞り出すように声が漏れる。  ダンテは微かに笑みを浮かべ、静かに言った。  「……私も、初めて言った」  意外な言葉に、エイドリアンは思わず彼を見返す。  ダンテは少しだけ視線を逸らした。  普段は真面目で落ち着いた彼の、ふとした仕草が妙に幼く見えて、目を離せなかった。  「……てっきり、社交の場で言い慣れているのかと」  「……いや、私は嘘が下手だからな。心にもないことは、そうやすやすとは言えない」  静かな声に、有無を言わせぬ確信が宿る。  視線が絡み合う短い間に、室内の空気がひそかに熱を帯びた。  「……世辞だと思ったのか?」  「……はい」  「そうか。なら、何度でも言おう。君は――美しい。いや、美しいという言葉すら陳腐に思えるほどに……私は君に魅了されている」  その言葉は、エイドリアンの心臓を直接掴むように響いた。  彼が冗談を言っていないことを、冷たい理性が否定しようとしても、熱い鼓動が証明していた。  「……それは、芸術家として……ですか?」  思わずこぼれた言葉に、自分でも驚く。  理性では「ただの観察」と割り切ろうとしても、胸のざわめきは止まらない。  ダンテは一瞬考えあぐねるように間を置き、視線をそらしたまま、小さくつぶやいた。  「……ああ」  その一言が、胸の奥を鋭く刺した。  (……もし、彼にそうじゃないと言われたら、どうするつもりだったのか)  「……ありがとう、ございます。光栄です」  声は穏やかに保ちながら、疼く痛みをごまかすように言葉を口にする。怖いほど甘い感情を、誰にも悟られぬよう胸の奥深くに押し込めた。  それでも目を戻すと、わずかに震える指先と、真剣な眼差しがこちらを捉えていた。  その視線に触れるたび、心はかき乱され、抗えなくなっていった。  

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